存在と無の表裏一体

 前回の最後のヘーゲルの『論理の学』(『大論理学』と言われているものです)の引用について考えてみましょう。「純粋存在」と「純粋無」は同じなのだ、とヘーゲルは言います。これは、どういう意味でしょうか。

 「もの」(存在するもの)によって「こと」(存在)が現れる。つまり具体的に存在するもの(机、鉛筆、人間、犬など)がなければ、「存在そのもの」は確認できないということでした。当たり前ですよね。「存在」という事態は、「存在者(物)」が満ちみちているということなんですから。「もの」が無ければ「こと」(存在そのもの)にたどり着く手がかりは全くありません。

 「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」という何とも筆舌に尽くしがたい事態(「こと」)をわれわれが認識できるのは、岩や蝉や蝉の声を見たり聞いたりすることによってなのです。「もの」と「こと」は、決して分けることができないということになります。ハイデガーが「二重襞」といったのは、こうしたことでした。

 そう考えると、ヘーゲルの言う「純粋存在」というのは、「存在」のためには、どうしても必要な「存在者」をなくして、存在そのものを純化するということになるのではないでしょうか。理想気体をつくるみたいに、不純物をなくしてしまうのです。そうしてできあがったのが、「存在そのもの」(純粋な存在)ということになります。ようするに、「純粋」なのですから「存在」だけということになります。存在者(物)のない存在、「もの」のない「こと」そのものということになるでしょう。

 これは、前回おこなった思考実験の最後の段階、つまり「空っぽの箱」(しかし、「箱」も「もの」なので、こういう言い方は、本当はいけないのですが)のような状態ということになります。こうしてできあがった理想的な「純粋存在」が、実は「純粋無」だと、ヘーゲルは言うのです。これは、どういうことなのでしょうか。

 「存在者(物)」のいない「存在そのもの」の透明な領域は、たしかに何だかよくわからない場所です。だって、「存在」とは言いながら、「存在しているもの」が、一つもないのですから。「存在者」のいない「存在」という場なのですから、よく理解できないのは、しょうがありません。

 こういう不思議な場所ですから、たしかにこの領域を「無」と言ってもいいかもしれません。「存在しているもの」は、どこにもないのですから。ただ、「存在者」がその場所に現れる可能性はあります。何と言っても、あくまでもその場所は、「存在そのもの」(純粋存在)なのですから、いわば、存在側に偏倚している(?)のです。何かが存在する準備はできているのです。存在する可能性は、<ある>と言っていいでしょう。

 物理学的にいえば、電荷をおびた物質はまだ存在していないが、空っぽな「場」として、いつでも「電場」になる用意はできているということでしょう。だからヘーゲルは、すぐに純粋存在と純粋無は、「同じものではなく、まったく区別されている」とも言うのです。純粋存在と純粋無は、「同じだけれども、同じではない」と言うのです。

 まあ、言ってみれば、見た目は同じだが(まったく空虚で透明な場所)、一方は、存在者が生じる余地があるのに対して、他方は、その余地は全く無いというわけでしょう。それが「分離されておらず分離できもしない」(見た目は同じだ)けれども、「各々が直ちに各々の反対のうちに消滅する」(純粋無に偏ると完全な無になり、存在者が登場すると存在の領野が開ける)ということだと思います。

 ヘーゲルは、この存在と無とのぎりぎりの境界面(あるいは接触面)を、こういう言い方で表現したのだと思います。「純粋存在」と「純粋無」は、いわば表裏一体であり、決して分離はできないけれども、しかし、表面から裏面へ、裏面から表面へと移ることはできない、つまり、表裏反対の面という、次元を異とする隔絶したあり方をしているとでも言えるでしょう。

