「私たち生きもの」というところから始めると、生きものたちは38億年という長い時間をかけて基本的には同じしくみを維持しながら続いてきたのであり、私たち人間もその中で生きる存在であると考えられるようになって広い気持ちになれると先回書きました。

 異常気象や新型コロナウイルス・パンデミックの中で暮らしていると心配になるのは、今のことだけでなく将来です。このような状態で子どもたちの時代はどうなるのだろう。人間は生きものですから続いていくことを願っているのです。生きものの特徴は続いていくところにあるのに、それが危うくなっているのは、私たちの生き方に問題があるのではないだろうか。そんな問いが生まれます。そこで、生きものはどのようにして38億年もの長い間続いてきたのか。その実態を知ることで、私たちの生き方を考えてみたいのです。

 38億年という長い長い物語の中で、続くことを考えるにあたって重要な鍵の一つが“エネルギー”です。今、私たちの社会ではどのようなエネルギーをどのように使ったらよいのかが問題になっており、ここで生きものの世界に学ぶことは大事になっています。因みに、これまではこのような問いは立てずに、出来ることをどんどん進めるという方法を取ってきました。石油も原子力も、可能な限り利用を拡大し、便利な生活を支えようとだけ考えてきました。その結果、原子力発電所の事故、大量の温暖化ガス排出がもたらす異常気象など、難しい問題に直面することになったのです。ここで、再生可能エネルギーに眼を向け始めたのは重要な転換に見えますが、具体的に進められるのが森林を伐採してのメガソーラー施設の設置では、真の転換にはなりません。太陽のエネルギーはどのように使うのが望ましいか。まず、生きものの世界に学ぶ必要があります。

 

私たちの細胞ができるまで 

 そこで、38億年前の生命誕生から始めますが、非常に古いことですから、すべてが分かっているわけではありません。これまでの研究を踏まえ、私が納得できる考え方を選んで物語にしていきます。

 生命誕生の場は、深海底にある熱水噴出孔だったでしょう。現存する硫化物を含んだ熱水噴出孔の周囲には身の回りでは見られない特殊な生きものたちが暮らしています。最初に誕生した祖先細胞から、さまざまな細胞ができていきますが、それらは「超好熱性化学合成無機独立栄養生物」という長い名前で呼ばれる性質を持っています。文字通り、高温の場で何らかのエネルギーを手に入れて必要な物質を自分でつくって生きていく仲間です。メタン生成細菌(水素と二酸化炭素からメタンを生成)、硫酸還元菌(硫化水素を生成)などは今も特殊な環境の中で生き続けています。細菌の他にもう一つ、アーキア(昔は古細菌と呼びましたが、別に細菌より古いわけではないのでこれは使わなくなりました。)と呼ばれる細菌より少し大きめの細胞があり、それも硫黄代謝、メタン生成をする仲間が現存しています。細菌とアーキアという二種の生物界が周囲の物質を用いてエネルギーを獲得し、化学合成で自らをつくって生き続ける世界がこうしてでき上がりました。けれどもこの方法では、獲得できるエネルギー量に限りがあり、細々と続くしかなかったでしょう。もしかすると、どこかで生命の鎖は途切れていたかも知れません。

 そこに、太陽の光をエネルギー源とする、光合成細菌が登場します。それが「シアノバクテリア」であり、当時の大気にたっぷり存在した二酸化炭素と水とを用いてエネルギーを生み出したのです。この能力がどのようにして獲得されたのかはまだわからず、教科書の中で「奇跡」と書かれていることがよくあります。奇跡と言う言葉は「よくぞこんなことが起きたものだ。起きてくれてよかった」という意味で用いているのであり、生命の歴史の中でのエポック・メイキングと言ってよい事項です。光合成細菌の最古の化石は35億年前のものです。つまり、少なくとも35億年前には、光合成が始まっていたことになります。太陽のエネルギーは無限と言ってもよく、「これを上手に使っていけば続いていける」はずで、生きものの世界に大転換がもたらされました。今も、世界中のあちこちに「ストロマイト」と呼ばれるシアノバクテリアと土とが重なってできた層が見られます。生きものが30億年以上続いてきたこと、それは光合成のおかげであることを具体的に示す興味深い存在です。

 こうして海には緑がどんどん広がり、続いていく可能性を手に入れた生きものの世界が生まれました。ところで光合成を「奇跡」と呼びたくなるのは、無限とも言える光のエネルギーを利用したというところに止まりません。

