加藤さんのひじょうに興味深い考察を受けて、私なりに語が「自己指示の塊」であることを説明したいと思う。加藤さんの書簡にとても刺激を受けたので、今回は、そのことに集中してみよう。私が「自己指示の塊」というのは、以下のようなことである。

自己指示の塊

 例えば「机」という名詞がある。たしかにこの「机」という語は、ここにある机やあそこにある机を指示しているようにも思える。でも「机」という語は、実際にその辺に存在するあれこれの机だけを指しているわけではない。「机」という語が、言語として存在しているかぎり、あらゆる地球上の(あるいは、全宇宙の)現実の机のことを意味しているだろうし、さらには、過去に存在した無数の机、さらには未来に存在するであろう(もしかしたら、形も機能も)予想もできないような机群を指しているはずだ。つまり、「机」という語になったとたんに、それは、眼の前の現実を離れる。

 言語というのは、そういうものだろう。この地球上で大災厄が起き、地球上のどこにも机がなくなったとしても、「机」という語がノートの片隅に書かれていれば、「机」という語は、それなりの力をもつだろう。それは、「机」の記憶をもつ人類がひとりもいなくなったとしても、「机」という字が残っていれば、その周りの人たちに、何らかの影響を与えるという意味だ。それが何のことを意味するのか、誰も知らなくても、それが言語であれば、解読されるものとしての潜在的な力を発している。つまり、語というのは、「概念」としての領域に存在しているのである。それは、具体的な物質界とは、まったく異なる世界だと言えるだろう。

 もちろん、教室のなかやいろんなところで「机」という語が使われてはいる。それは、現実のなかに存在する唯一無二の個々の物体(あるいは、物体の形をした持続状態)を指すための適切な道具がないから、仕方なく「机」という音や文字が使われているだけだ。本来であれば、その唯一無二のそれぞれの机という<それ>を意味する何か(少なくともそれは言語ではない、その瞬間だけ、現実の事象に対応して生成消滅するものだろう)が、そのつどなければならない。そうでなければ、<それ>を指示するなどという事態はそもそも起こらない。指示するというのは、連続的な持続状態である現実から、<それ>をとりだすことだからだ。そのような唯一無二の切り分け(分節化)には、言語は適していない。分節化したとたんに、普遍の領域(概念界、言語の領域)に入ってしまう。ようするに、「机」という語は、あまりにも包摂範囲が広く、われわれの生成消滅している唯一無二の<それ>を指すには、まったく適していない道具なのだ。

 これは、さまざまな語のなかから「机」といった、あたかも具体的なものを指しているかのような名詞を例にして話をしているから、最初から言語外のものを指し示しているかのような誤解をうんでいるだけだ。もし、同じ名詞でも、「友情」や「抽象」、「たまさか」や「いささか」、あるいは「存在」や「無」といった少しでも抽象的な名詞になれば、なにかを指しているなどということは、誰もまったく問題にしないだろう。これらの抽象名詞が指し示すものを、眼の前にだしてくれ、などという人はいない。ところが、同じ言語で同じ名詞なのに、「机」や「鉛筆」や「椅子」にかんしては、あたかも現実の対象を指しているのが当然であるかのように、われわれは思いこむ。これらの一見具体的な名詞も、同じ言語という領域に存在しているはずなのに、そのような勘違いをしてしまう。それに言語は、名詞だけではない。形容詞もあれば、動詞もある。数詞も助詞も助動詞も接続詞もある。それらの名詞以外の品詞が、何かを指しているなどと考える人は、どこにもいない。

五つの赤いリンゴ

 ウィトゲンシュタインの『哲学探究』の冒頭第一節の「初めてのおつかい」的な思考実験では、「五つの赤いリンゴ」という紙切れをもって店に行く話がでてくる。紙切れに書いてあるのは、数詞(五つ)、形容詞(赤い)、名詞(リンゴ)だ。リンゴはたしかにそれに対応しているかのようなもの(果物)が存在するが、「赤い」という形容詞や「五つ」といった数詞は、どうにもならない。どこにも、そんなものは、それだけでは(「赤い」そのもの、「五つ」そのもの)存在しないからだ。

 だから、ウィトゲンシュタインもつぎのように言う。

 「でもその人は「赤い」という語をどこでどういう風にして見つければよいのか、そして「五つ」という語をどう使ったらよいのかを、どうやって知るのだ?」(『哲学探究』第一節)

