「私たちの中の私」という時の「私たち」を、この言葉からすぐに思い浮かべられるであろう「私たち日本人」や「私たち人間」ではなく、まず「私たち生きもの」というところから始めたところにこの連載の特徴があります。ここから始めたのは、COVID-19のパンデミックや異常気象に対処し、新しい社会を作っていく「私」には「私たち生きもの」の中の私という認識が不可欠だと考えているからです。

 先回は、地球という空間でさまざまな生きものが作っている生態系の中で生きるという認識をもつために、そもそも「私」が純粋な形で他と区別されて存在することはないということを示しました。今回は、生きるということを時間の流れの中で考えた時に、「私」という存在がどう見えるかを見ていきます。

 誰にも誕生日があり、そこから「私」の一生が始まります。ところでこの私は、どこから来たのでしょう。母親の卵細胞に父親の精子がもつDNAが入る授精が起きた時が、生物学として見た「私」の始まりです。社会的な誕生日より280日ほど前です。授精によって生まれた受精卵は一個の細胞であり、それが母親の子宮内で分裂を重ね、ヒトという個体になって生まれ出るわけです。受精卵はまったく新しい細胞であり、ここで「私」という唯一無二の存在が誕生することになります。

 ただ、「私」の始まりである受精卵の誕生には、細胞が必要です。生きものは、機械のように部品を集めて組み立てるのではなく、既存の細胞から生まれます。つまり「生きものは生きものからしか生まれない」のです。先回パストゥールがバクテリアで示した発見として紹介したこの事実は、もちろん人間にも当てはまります。あまり考えたことはないかも知れませんが、これはとても重要なことなのです。

 「私」という存在は、もちろん受精の時に生まれるのですが、母親の卵細胞をもとにしているのですから、それが生じた母親誕生の時に「私」誕生のプロセスは始まっていると言えます。しかも受精卵の中に入っているDNA(ゲノム)は母親と父親から受け継いだもので、父親と母親もそれぞれの両親(「私」から見ると祖父母)から同じように細胞とDNA(ゲノム)を受け継いでいます。こうして辿っていくと、すべての「私」は人類の祖先につながります(人類の祖先については後ほど語ります)。生命誌としての遡りはここでは終わりません。人類の祖先の誕生につながるチンパンジーとの共通祖先に遡り……こうして辿ると、38億年前の生命誕生まで戻ります。

 21世紀は、一つの細胞の中にあるすべてのDNA(ゲノム)の解析を通して生きものを知る時代になりました。ゲノムは細胞をはたらかせる基本情報ですから、ゲノムを調べると、細胞のはたらきの全体像を知る重要データが得られます。それだけでなく、ゲノムには38億年前からこれまで、つまり生命誕生から「私」が生まれるまでの歴史が書き込まれています。「私」は誕生日に生まれたには違いないのですが、実は、38億年の歴史なしには決してここに存在しないという事実を無視できません。「私」の中には38億年の歴史が入っており、それを基本に「私」の毎日の活動があるのです。

 ところで、このようにゲノムに38億年の歴史が書き込まれ、しかもそれを解析できるのは、生命誕生の時に細胞ではたらいていたメカニズムと、今「私」の中で行われているそれとが同じだからです。DNAを遺伝子とし、そこに書き込まれた情報を読みとるさまざまなRNAのはたらきを通して必要なタンパク質を合成するメカニズムは、38億年間基本をまったく変えずにきたのです。

 ここで人間が開発した技術を思い起こして下さい。たとえば情報技術です。わたしはこの技術に弱いので細かなことはわかりませんが、以前の技術はもう使えませんと言われることは度々経験しています。身近な例でラジオですが、この100年間に鉱石ラジオに始まり、真空管、トランジスタ、ICと変化してきました。今では鉱石や真空管はもちろん、トランジスタも通常は使われません。日常の記録も、以前使っていたテープやフロッピーディスクなどは役立たずです。コンピュータもバージョンが変わる度に以前のものは使えなくなり、新しいものに慣れるのに一苦労します。日常の情報交換ツールとして利用する程度のことですが、次々と変わることに抵抗感をもち、基本はまったく変わらない「生きもののシステムのみごとさ」を改めて感じています。

 糖尿病の薬であるインスリンはホルモンですから、大量に手に入れるのが難しく、以前はブタのインスリンを代用として使っていました。ところが組換えDNA技術が開発され、ヒトのインスリンDNAをバクテリアの中に入れてはたらかせたところ、バクテリアがどんどんインスリンを生産してくれました。この技術は、インスリン生産という実用性と同時に、38億年の間にギャップがなく、ヒトでもバクテリアでも同じメカニズムがはたらいていることを事実として示した、科学としても画期的な成果でした。

 もちろん生きものは進化をし、新しい機能を獲得し、新しい種を生み出してきました。生命誌絵巻にはその間の道程を示してあり、それを追って生きものたちがどのようにして今の姿になり、今の能力を獲得してきたのかという過程を読み解くことで生まれる長い物語が、生命誌の基礎データとなります。バクテリアから始まり、多細胞生物が生まれ、陸上に進出するなどという大きな変化があったのですから、そこでは新しい機能が次々生まれる必要がありました。しかし、DNAの情報をRNAが読み取ってたんぱく質をつくるという基本は変わらなかったのです。人間が用いる技術も、基本は変えずに新しい機能を獲得していくこのシステムに学ぶこと大です。なにしろ38億年続いたシステムなのですから。この課題は社会の問題を考える時にとりあげようと思っています。

