――古代ギリシアで生まれて以来、「民主主義」は大半の期間で衆愚政治のようなニュアンスの悪口として使われてきたということでしたが、ポジティブな意味合いになったのはいつ頃からですか。

 基本的には20世紀になってからだと思いますが、どんなに遡っても19世紀の前半でしょうね。きっかけの一つになったのはトクヴィル(1805-1859)の著した『アメリカのデモクラシー』(1835年発行)という本です。

 先ほどお話した通り、アメリカでは建国以来、民主制より共和制の方がはるかにいいものだとされてきたのですが、トクヴィルは民主制を称賛しています。民主主義は、問題はあるにせよ、全体としては良いものであると。そして、ある意味でそれ以上に重要なのは、歴史は民主主義に向かっており、身分制の世の中に戻ることは決してない。民主主義は神の摂理である、とまで言っているんです。

――すごい確信ですね。

 なんでそう思ったかという話なんですけど、実はトクヴィルはフランスの貴族の生まれです。ですから、お父さんもきょうだいもばりばりの右翼、ばりばりの王党派で、革命後のフランスをいかに元の身分制の世に戻すかと考えているような人たちでした。

 そんな中で育ったトクヴィルはいったん法律家になるのですが、貴族だからというのでいじめられて裁判所からドロップアウトし、現地調査のためにアメリカに向かいます。親父たちは革命なんてとんでもない、もう一度封建制に、ブルボン朝の王政に戻さなければいけないと言っているが、それが本当に正しいのだろうか。アメリカには新しい政治制度があるというが、それがどんなものなのか確かめてみようと

――自らの出自をそのまま受け入れることに疑問を感じたんですね。

 アメリカでトクヴィルは大歓迎を受けます。フランスから貴族が来るなんていうと、当時のアメリカ人は喜ぶわけですよ。しかしトクヴィルは、当時の大統領であるアンドリュー・ジャクソン(1767-1845)を見て失望します。ジャクソンは貧しい農民からたたき上げた元軍人で、民衆から絶大な支持を受けて大統領に就任しました。東部のエリートが政治を牛耳るのはけしからんと主張したアンチ・エスタブリッシュメントで、トランプ前大統領の原型とも言われています。

 ジャクソンのような人物を大統領に押し上げたのは、たしかにデモクラシーの力だ。それは認めよう。しかしジャクソン本人は、とてもじゃないけど立派な政治家とは思えない。アメリカのデモクラシーはやはりよくわからないと、ここではトクヴィルは納得しませんでした。

 しかし、当時ニューイングランドといわれたボストン周辺を調査したところ、意外なことに気づきます。当時のアメリカにはタウンシップという区画制度があり、それぞれが一種の自治区のようになっていたのですが、そこで暮らしている一般市民がとてもしっかりしているんです。ワシントンにいる大統領や議員より、名もないタウンシップの住民の方が、よっぽど社会のことを考えているぞと。

 当時のアメリカはまだ連邦政府も州政府も弱く、中央の行政が地域にまで行き渡っていませんでした。病院や学校をつくるにも、中央政府を待っていたら埒が明かない。そこで、一般の市民がアソシエーションという現在のNPOのようなものを結成し、いま町に必要なものは何か、そのためのお金をどうやって集めるかといったことを話し合って実行していたんです。

 これを見たトクヴィルは、これこそがデモクラシーであり、王政や貴族制よりもはるかに優れていると確信しました。限られたエリートだけが政治を行い、民衆はただそれに従っているより、一人ひとりが地域の問題に関わり、考え、行動する方が全体として多くのエネルギーが生まれ、いい社会になると考えたわけです。

――まさしく「参加と責任のシステム」ですね。

 ただ、『アメリカのデモクラシー』には、いいことばかりではなく、民衆のエネルギーが間違った方向に向かうととんでもないことになるといった危惧や、悪口もかなり書いてあるのですが、トータルで見ると民主主義はいいものだと。これはもう断言しています。