 「赤い」という形容詞と「五つ」という数詞にかんしては、この現実の世界には、いっさい手がかりはないのである。どこにも、そんなものは存在していない。「赤いリンゴ」は存在しているかもしれないが、「赤い」という形容詞だけの指示対象が、そのままどこかに存在しているわけではない。「もの」の性質としてでなければ、この世界に「赤い」は登場しない。「五つ」にかんしては、さらにどこにもない。とりつく島もない。

 たしかに、それらの語を使って、われわれは生活をしてはいる。しかし、それは、それぞれの語が、何かを指し示しているから、その生活が進行しているわけではない。言語には、言語独自の世界がある。そして、それぞれの語は、語同士の関係によって、もろもろの働きをなす。「こんにちは」といえば「こんにちは」と反応する。これは、何か外側の現実を指し示したり、記述したりしているわけではない。「赤いリンゴを五つ下さい」といえば、赤いリンゴを五つ、その人にあげる。それは、「赤い」「リンゴ」「五つ」という語が、外界の対象をそれぞれ指示しているわけではなく、そのような言葉のやりとりが、われわれの行為連関のなかで、習慣化されているだけなのだ。ただの語のやりとりであり、挨拶や命令やお願いといった儀式なのである。ほかの言語のやりとりも、何かを記述しているのではなく、オースティンの言うように、一つの「言語による行為」なのである。

 それに、何度も言うが、言語は、名詞だけで成りたってはいない。他にも多くの品詞がある。「焦る」「心地よい」「れる」「られる」「しかし」「やぶさかではない」「たっぷり」「ない」などのほかの多くの品詞は、何かを記述したり、指し示したりしてはいないのは、誰でもわかるだろう。だから、それらの品詞と同じ言語の仲間である名詞も、何かを指示しているわけでは決してない。だから、あたかも現実に対応しているかのように思われる具体的な名詞が、何かを指しているように思いこむのは、明らかに錯覚なのだ。

シニフィアン―シニフィエ

 ソシュールの「シニフィエ」(signifié)と「シニフィアン」(signifiant)という概念もまた、違った角度から同じことを言っている。ソシュールは、言語記号(シーニュ)を構成する二つの要素として「シニフィエ」(意味されるもの)と「シニフィアン」(意味するもの)という概念をつくった。しかし、この二つの要素は、決して分離はできない。仮に( )のなかに書いた「意味されるもの」と「意味するもの」などと、まるで主客のように分かれているわけではない。原理的に表裏一体なのである。だからこそ、動詞signifier(意味する)の過去分詞(シニフィエ)と現在分詞(シニフィアン)という中途半端な語で表したのだ。

 丸山圭三郎は、ソシュールを引用しながら、つぎのように言う。

これは第一の相互性の論理的必然として、シニフィアン、シニフィエの不分離性を挙げることができるだろう。(中略)水の成分との譬えは、まさにこの自然と文化の学問的対象のもつ根本的相違を逆手にとって示しているために、シニフィエ、シニフィアンの不分離性のみならず、両者の存在規定である反自然性が強調されていて興味深い。

 言語の実体を、化学合成物、たとえば水に譬えることもできよう。水は水素と酸素から成っているH₂Oである。おそらく、化学においては、それらの元素を分離して、酸素と水素を別々にとり出しても、化学の次元にとどまっている。その反対に、もし言語の水を水素と酸素に分けてしまったら、もはや言語学の次元にはいないことになる。すでに言語的実体は存在しないのだから。(コンスタンタンのノート、第三回講義、断章番号1699) (『ソシュールの思想』丸山圭三郎、岩波書店、128頁)

 言語的な実体としては、シニフィエとシニフィアンとはつねに表裏一体でシーニュ(言語記号=語)をなしていなければならない。だから、「机」の意味(シニフィエ)と「机」という語の音や文字(シニフィアン)は、分離できない。ようするに、「机」は「机」なのだ。「机」という文字や音のなかに、言語的な意味一式がたたみこまれているともいえよう。「机」という文字を見たり、「つくえ」という音を聴いたりすれば、日本語を母語とする者にとっては、ただちに「机」の意味(もちろん、<意味>そのものが分離されることなく)が、そこに本質的に貼りついているのである。つまり、「机」の意味は、母語話者にとっては、そのまま「机」なのだ。言語の地平では、H₂Oを、H(水素)とO(酸素)に分けることは、決してできない。「水」は「水」なのである。

 丸山は、つぎのような言い方もする。

 シニフィエ、シニフィアンをめぐる第三の点は、両者ともに心的存在でありラング内の要素であって、前者を言語外現実ないし指向対象だとか、後者を物質音だなどと考えてはならないことである。たとえば、日本語の「ヤマ」という音声が「山」のシニフィアンで、言語外現実の山が「山」のシニフィエだなどと考えてしまうことは大きな誤りであり、言語命名論への逆もどりである。(同書、130頁)

