今回は、改めて「こと」と「もの」という日本語の語について、母語話者の一人である私の語感をもとに、これらの語のもつ「文法」を探ってみたいと思います。あくまでも私個人の語感ですので、違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれません。ただこういう個々人の語感の集合が、母語内のそれぞれの語の「文法」を形成しているので、とりあえず少し探ってみたいというわけです。

「こと」と「もの」は何がちがう?

 まずは、「こと」から。「こと」は、形がなく、流動的で、しかも透明な印象です。何も入っていない箱です。だだ、箱とはいっても、その枠組さえもない、といった感じでしょうか。したがって、「こと」という語を発語することにより、非常に恣意的に透明なやり方(形を決めない)で、事態を切り取っているような感じです。そもそもこの世界は、切れ目なく連続しています。どこにも、分割線は、ひかれていません。その分割線のない世界を、かりに「こと」という語を使うことによって切り取るというわけです。別の言い方をすれば、「こと」は、そういう切り取りができる力のある語だということが言えるでしょう。

 だから、この「こと」という箱のなかには、何を入れてもいい。ただ、そこに入るのは、一定の形をもったものではありません。たとえば、「人間」は、そのままでは(?)入りません。ところが、「人間ということ」「人間が生きていること」「人間が存在しているということ」といった言い方になれば、入ります。

 ということは、逆に、「こと」という言い方をすることによって、一定の形がなかったものを、箱に入れて取り上げるということになります。「人間」は、一人ひとり(の具体的個人であれば)見ることができるし触ることもできます。そのような知覚できるもろもろの対象にあふれている世界から、「人間ということ」という言い方によって、すべての個人を内包する「人間」という、いままで誰も知覚できなかった対象を創造するともいえるでしょう。

 もしかしたら、こういう恣意的な切り取りができるから、「こと」は、「事」であり「言」なのかもしれません。言語の原初的な分節化と関係しているのかもしれません。(これは、あくまで個人の感想です)

 さて、それに対して「もの」は、どうでしょうか。

 これも、私だけの語感かもしれませんが、「もの」は、「こと」に比べると、ずっと固体的なイメージがあります。それに、輪郭がくっきりはっきりしているイメージです。ようするに、固体的であり、かつ個体的とでもいえる感じです。「もの」は、「物」であり、物質や物体を意味するので当然なのかもしれません。

 ただ、「もの」にも、いろいろな用法があることはすでに確認しましたので、「物質」や「物体」だけを指しているわけではないことは、重々承知しています。でも、やはり、「こと」に比べると、はるかに「固い」。何しろ、「こと」は、「形のない透明な箱」なので、これより「固い」のは、まあ当たり前の話ですが。

 でも、「もの」だって、恣意的な切り取りという点では、「こと」と同じです。先ほども言いましたように、この世界は、連続していますので(たしかに、さまざまな物には形がありますので、一見、非連続のようにも見えますが、それぞれの物と物との間に、はっきり境界線を引くことは、けっしてできません)、物体だろうが、身体だろうが、本当は、その周りと連続しているのを、こちら側で仮に切り取っていることに違いはありません。「椅子」も、「万年筆」も、「スリッパ」も、連続している世界から、「もの」として切り取っているわけです。まわりの空間と曖昧に境界づけられている椅子を、「もの」(「椅子」)と名づけることによって、勝手に切り取っているというわけです。

 ただ、「こと」に比べると、あきらかに「もの」の方が、対象側の都合(あるいは、われわれの知覚)に合わせている感じがします。個々の物体は、われわれの知覚のレベルでは、個別に存在していますので、われわれ日本語を母語とする人間たちにとっては、個別の「もの」(机や鉛筆などなど)の切り取り方は、だいたいの人が共有しているような気がします。だから、日本語のなかには、誰でも同じように使えるもろもろの名詞が存在していると言えるでしょう。

 こういう意味で、「もの」は、「こと」に比べると「固い」と言っているのです。ただあくまでも、融通無碍[むげ]な「こと」と比較した場合です。さて、「こと」と「もの」の私自身の語感のちがい(ウィトゲンシュタインのいう意味での「語の文法」のちがい)を確認したうえで、さらに、それぞれの語について、少し角度を変えて考えていきたいと思います。

抽象度の比較

「抽象」というはたらきがあります。これは、もろもろの具体的な世界から、特定の同じ「形」(象)を取りだす(抽きだす)はたらきだと言えるでしょう。ただ「形」(象)を取り出すので、その形には、色や臭いはありません。完全に脱色、脱臭されています。空っぽの箱のようなものが取りだされると言っていいでしょう。

