ルースは2024年に他界しましたが、その考え方を発展させて、シャロン・ストリート(1971~)、リチャード・ジョイス(1966~)がそれぞれ2006年に「進化的暴露論証」を提唱しました。従来の倫理学(メタ倫理学)では、道徳とは、各人の心や感情とは独立して、この世界に真理として実在するもので、それを人間が理性を通じて認知するという「道徳実在論」が強い影響力を持ってきました。これに対して、道徳の基盤は、進化を通じて「適応」として人間の心に形成された「道徳感覚」にあるというのがここでの考え方ですから、実在する道徳的真理が道徳の基だという考え方は否定されます。ストリートとジョイスは、こうして道徳実在論を強く批判し、メタ倫理学での論争を巻き起こしました。

「生まれつきの道徳性」への異論

 これに対して、ルースとは「似て非なる」形で「進化と道徳」の関係を分析したのがリチャード・アレグザンダーです。アレグザンダーは、進化生物学的な視点に基づいて人間社会の構造を分析し、先に挙げた「間接互恵の理論」を提唱した人です。アレグザンダーも、血縁者を助けようとしたり、関係ある他者と互恵に基づく協調関係を結ぼうとしたりする意欲・欲求的な性向が、進化の中で人間に生得的にもたらされたことは肯定しています。しかし、ルースと違って、「血縁者を助けるべし」「他人に何かをしてもらったらお返しすべし」といった義務的感覚が生まれながら備わっている、とまでは言いません。

 子どもは「嘘をついてはいけない」といった善悪の規範を両親や先生などから「教育」されて身につける、とアレグザンダーは言います。つまり、「べし/べからず」を含んだ道徳的な規範は、個々人が生まれ育つ中で、そこでの経験を通じて後天的に身に付けるものと考えたのです。そのため、各人が持つ道徳的・規範的な感覚の中身は、その人がいる社会の環境がどのような時代や文化に属するかによって多様になります。それはその人がそこで教育されることや経験することの中身が違うからで、江戸時代の人は、江戸時代の社会状況や生活慣行に基づく教育と経験から江戸時代の道徳規範を身につけますし、昭和時代の人、令和時代の人も、同じようにしてその時代の道徳規範を身につけます。同様に、フランスの人、パキスタンの人、イスラエルの人は、それぞれの国の文化や社会制度の下での経験から、それぞれの道徳規範を身に付けることでしょう。

 このように、道徳規範の中身は多様ですが、そこで教えられている善悪に共通する本質はなにかというと、それは「その人がその社会で生きていく(生存・繁殖していく)上での利益確保のセオリー」になっている、というのがアレグザンダーの考えです。

 先に挙げた血縁淘汰理論や互恵的利他行動の理論、そしてアレグザンダー自身が提唱した間接互恵理論は、そういう中で、人間が進化の中で備えた普遍的な性質とそれに依拠して成立する普遍的な社会構造を踏まえて、「血縁者を助ける」「友人や隣人と助けあう」「(見知らぬ人を含めて)他人に親切にする」ことが、どの社会の中にあっても自分が利益を確保して生存・繁殖していくための「共通の基本的方法」になる、ということを示すものだと言えます。道徳の中身は教えられるものであり、そして教える人も教えられる人もこのことを明確には意識していませんが、そこで教え/教えられていることの中身は、善悪という観念を用いた「人間社会での利益確保のセオリー」であるというのがアレグザンダーの主張のポイントです。ルースのように「生得的な道徳感覚の進化」を主張するものではないですが、進化や適応の観点に基づいて人間の性質や社会の構造を分析することによって「道徳の本質的意味」を探った試みとして、アレグザンダーの研究を私は高く評価しています。

 「利益確保のセオリー」のわかりやすい例を、間接互恵で考えてみましょう。たとえばあなたが何かのお店を開いたとします。このとき、来店するお客さんが商品を買ってくれても買ってくれなくても、一人一人丁寧に対応し、サービスに努めれば、好印象をもってもらえるはずです。「あの店の店主は親切だ」、「あの店はサービスがいい」と口コミで評判が広がり、それがお客さんを呼ぶことにつながって、店や自分にとっての利益となって返ってきます。つまり、他人に親切にすることは長い目で見て自分の利益につながるので、自分が利益を得るには、そのための基本セオリーとして「人に親切にすべき」なのです。