 「山」という語は、「山」そのものであり、それだけで、いわば自己完結(シニフィエ=シニフィアン)している。それ以外の「言語外現実」や「指向対象」を意味している(シニフィエ、signifier)わけではないと丸山は言う。ここで言っていることもまた、「山」の意味は「山」ということになるだろう。ソシュールの言う「シーニュ」(語)は、つねにそれだけで意味の塊をなしている。つまり、私の言いかたをすれば、ソシュールの言う「シーニュ」もまた「自己指示の塊」なのである。

「内包」と「外延」

 さて、加藤さんの言う「内包」と「外延」についてもコメントしなければならないだろう。まずは、私なりに、「内包」「外延」概念の意味について確認したい。一番わかりやすい「内包」「外延」は、つぎのようなものだ。

「偶数」の内包的定義…2の整数倍

「偶数」の外延的定義…2,4,6,8、10…

 あるいは、「机」という語にかんしては、どうだろうか。

「机」の内包的定義…①飲食の器物をのせる台。食卓。②書を読み、字を書くのに用いる台。ふづくえ。(『広辞苑』第七版、2018年)

「机」の外延的定義…この机、あの机、その机、中央大学の3453教室の机、中村の書斎の机、……

 これが、一般的な「内包」「外延」である。しかし、ここですでに私は躓くのである。いずれの定義にも、無限が潜んでいるからだ。無限がでてくるのに定義していると言えるのだろうか。これは、もちろん、今回の書簡の応答とは関係ないが、少しだけ。

 まず、「偶数」の定義にかんしては、数学は閉鎖的な公理系であり、最初に語の定義と一群の公理と導入規則的なことから出発するわけだから明解だ。無限が潜んではいるが、それはそれで解決されているのだろう、たぶん。

 しかし、「机」の方は、どうだろうか。まず「内包」は、何も定義にはなっていない。この定義を理解するために、「飲食」「器物」「のせる」「台」「書」「読む」「字」「書く」「用いる」といった語も定義しなければならない。それらの語の定義を探索して、『広辞苑』(第七版)のなかを隈なく無限に循環しなければならなくなる。「内包」には、固定点が必要なのだ。しかし、この固定点は、それが言語であるかぎり原理的に存在しない。語は、すべてが同じ「自己指示の塊」として言語の領域だけで関係しあっているからだ。

 そして、「外延」に無限が含まれていることは、誰でも気づくだろう。それに、そもそも言語の「机」は、外界の机を指示しているわけではないので、この外延的定義は、語にかんしては不可能だ。ただ、「机」という語が、この世界に最初に出現した時には、外延的定義の可能性が同時に出来していたにちがいない。現時点では、「机」という、言語の領域だけで自己指示のはたらきをもつものが、「他者指示」(外界との関係)を「一瞬だけ」したという可能性はあるだろう。「机」という語の創造の瞬間は、単なる雑音(ツクエ)と現実界の唯一無二の事物(持続している事象)とが接合したにちがいない。接合しなければ、「命名」は、できないはずだから。そこでは、たしかに「外延」という事態がおきていただろうし、もしかしたら、それは「内包」と「外延」とが融合した幸せな(?)瞬間だったのかもしれない。唯一無二の<これ>が「ツクエ」と初めて呼ばれたのだから。

家族的類似性

 妄想はこれくらいにしておこう。さて、加藤さんが引用している野矢茂樹さんの「典型的な物語」のところは、どうだろうか。私は、ひじょうに面白かった。ただ、このことには、今回は深入りせずに、「内包」と「外延」という概念に対して、ウィトゲンシュタインが提唱した「家族的類似性」という概念を紹介したい。

 ウィトゲンシュタインは、こんなふうに「ゲーム」という概念について説明する。

例えば、われわれが「ゲーム」と呼ぶ事象について一度考えてみてほしい。ボードゲーム、カードゲーム、ボールを使うゲーム、格闘的なゲーム、などのことを言っているのだ。これらすべてに共通するものは何か?—「何か共通するものがあるにちがいない、さもなければ「ゲーム」とは呼ばれない」と言ってはいけない―そうではなく、それらに共通なものがあるかどうかを見よ。―なぜなら、それらをよく眺めるなら、君が見るのはすべてに共通するような何かではなく、類似性、類縁性、しかもいくつもの種類の類似性だからだ。くりかえすが、考えるな、見よ!(『哲学探究』66節)