 純粋存在の方は、存在者(物)が登場すれば、それを対象化し、存在について具体的に語ることができる。しかし、裏面の純粋無は、絶対に金輪際、存在者は現れない。したがって、最初から最後まで認識も対象化も絶対にできない。ただ、われわれには、言語という面妖な道具があるので、対象化も認識もできないものなのに、言語化はできる。つまり、「純粋無」や「絶対無」と言うことはできるというわけです。つまり、ベルクソンが言ったように、「絶対無」は、言葉にすぎないのです。言葉だけの「もの」なのです。

イリヤ

 この「絶対無」について話す前に、その裏面である「純粋存在」について、もう少し考えてみたいと思います。まさにこの「純粋存在」をテーマにした哲学者であるレヴィナスに触れてみたいと思います。レヴィナスは、存在者をすべてなくした「存在」の領域を、「純粋無」とは考えませんでした。

 「純粋存在」は、「純粋無」ではなく、存在というあり方で<ある>(フランス語でil y a=イリヤ)というのです。この「イリヤ」は、「純粋無」の裏面というのではなく、「存在」の一番基底に<ある>のです(このフランス語の「il y a」というのは、英語でいえば「there is~,there are~」というのと同じです。「~がある」という意味です)。

 レヴィナスの言い方を借りれば、光(存在者)がすべて消えてしまった闇こそが、「イリヤ」なのです。この「闇」(イリヤ)は、通常は「無」といわれるものですが、レヴィナスは、そこに「存在そのもの」(純粋存在)が残っている、つまり「存在そのもの」が<ある>と考えたのです。言いかえれば、レヴィナスの「イリヤ」は、「~がある」の「~が」がすべて消滅してしまった後に残る「ある」ということになるでしょう。再び物理学の用語を使えば、電荷をおびたものは何もないが、「場」(field)だけが<ある>ということになります。「存在者(物)」なき「存在」というわけです。

 ベルクソンの『創造的進化』における無の批判に触れながら、レヴィナスは、つぎのように言います。ちょっと長いのですが、面白いところなので引用してみましょう。

 ベルクソンによると、否定は、ある存在を除去することで別の存在を思考する精神の運動として積極的な意味をもっている。しかし否定は存在の全体に適用されると、もはや意味をもたないことになる。存在の全体を否定するとは、意識がある種の暗闇に沈むことだが、そこでも意識は、少なくともこの闇の作用として、この闇の意識として残存している。したがって全面的否定はありえない。無を思考することは錯覚なのだ。しかしながらベルクソンの無の批判がめざしているのは、存在者の必然性、つまり実存する「何か」の必然性の証明である。(中略)「何か」が残存しているのではなく、現前の気配があるのだ。それはもちろん事後的には一つの内容と見えるかもしれないが、もともとは非人称的で非実体的な、夜とそして<ある>の出来事なのだ。それは空虚の密度のようなもの、沈黙のつぶやきのようなものである。何もない、けれど何がしかの存在が力の場のようにしてある。闇は、たとえ何もないとしても作用するだろう実存の働きそのものなのだ。私たちが<ある>という用語を導入したのは、まさしくこの逆説的な状況を表現するためである。(E・レヴィナス『実存から実存者へ』西谷修訳、講談社学術文庫、1996年、124~125頁)

 いかがでしょう。最初レヴィナスを読んだときには、この<ある>(イリヤ)がよく分からなかったのですが、ようするに、「存在者(物)」をすべて消し去った後の「存在そのもの」だと考えればいいのだと気づくと、なるほどと思いました。それがわかると、「空虚の密度」「沈黙のつぶやき」のようなものというレヴィナスの言い方も何となく腑におちます。

 ハイデガーの「存在論的差異」によって析出された「存在」という概念を、もっとわれわれに身近で、われわれの基底にべたっと貼りついている<ある>という事態だと、レヴィナスは考えた(無理やり変更した?)ということでしょうか。どんなに具体的な「存在者(物)」がいなくなっても、「薄く粘っこく闇そのもののようにこの世界に貼りついているもの」が、<ある>といったイメージでしょうか。

 ちょっとイメージに走りすぎですかね。次回は、西田幾多郎、そして、再びハイデガーに戻りたいと思っています。