 お店に限らず個々人の日常生活においても、周囲の人に普段から親切にしていれば、自分が「利他的な性質」をもっていることを「宣伝」できて「評判の利益」が得られます。評判の利益を確実に得るためには、相手や場面によらず原則としてすべての他者に親切にふるまう必要がありますが、自分の利益のことばかりを意識しすぎると、人目のあるところでだけ利他行動をすればいい、ということになりかねません。しかし、「人に見られないところでは自分本位に振舞うが、人目のあるところでは利他的に振舞う」という行動パターンから示されるのは、自分が「親切で利他的である」というシグナルではなく「自分の利益を計算して行動する」という利己性のシグナルです。

 もちろん、「人に見られないところでは自分本位に振舞っている」ことが文字通り人に見られず、誰にも知られないならば、「利他的に振舞う」ことだけが他人に知られて自分を「善い人」に見せることができます。しかし、そんなに「甘くない」のが世の常で、誰にも知られないと思っていた自分の振舞いが思わぬ形で人に知られることはわれわれの多くがしばしば経験するところでしょう。そうなってしまって、「この人は計算高く自分の利益に向けて振舞う人だ」というシグナルが周囲に伝わってしまうのは、その後の周囲との関係に決定的な悪影響を及ぼす「重大事」です。

 だからこそ、そのように「自分を善い人に見せる」ための目先の計算が働かないよう、利他的な行動が自分の利益につながるという事実を無意識の領域に押しとどめて、「嘘をつくべからず」「他人の物を盗るべからず」というセオリーだけを「守るべき道徳」として人間は身に付けるのだというのがアレグザンダーの見方です。先に述べたように、進化倫理学の分野ではルースの理論に基づく研究や議論が活発ですが、最近は、こうしたアレグザンダーの考えに基づいてそれを発展させる研究もでてきています。

善悪と損得

 道徳の「基」は理性か感情か、という問題は、哲学者や倫理学者の間でさまざまな形で議論されてきました。ルースの「道徳感覚」論は、それで言うと後者の側に相当します。しかし、ルースが唱えるように人間共通の(規範意識を伴った)「道徳感覚」をわれわれが生まれながらに持ち合わせているという考え方には、私は疑問を覚えます。先ほども触れたように、国や地域、時代によって、道徳の在り方は変わってくるからです。「善/悪」「べし/べからず」という規範的な概念を用いて自分や他人の行動を評価する能力自体は進化によって人間に備わったものだと思いますが、善悪や「べし/べからず」の中身は生物学的に備わったのではなく、文化や環境に応じて人間が後天的に身に付けるものだろうと私は思っています。その点で、ルースよりもアレグザンダーの説の方に私は共感します。

 その一方で、人間にとってそれが生得的か後天的かはさておき、道徳には、人間が生存・繁殖していく上での利害損得が関わっており、それが道徳の根本的な土台になっているという考え方は、ルースにもアレグザンダーにも共通です。つまり、道徳や善悪の奥にある本質を利害損得に見出し、利益に基礎づけて道徳を分析・検討するのが進化倫理学のエッセンスだと言えるでしょう。

 このように言うと、「道徳や善悪と損得利害は別の次元の話ではないのか?」と思われるかもしれません。善悪というのは、われわれの主観的な気持ちや感情とは独立して、客観的・絶対的な真理として成立しているのだ、と考える人もいるでしょう。ルースのところで触れたメタ倫理学の道徳実在論はまさにそういう考え方ですが、ストリートとジョイスの「進化的暴露論証」が道徳実在論を否定したことに表れているように、これらを「別次元」と捉える考え方に反対して、道徳や善悪の「基」を「適応的利益」という利害損得に見出すところに進化倫理学の特徴があります。

 われわれは日々忙しく暮らしていますので、普段の生活では、自分が考える善悪の基準や道徳観の大元について考える機会は少ないと思います。しかし、道徳と利益との関係を深く考え、理解することで、なんとなく疑問に思っていた道徳や善悪に関する「なぜ」「どうして」にすっきりした答えが見つかり、強い意識で道徳的な行動ができるようになったり、自分とは異なる国や文化の人の道徳観や善悪の意識に対して理解が進んだりするかもしれません。社会生活の中で自分が利益を着実に確保して生きていくために、道徳の活用を考えてみてください。

構成:浅野恵子