 こうした類似性の特徴を表現するのに「家族的類似性」という言葉ほど適切なものを私は知らない。というのも、体格、顔つき、目の色、歩き方、気性といった、ある家族の成員間に見られるさまざまな類似性は、そのように重なり、交差しているからだ。―さまざまな「ゲーム」は一つの家族を形成している、と私は言おう。(同書、67節)

 この「家族的類似性」という概念によれば、「内包」(類似性の規定)と「外延」(実際のゲーム)は、明らかに混融している。多くの類似性によって、さまざまなゲームが関係をもつからだ。しかもその関係もとても複雑で、あるひとつの概念(例えばボードゲーム)の境界などまるで存在しないかのようだ。ひとつひとつのゲームが関係しあっているというよりも、いくつもの<類似性そのもの>が関係しあっている。さまざまなゲームの集合が、「ゲーム」という概念をなしているというよりも、さまざまな類似性の集合が、「ゲーム」という概念を漠然とした領域として形成していると言えるだろう。「二人でやるゲーム」「身体的接触のあるゲーム」「屋内でやるゲーム」「スマホを使ってできるゲーム」などなど、これらの類似性は、いくらでも想定できる。このように考えれば、「ゲーム」という概念は、漠然とした類似性の集合になり、概念としての境界などは、まったく存在しなくなるだろう。そして、類似性がブリッジになることによって、「ゲーム」という概念は、「恋愛」という概念の漠然とした領域へと移行するし、あるいは、「喧嘩」や「戦争」や「スポーツ」といった概念へも自在にずるずると移行していく。こうして、無数の概念間の融通無礙な類似性の連関によって、あらゆる事象や概念が、その類似性の多層をなす海に呑みこまれていくことになる。

 こうした「家族的類似性」によって概念の様相を考えると、たしかに「典型」も存在するかもしれないが、それは、ごく恣意的な一部分の切りとりに過ぎないことになる。あらゆる角度から、さまざまな類似性が、その典型をも貫いているからだ。そうなると、「典型的な物語」というのは、人ぞれぞれのそのつどの思いこみのようなものになるのではないか。たしかに、その概念を検討する際には、とても役には立つのだろうが。

「こと」と「もの」

 さて、「こと」と「もの」について、語る時間がなくなってきたので、最後に、加藤さんも言及していた木村敏さんの『時間と自己』の引用で締めたいと思う。「詩」の本質について語っているところだ。

 ことばはそれ自体一種のものでありながら、その中に生き生きとしたことを住まわせている。そこではものこととのあいだに一種の共生関係があるといってよい。この共生関係を最大限に利用しているのが「詩」と呼ばれる言語芸術だろう。詩が普通の文章と本質的に違っている点は、詩がことばというものを用い、しかも多くの場合さまざまなものについて語りながら、ものについての情報の伝達を目的とはせず、ことの世界を鮮明に表現しようとしているという点である。(『時間と自己』木村敏、中央新書、22頁)

 ここで言われている「もの」は、私の言いかたで言えば、「自己指示の塊としての語」のことだと言えるだろう。そして、「こと」の方は、その「もの」によって形成された「自己指示としての作品」だと言えるだろう。その典型が、詩だというわけだ。そして、詩という芸術が成立するのも、そもそも言語が「自己指示の塊」だからだ。だから、われわれが日常生活で使っている言葉は、言語の本来のあり方から逸脱したものということもできるだろう。

 木村は、芭蕉を引用して次のように言う。

  古池や蛙飛び込む水の音

(中略)日本人ならだれひとりとして、この俳句をものの世界の単なる報告文として読む人はいないだろう。ここには一つのことが隠されている。このことは、蛙の飛びこんだ古い池の水の音のあたりで生じていることかもしれないし、芭蕉の心の中で生じていることなのかもしれない。あるいは、音と芭蕉とのあいだに生じていることだというのが一番正しいかもしれない。とにかくなんらかのことが芭蕉の身辺にただよった。そして、そのことことばにして言い表そうとして、芭蕉は「古池や蛙飛び込む水の音」と詠んだのである。(同書、22-23頁)

 木村さんは、「古池や蛙飛び込む水の音」という「こと」が、どこで生じたのか、と問い、「音と芭蕉のあいだ」が、一番正しいかもしれない、などと言っている。いやいや、そうじゃないだろう。「古池や蛙飛び込む水の音」という「こと」は、<ことば>において生じたのだ。<ことば>のなかで渦巻く、自己指示の塊である「もの」のなかから生まれた。<ことば>の海から、「古池や蛙飛び込む水の音」という「こと」が湧出したというのが正しいのではないか。