社会は何でできているか

 ここまでは一人の人間とか一匹のイヌという話でしたが、そういった個々の生物がオートポイエティック・システム(APS)だとすると、一人ひとりの人間(の心)によって構成される社会もそうではないかという議論が出てきます。

――社会も自律的で自己準拠的だというわけですね。

 ええ。もしも社会が他律的なら、機械が人間によって運用制御されるように、社会も外部からコントロールされることになってしまいますから。でも、この点を理論化するのが難しかったんです。前述のように、自分で自分(の構成素)を創り出すのがAPSの定義ですが、社会がその構成素である人間を創り出すというのは、人間自身が自律的であるということと矛盾します。つまり、APSは別のAPSの構成素になることはできない。

――社会と人間(の心)の双方をAPSにすることは論理的に不可能だと。

 この難点を克服したのがニクラス・ルーマン(1927-1998)という社会学者です。ルーマンは社会の構成素を人間ではなく「コミュニケーション」だと定義しました。社会はコミュニ―ケーションでできており、個々のコミュニケーションが新たなコミュニケーションを次々に生み出しているんだというわけです。

――なるほど。

 ここで重要になるのが「メディア」です。メディアというと普通はインターネットやテレビや新聞が思い浮かびますが、ここでの定義は「コミュニケーションにおける論理的、意味的な伝達を可能にするもの」です。ルーマンはこれを「成果メディア」(もともとはタルコット・パーソンズの概念)と呼んで、その役割に注目しました。端的に言うと、ある特定の意味の領域を象徴し、そこでの適切なコミュニケーションを導くのが成果メディアです。たとえば、学問システムなら「真理」、経済システムなら「貨幣」がそれにあたります。

――あるシステムにおけるコミュニケーションの基準になるもの、みたいなイメージですか?

 そうですね。たとえば研究者は学会で「真理」を基準にして、つまりどの説が正しいか誤りかについて議論を戦わせているわけです。だから学問の世界に「貨幣」という成果メディア、儲かるか儲からないかという基準を持ち込むのは、本当はおかしいんです。仮に損得の議論があっても、それは学問的コミュニケーションではない。

 ルーマンは全体社会を学問/経済/法律/文学……といったさまざまな意味領域が機能的に独立・分化したサブシステムの集まりとしてとらえ直しました。これは「機能的分化社会理論」と名付けられ、多くの理論社会学者に支持されています。

――オートポイエーシス理論自体は生物学なのに、社会学の分野で受け入れられたんですね。

 分子生物学をはじめ、生物学にはどうしても生物を機械的に捉える傾向があります。それを批判したのがオートポイエーシス理論なので、生物学者には受け入れられにくいのです。

 では情報工学ではどうでしょうか。当初のオートポイエーシス理論では「情報伝達」という概念は認められにくい。生物は自律的で閉鎖的なシステム(APS)なので、情報が他の生物に直接伝達されることはありえないからです。でも、現実の人間社会では電子メールやLINEが交わされ、情報伝達は実際におこなわれています。この矛盾をどう考えればいいのか。――ここでようやく、私の提唱する「基礎情報学」が出てくるわけです。

 すべての情報は「生命情報」である

 オートポイエーシス理論によって生物は自律的なAPSと定義され、他律的な機械との違いが明確になりました。これによって人間がデータ処理機械(アルゴリズム)と同一視される脅威は理論的には克服できる。しかしながら現実的には、現代情報化社会において人間よりもデータが重視され、自由が侵害されていく脅威は残っています。なぜなら、人間の行動には他律的な面もあるからです。

 人間は社会という共同体のなかで、法律をはじめとしたさまざまなルールや慣習に従わないと生きていけない。つまり、われわれは本来自律的で自由なのですが、同時に他者や社会と折り合いをつけながら生きている、という他律的で従属的な面も持っているんです。

