たまたま最近私が書いたエッセイ(note)とシンクロするような気がした文章を発見しました。
おそらく、何を、どんな手段で表現しようとも、
「なにかを表現する」
ということは、
「なにかを表現しないこと」
にどうしてもなってしまうのだ。
できるだけ多様性を包含しながら、
様々な意味合いや可能性を包含しながら伝えたいと思うのであれば、
問いかける、とか、断定しない、とか、
想像力を喚起させる工夫をする、とか、
両義的な表現をする、
といったことをして、
書き手の当初の目論見を読み手が越えて理解してくる可能性を残しておく、
より他ないのではないかと思う。
もちろん、ケースバイケースで、
正解はこれだ、と断定的に言ってしまったほうが良い場合もあるだろう。
曖昧に表現するか、断定的に表現するか、
それはどちらもできたほうがいいし、
どちらのメリット・デメリットも理解したうえで、
使い分けられたほうが、きっとコミュニケーションの質は上がっていくだろう。
元記事(途中から有料)
2022.12.30
ある存在者が存在しているとき、ただそれだけで満足していればいいのに、なぜかすぐに(同時に)、その存在者の否定(しかも二種類の)が同時に(変ないい方ですが、「潜在的に」)現れるのですから。これは、私たちの世界のすべての存在者の宿命のようなものだと言えるでしょう。このような否定の裏面性(随伴性)があるので、われわれは、つい「なぜ無ではなく、存在者がいるのか」と尋ねてみたくなるのかもしれません。つまり、この問は、存在者と否定との不可分離性とでもいう性質から、必然的に生じる問だということになります。
現代西洋哲学
中村 昇