 光合成は、

光エネルギー + CO2 + H2O → 糖 + O2 + 熱エネルギー

 と書くことができます。ここで大事なのは、CO2にあった炭素を糖という有機化合物に変え、これを栄養分や体をつくる材料にしていることです。今流行している「脱炭素」という言葉はCO2が消えることだけを考えていますが、大事なのはこれを有用な炭素化合物にすることであり、私たちもこの炭素でできているのですから、「脱炭素」などと言ってもらっては困ります。利用できない炭素を有用な炭素に変えて大いに利用していくことが大事なのです。生きものの世界を見ていけば、「脱炭素」などという言葉は使えないはずです。

 しかも光合成はO2(酸素)を作ります。光合成の結果、大気中に酸素が存在するようになり、酸素を用いて生きていくために必要なエネルギーを効率よくつくり出す生き方ができるようになりました。私たちがまさにその生き方をしていますよね。光合成は簡単な一行で表せますが、この中に生きること、生きものが続いていくことを支える基本がすべて入っています。化学式など苦手という方も、この簡単な式だけは忘れないでいて下さい。

 こうして生きものが続いていく準備が整いました。でもこの状態では、海の中に緑色のバクテリアがどんどん増殖し、緑色が広がった世界にしかなりません。私たちが今見ている世界になるには、またエポック・メイキングと呼べる事柄が起こります。

 事が起きたのは25億年ほど前のことです。前に紹介したストロマトライトと呼ばれるシアノバクテリアと土とが一緒になってできたぬめぬめしたマットの中での事だと思われます。マットと言っても、層が積み重なって数十メートルから100メートルにも及ぶ円錐になり、それが並んで森のようになっていたのです。そこにはシアノバクテリアだけでなく、以前から存在した細菌やアーキアの仲間も存在し生態系を形成していました。そこから新しい型の細胞が誕生したのです。それが私たち人間をもつくる「真核細胞」であり、多細胞生物になる能力を持っています。ここから目に見える生きものが生まれます。

 細菌とアーキアは「原核細胞」と呼ばれ、それぞれの細胞の性質をきめるゲノム(DNA)は特別の場所をもたず、細胞膜にくっつくような状態で存在しています。これに対して真核細胞は、細胞の中にゲノム(DNA)を収めた核を持ち、その他にそれぞれ独自のはたらきをもつ小器官があります。なかでもエネルギーと深く関わり合うのがミトコンドリアであり、植物細胞の場合はこれに加えて葉緑体があります。そして、この二つは共に細菌由来であることがわかっています。

 光合成細菌が生まれ、ストロマイトができるようになってから10数億年かけて起きた真核細胞の誕生には、アーキアが重要な役割をします。現存するアーキアは、細菌と同じように身近なところにもいますが、その特徴は、濃い塩水、酸性の熱い温泉、空気のない深海底、汚水処理場のヘドロ、南極の氷の下の湖、ウシの胃など、通常生物がいそうもないところにいることです。原始の地球に近い環境に似ているところに存在し、古くからの性質を残して暮らしているのです。

 アーキアは細菌よりも大きく、膜が柔らかくて動きやすく、またさまざまなものを飲み込みやすい性質をもっています。そこでアーキアが細菌を飲み込むことはあったでしょう。その多くは消化されたでしょうが、ある時、飲み込まれた細菌が生き残りました。それは酸素を活用して効率よくエネルギーをつくる細菌(好気性細菌)で、アーキアの中で分裂して生きるようになったのです。

 これによってアーキアは、好気性でエネルギーを上手につくる細胞になりました。中に入った細菌がもっていたエネルギー生産のための遺伝子の一部はアーキアのゲノムに移ることもあり、入った細菌は共生を超えて大きな細胞の一部になりました。ミトコンドリアの誕生であり、それをもった真核細胞の誕生です。これが動物細胞です。さらに、こうしてできた真核細胞が光合成細菌を飲み込み、これが葉緑体になったのです。こうして植物細胞が生まれました。このような物語を支える一つの証拠は、ミトコンドリアと葉緑体のもつゲノム(DNA)の性質が、細菌と同じだからです。

 真核細胞のでき方を見ていくと、以前お話しした、私の中には常在菌やウイルスなど、本来私ではないとされるものが常に存在し、それが存在しない私はいないという事実を思い出します。生きものの世界では外から何かが入ってきて私になってしまうことがよくあるのです。「共生」と呼ばれますが、実例を見ていくと、むしろなくてはならないものとなり、その一部と言ってよい状況になる場合が多いのです。

 「私」と思っているものの中にまったく異なるものが入りこみ私そのものになるということが、私たちの体を構成する細胞を創りだすところですでに始まっていたのです。「生きものの中の私」という見方をすると、自己を他と分けて考えるより前に、さまざまなものを共に存在させ、その能力をうまく生かして新しい可能性を探っていく方が生産的であることが見えてきます。

 ここから見えるのは、現時点での自分を主張するのでなく、謙虚に多様な生き方に眼を向ける方が新しいことが生まれるという事ではないかと思います。