【生命誌絵巻】協力:団まりな 画:橋本律子

 「私」という個人は100年ほどの一生を生きる存在ですが、「私たちの中の私」として見ると、自身の中に38億年という時間を組み込み、その流れを続けていく存在であることが分かりました。まったく同じシステムで生き続けてきた「私たち生きもの」の仲間として生きることには、これからも長い時間続いていくという意味が込められているのです。

 ところで、「私」は誕生の時にオギャアという第一声を発すると同時に大気を肺の中に吸い込み、そこにある微生物も体内にとり込みます。こうして先回述べた常在微生物込みの「私」になるのです(実は子宮を出るとそれはもう外。産道でもすでに微生物たちは体についています)。最初は乳だけですが、すぐにさまざまな食べものを摂るようになり、野菜類、鶏卵、サカナや肉類などの成分が体をつくっていきます。イワシやホウレンソウだった成分が体そのものをつくるので、今日の「私」の体(さまざまな臓器)は昨日とは異なるわけです。もちろんイワシのタンパク質は一度分解され、それを構成していたアミノ酸でヒトのタンパク質を作るのですが、皮ふ細胞などは1ヶ月ほどで更新されますので、今の皮ふはどんな生きものだったのだろうと思ってみるのも「生きものとしての私」を考えることになるでしょう。

 体を構成する物質である核酸、タンパク質、糖、脂質などはすべて炭素化合物(有機化合物)です。最近よく脱炭素社会という言葉が使われますが、生きものが暮らす社会に脱炭素はあり得ません。生きものの社会は、物質として見れば炭素化合物が動き回って構成しているのであり、これからの生き方として大事なのは「炭素をいかに巧みに活用するか」であり、脱炭素ではありません(大気中の二酸化炭素量を急激に増やさないことが重要なのは当然であり、そのための努力は重要ですが、それを脱炭素と表現するのは間違いです)。炭素化合物の循環が、私たちが生きることを支えています。

 今日、朝食のハムを通して取り込まれたタンパク質分子にあった炭素(C)は、いつかブタさんが食べた食事からきたものです。こうして炭素は、さまざまな生きものの中を巡っています。山奥にある森で何十年も前に落ちた落ち葉の中の炭素が、巡り巡って「私」の体をつくっているかもしれません。「私」はこうして空間だけでなく長い時間の中にあり、しかもそれは炭素の循環という形で具体的に見えてくるのです。

 生きものはいつか必ず生を終え、この循環の中に入るのですが、人間は火を使う生活を始め、現代社会では火葬がなされますので、二酸化炭素(CO2)になってしまいます。二酸化炭素の排出は、火を用いることから始まった本質的課題です。もちろん文明は人間が人間らしく生きることであり、それを否定するものではありませんが、文明のありようを根本から考えることが、今求められていると思うのです。

 脱炭素という言葉が対象にしている二酸化炭素(CO2)は無機物であり、この形になった炭素は自然の循環からはずれます。エネルギー的に最も安定な形で、これ以上動かないのです。もちろん、どなたも御存知のように自然はここに光合成というこれまた何ともみごとなしくみを用意してあり、日々植物たちがさり気なくこの難物を有機炭素化合物に変換し、循環の中に入れてくれます。

 脱炭素という言葉を毎日のように耳にするようになり、改めて光合成のみごとさに感嘆しています。これもいつかとりあげますが、30億年以上前、生命誕生からあまり時を置かずに(生命誌を考える時はいつも長い時間と大きな広がりの中にいますので、ここでのあまり時を置かずには、1億年を単位にしてのことです)このしくみが生まれたのは出来過ぎとしか言いようがありません。DNA、RNA、タンパク質を基本に置く生きることを支えるしくみと光合成とはあまりにも日常のことなので、長い間生命誌を考えてきたわたしも、この重要性を明確に指摘してきませんでした。しかし、脱炭素というかけ声でつくり出そうとしている新しい技術のありようを見ていると、このみごとさを認識せずに、人間の技術の力を過信して動いているようで危険を感じます。

 「私たち生きものの中の私」として生きることは、大きな空間と長い長い時間の中に自分を置き、その中で自然と呼ばれるすべてのものと炭素の循環でつながっていることを実感することだという認識を持っていただけたでしょうか。

 「私たちの中の私」の図を見ていただくと、「私たち生きもの」の上に宇宙があります(実は、最初この宇宙を書き落とした図を載せてしまいましたら、ここに宇宙があるのではありませんかと指摘して下さった方がありました。同じ感覚をもっている方がいらっしゃることを知って嬉しくなりました)。

 大きな空間と長い時間、その中での空間的、時間的循環は宇宙にまでつながっていることはわかっていただけると思います。遠い遠い空の上にも炭素化合物はあるのです。「お母さんが、亡くなったおばあちゃんは星になったと言うのだけれどほんとう?」 幼稚園の女の子にそう聞かれたことがあります。答えは「ほんとうよ」です。