存在論的差異

 何回か前に、将棋の話をしたのは、ハイデガーのいう「存在論的差異」の説明をしようとしたからでした。「存在」(Sein)と「存在者(物)」(Seiendes)との違いです。そこから、「存在」や「無」についてお話しようと思っていたら、例によって迷路に入りこんだというわけです。今回は、その話に一度戻って、そこから再び「存在」や「無」について考えてみたいと思います。

 「存在論的差異」については、ハイデガーみたいに、もったいぶってあれこれ言わずに、ひじょうにわかりやすく説明してくれる人がいます。木村敏さんです。『時間と自己』のなかで、「こと」と「もの」という概念をつかって実に見事に説明しています。木村先生の説明を借りて、「存在論的差異」について、もろもろ探っていきましょう。

 木村さんは、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句を例にだします。この句は、まさに「こと」(「存在」の次元)を表現しているというわけです。

日本人ならばだれひとりとして、この俳句をものの世界の単なる報告文として読む人はいないだろう。ここには一つのことが隠されている。このことは、蛙の飛びこんだ古い池の水の音のあたりで生じていることかもしれないし、芭蕉の心の中で生じていることなのかもしれない。あるいは、音と芭蕉とのあいだに生じていることだというのが一番正しいかもしれない。(『時間と自己』中公新書、23頁)

 われわれ日本人が使う「こと」という語は、とても不思議な単語です。この語が意味する事態は、どこにも具体的な姿を現すことはありません。われわれが確認できるのは、「もの」だけなのです。古い池の水、飛び込む蛙、水の音などの眼で見て手で触って耳で聞くことのできる「もの」たちです。ところが、それらの「もの」によって、そして、その「もの」たちが関係することによって、手で触ることも眼で見ることもできない「こと」(古池や蛙飛び込む水の音)が、たしかに「現れている」というのです。

 この「こと」と同じあり方をしているのが、ハイデガーのいう「存在」ということになるでしょう。「あり方」などというおかしな言葉を使いましたが、ちょっと言葉にするのは難しいですね。それは、「存在」と「こと」とが、同じだということを表す言葉(言葉は、ものですね)がないからだと思います。言葉にはできない領域に、「こと」と「存在」は「ある」とでもいうほかありません。

 木村さんは、「もの」と「こと」との関係を、最後につぎのように見事に表現します。

ことものに現れ、ものことを表し、ものからことが読みとれる。(同書、24頁)

 「こと」が成立しているということは、だれにでも理解できる。しかし、「こと」そのものは、そのものとして表現したり、知覚したりできるものではない。表現したり知覚できるものは、すべて「もの」にすぎない。しかし、「こと」がないかぎり、「もの」も意味をもたないし、「もの」がないかぎり、「こと」はみずからを示すことができない。こういう関係だと思います。

 これは、そのままハイデガーのいう「存在」と「存在者(物)」との関係にも当てはまるように思います。「存在」という次元と「存在者(物)」という具体的なものとは、明らかにちがう。同じ地平で比べることはできない隔絶したちがいです。ところが、「存在者(物)」を見て触って聞くことで、「存在」というあり方を、私たちは知ることができるし、それら「存在者(物)」とかかわることで、「存在」という概念にたどり着き、「存在とは何か」という問を、われわれは発してしまう、というわけです。

 木村先生の言い方を借りれば、「存在存在者に現れ、存在者存在を表し、存在者から存在が読みとれる」と言えるでしょう。これはまた、われわれは、「存在者」から出発し、「存在」の次元に気づくということ、そして、「存在者」が存在できるのは、「存在」の次元があるからだとも言いかえることができる事態だと思います。難しいいい方をすれば、「認識根拠」(「存在者」)と存在根拠(「存在」)ということになるでしょう。

 ハイデガー自身も、最初は、「存在論的差異」という概念で、「存在者」と「存在」の「差異」を強調していたのですが、だんだんと「存在者」と「存在」との表裏一体性とでも言えるような事態に着目していったということです。ひじょうにすぐれたハイデガー研究者である平田裕之さんは、「存在論的差異」を説明するところで、つぎのように書いています。

 一九四〇年代前半からは、存在と存在者とが単に分裂し対立しているかのような印象を与えかねない「区別」や「差異」という言い方が避けられるようになり、両者の統一性を強調するために、「二重襞(Zwiefalt)」―すなわち存在と存在者との折り重なり―という言い方が好んで用いられるようになる。(『ハイデガーの知88』木田元編、新書館、131頁)

 「存在」と「存在者」が、折り重なり、二重の襞をなしているというわけです。「こと」と「もの」が、おたがいをどうしても必要とするように、「存在」と「存在者」は、密接不可分の関係なのです。こう考えると、「存在論的差異」という概念も、かなり当りまえの事態を正確に指摘しているのだということがわかります。

存在は無である

 さて、予告を遂行するためには、「無」にそろそろ向かわなければなりません。それでは、つぎの俳句(?)を紹介しましょう。同じく松尾芭蕉です。

閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声

 ここに登場している「存在者(物)」は、蝉、岩、蝉の声でしょう。そして「存在」という「こと」は、「閑さ」ということになります。でも、何度読んでもいい句ですね。さすがです。俳人としては、与謝蕪村が一番好きなのですが、芭蕉の句は、いつ読んでも超絶技巧だなぁ、と思います。知らんがな、という感じでしょうか。

 さて、まず「閑さ」が、「蝉の声」によって立ち現われるというのが、すごいですね。無音(静寂)が、有音(蝉の声)によって現れる。まさに「こと」(存在)が、「もの」(存在者)によって示唆される、しかもまったく逆の「存在者」(「もの」)によって。それでは、最初に、この蝉の声を消してみましょう。完全な無音を現出させたいと思います。「無」に近づくために、まず「無音」を手がかりにします。

 しかし、まだまだ「無」にはたどり着きません。「岩」も「蝉」も存在しているからです。「存在者」がいるかぎり、「存在」がその裏面にあります。そして、それは、まさに「無音そのもの」という事態(「こと」)です。この「無音そのもの」という事態を逆側から強調するために、芭蕉は、蝉を鳴かせたのですから。

 それではさらに、この視覚による風景(「岩」と「蝉」)も消してみましょう。「もの」つまり「存在者」をすべて撤去してしまうのです。すると、どうなるでしょう。「もの」(存在者)を失った「こと」(存在)だけが残るのでしょうか。もし、「こと」(存在)だけが、「もの」(存在者)がなくなっても残るのであれば、たしかに「無」という「こと」がそこには現われるでしょう。

 つまり、「存在」と「無」がおなじものになるのです。「もの」(存在者)は、ほんの少しもそこにはないのですから、「こと」だけが全く内容を欠いて(空っぽの箱のように)現出するのです。この事態を、ヘーゲルは、こういいました。

純粋存在と純粋無は同じものである。(中略)だがまた、真理は、それらが区別されていないということではなく、それらは同じものではなく、それらはまったく区別されているが、だがまた分離されておらず分離できもせず、各々が直ちに各々の反対のうちに消滅するということである。(『論理の学Ⅰ 存在論』山口祐弘訳、作品社、2012年、69頁)

 いま私たちは、「存在者」のいない<存在そのもの>(「純粋存在」)が、実は、<無>(「純粋無」)であるという地点まで来ました。でも、「もの」(存在者)と「こと」(存在)とは、不可分だったのではないでしょうか。さっき、私もそう書いていました。じゃあ、不可分なのであれば、「存在者」がなくなれば、「存在」も跡形もなく無くなるはずではないでしょうか。

 この矛盾は、次回考えます。