 たとえば営業マンは自分の意思とは関係なく、会社の命令に従って自社の商品を売らなければいけない。内心では欠陥だらけだと思っていても、「これは素晴らしい製品なんです!」と言って、それこそロボットのように客先を回らされる。コンピューティング・パラダイムのもとで、ホモ・デウスによる支配が行なわれるというハラリの未来像は、こういった社会機構からもたらされるわけです。

――社会的であるということは、他律的であるということでもあるんですね。

 したがって、われわれが本来の自由を取り戻し、かつ快適な社会生活を送れるようになるには、サイバネティック・パラダイムとコンピューティング・パラダイムをうまく組み合わせた情報の理論が不可欠であり、それを目的としているのが「基礎情報学」と言えるでしょう。

 ここから「情報とは何か?」という話になるのですが、コンピューティング・パラダイムのもとで伝達される「情報」はコンピュータによって処理されるデジタルデータのことです。でも、われわれが「メール届きましたか」と相手に尋ねるときは、デジタルデータが受信されたかどうかだけでなく、そのメールの内容が相手にちゃんと伝わっているかどうかを知りたいわけですよね。つまり、大事なのはデータのもつ意味内容なんです。

 にもかかわらずその意味を捨象し、デジタルデータをどう伝達するかだけにもとづいて情報社会が構築されたらどうなるか。くり返しになりますが、人間はデータを処理するアルゴリズムと見なされ、人間よりもはるかに処理能力の高いAIの奴隷になってしまう。

――そうやってハラリの予測する未来社会が実現する。

 なので、最初の問題は情報という概念をどう定義するかです。基礎情報学において情報は「生命情報」、「社会情報」、「機械情報」の3つに分類されます。これらは包摂関係にあって、最も広義な情報が「生命情報」であり、それより狭義なのが「社会情報」、最も狭義なのが「機械情報」です。

――情報とはまず「生命情報」であると。

 このことは、前述したように、「意味」というものが「個々の生物の生存にとっての価値および重要性」だということと深く関係しています。つまり「生命情報」は、主観的で身体的な意味形成によってもたらされるわけです。その生命情報を、言葉や画像、シンボルといった社会的な記号で表現したものが2つめの「社会情報」です。これはたとえば、のどが渇いて死にそうなとき、近くにいる人にそれを伝えて水をもらうという状況を考えてみるとわかりやすいでしょう。

――「のどが渇いて死にそうだ」という生命情報を言葉にすることで社会情報になるわけですね。

 そういうことです。ただ、アフリカの砂漠で「のどが渇いたので水ありませんか」と言っても、ほとんどの場合は効果がありませんよね。つまり、社会情報は特定のルールや状況にもとづいて生成されるものであり、それは特定の社会(たとえば日本語圏)の中だけで通じるものなのです。

 この社会情報を効率よく伝達・記録・処理するのが3つめの「機械情報」です。デジタルデータに限った話ではなく、文字もまた機械情報に他なりません。昔は「筆耕」といって、頼まれた文章を内容にかかわらず書き写す職業がありましたが、いまはそれがコンピュータに変わったというだけのことです。

 改めてまとめると、たとえば、腹が痛くて頭もくらくらするという身体状況がうみだすのが生命情報、医者に対する「腹痛と発熱があります」という訴えが社会情報、訴えにもとづいて医者が診断をくだし、電子カルテに入力する「食中毒」という文字列が機械情報ということです。そしてこの機械情報にもとづいて、注射をしたり、薬を処方したりといった医療行為がなされる。

 これは卑近な例ですが、情報とは本来生命的なものだという前提が守られれば、患者の主観的な自律性は保たれ、患者が単に形式的なデータ処理の対象となるという事態は避けられるでしょう。

――「痛い」という主観的な「生命情報」こそが根源であり、それは診察や検査によって得られる「機械情報」よりも重要視されなければいけないんですね。

 機械情報において、個々人の主観に基づく意味(痛いという身体感覚)は潜在化しているのです。こういうプロセスに気づかないと、本人がいくら痛いといっても、「検査で異常がないのでどこも悪くない」といった診断になってしまうわけです。