 加えてトクヴィルは、繰り返しになりますが、身分制から民主主義への転換は神の摂理だと言っています。身分制の世の中では、特権的な扱いを受けている人がいても誰も疑問に思わない。あの人は生まれが違うから、で納得する。しかし「人間は平等である」ということに一度目覚めたら、出自によって差別されることを人は二度と受け入れない。だから、民主主義から身分制の社会に後戻りすることは絶対にないと。私はこれは、正鵠を得ていると思います。

「古代人の自由と近代人の自由」

――民主制と平等は車の両輪というか、補完関係にあるわけですね。その平等と並んで重要なテーマに自由があると思うのですが、民主主義と自由の関係としてはどのようなことが言えますか。

 おっしゃる通り、自由は西洋思想史においてとても、というより最も重要な概念といっていいと思います。それだけに、ここで自由の思想史を始めてしまうと話がごちゃごちゃになるので、あえて一人にスポットを当てましょう。フランス革命期のバンジャマン・コンスタン(1767-1830)という政治思想家で、「古代人の自由と近代人の自由」という論文で知られています。

 どういう話かというと、古代人は国家の運営に関することを、まさに古代ギリシアの民会のように市民が集まり、議論して決めていた。人びとが自ら公共的な意思決定に加わること、これこそが「古代人の自由」であると。だから、たとえばソクラテスが「私は自由なアテナイの市民だ」と言うとき、そこには、自分たちが従うべき法律をわれわれは自分たち自身でつくっているという誇りが込められている。独裁者でもエリートでも他国の支配者でもなく、自分たちのことを自分たちで決められるという自由です。

――よくわかります。

 しかし、コンスタンは、これは今のわれわれの自由とは違うんじゃないかと。われわれは公共の意志決定に参加することを自由だなんて言わないし、自分で法律を決めたいとも思わない。ただ、日々の暮らしが制約されたり、やりたいことを邪魔されたり、自分の物を他人に奪われたりしなければいい。われわれ近代人は私生活を穏やかに享受できることを「自由」というのであり、それは政治とは関係ない。

 古代人は、要するに暇だったのだと。暇だから民会に参加して、自分たちで裁判をやって、戦争にまで行ったけど、近代人は自分の仕事で忙しい。民会どころか選挙にだって行きたくないし、裁判なんかやりたくない。そういうのはぜんぶ任すから、その代わり、俺の生活や権利は侵害しないでくれと。つまり、古代人の自由は「自由なアテナイ人」のように集合体でのものだが、近代人の自由はもっと個人単位のものだというわけです。

――近代人どころから、現代の日本人にもそのまま当てはまりそうな話ですね。たしかに、政治に参加することが自由だと思ったことは私もありません。

 コンスタンは、フランス革命に大きな影響を与えた――実際には革命を主導した山岳派に利用されたといった方がいいと思いますが――といわれるルソー(1712―1778)について、彼はとても自由を愛していたが、それは古代人の自由だと。ルソーの自由の理解が時代錯誤なものだったために、革命後のフランスで恐怖政治が横行し、個人の自由がなくなったのだと批判しています。

 さらに彼は、極論すると政治体制なんてどうでもいいと。貴族制でも民主制でも何でもいいけど、とにかく俺の権利だけは侵害しないでくれ。政治的意思決定が民主的であるかどうかではなく、個人の自由が守られるかどうかが肝心なんだと。つまり、自由と民主主義を切り離す議論です。われわれは「自由民主主義」とすぐくっつけちゃうんですけど、この両者は場合によって矛盾するわけで、むしろ緊張関係にあります。

 たとえば学級会で、A君は悪い子なので教室から追い出そう。授業を受けさせないようにしようと決まったとしますよね。その決定がクラスのみんなによる民主的なものだったとしても、A君が授業を受ける自由や権利が侵害されることに変わりはありません。みんなで決めたからといって、必ずしもいいわけではない。実社会においても、多数者の意見が特定の個人や少数者の権利を侵害する事態はそこらじゅうで起きています。

 以前、自民党の人に言ったことがあります。あなたたちの党名ってすごくいいですよね。自由と民主主義なんて、とてもいい言葉です。でも、自由と民主主義はぶつかることがありますよ。ひとつ間違えると、不自由不民主主義にもなりますから気を付けてくださいねって。