 隣の部屋の山本さんや道を歩いているおばあさん、ランドセルを背負った小学生たち、それらを抽象すると、無色無臭の「人間」あるいは「ヒト」という空っぽの箱が、取りだされるというわけです。

 先ほど説明した「こと」という語の語感と非常によく似たはたらきが、抽象というはたらきだと言えるでしょう。「こと」は透明な箱なので、たしかに無色無臭の抽象と似ているのかもしれません。ただ、言語一般が、このような抽象化(もともと連続している世界を分節化したとたんに生じるはたらき)をしているわけですから、そのような根源的抽象化のなかで、もっとも抽象化のはたらきが強いのが、「こと」ということになるのかもしれません。

 ただ、ここで面白いなぁと思うのは、「こと」は、語だということです。どういうことかといいますと、「こと」は、音であり、文字であり、物質だということです。どんなに透明の箱だとは言っても、この現実の世界に登場している限り、具体的な物質としてわれわれ(日本語を母語とする者)に使われているということです。「こと」は、ある意味で「もの」(物)だということになるでしょう。

 すべての存在を恣意的に包摂することができる「こと」(もっとも抽象度の高い語)は、それ自身が具体的な物質である(ことばである)こと。これは、ひょっとしたら西田幾多郎の出番かもしれませんね(出しませんけど、ややこしくなるから)。

 ま、ようするに、「こと」という語は、そのような意味で、言語のなかの極北に位置する語ではないかと思われます。それでは、「もの」は、どうでしょうか。「もの」だって、この世界のありとあらゆる「物」や「者」を包摂することができるわけですから、抽象度は、とてつもなく高い。「ありとあらゆるもの」という言葉があるくらいですから。とんでもなく大きい風呂敷です。

 ただ「こと」に比べると、どうでしょう。「こと」の方は、「もの」同士のさまざまな無限の関係性も、ごっそり包摂しますので、さらに巨大な風呂敷であることがわかると思います。「もの」の方が、「固い」気がするのも、そのためではないでしょうか。「こと」の方が、抽象度が高く、「もの」は、それにくらべると、かなり具体的だ、といえるかもしれません。

「そういうこと」と「そういうもの」

 さて、こうしたことを礎にして、つぎのような言い方を検討してみましょう。「そういうこと」と「そういうもの」という言い方です。例えば、こういう文に登場します。

「この前の事件は、そういうことだったんだ」

「いろいろあったけど、人生なんて、そういうものだから」

 このちがいは、どんなちがいでしょうか。ここでも、抽象や具体の方向性や程度は、関係しているのでしょうか。考えてみたいと思います。この場合の「こと」は、何かよくわからなかった事態が、解明されてクリアになった結果を表現しているように思われます。それに対して、「もの」の方は、どうでしょう。この場合の「もの」は、人生のもつ本質を、こちら側の諦めの気持ちとともに表明しているように思われます。べつの言い方をすれば、「こと」は、こちら側の心情とは関係のない客観的な事情を表しているのに対して、「もの」の方は、こちら側の心情が色濃く反映されているような印象です。

 では、べつの言い方を見てみましょう。

「人間ということ

「人間というもの

 これもまた、あきらかに「こと」の方は、人間であるとは、どういうことなのかを客観的に述べているような感じなのに対して、「もの」の方は、何か人間に対する諦めのような気持ち(ただ、この感情は、「諦め」とは言い切れない複雑なもののような気がします)が漂ってくるような気がします。これは、私だけでしょうか。

 以上は、あくまでも私個人の感想なので、共感できなかったら、「共感できないな」と口ずさんでみてください。

 さて、これだけ確認して、他の人の「こと」「もの」についての見解も見てみましょう。

大野晋は、「モノ」とカタカナで書いて、つぎのように言っています。

モノとは時間的に不変の存在であるから、抽象化された場合には、確実で動かしがたい事実、不変の法則を指すことになった。(『日本語をさかのぼる』岩波新書、1987年、29~30頁)

なるほど。大野の言うように、「不変な存在」「不変の法則」というニュアンスは、「そういうものだから」という言い方のなかに、たしかにこめられていました。「不変」だからこそ、こちら側に諦めのような気持ちが生じるともいえるかもしれません。

 「こと」については、つぎのように言っています。

これらの例で分るように、コトは、コトバにあたる意味とコト(事)にあたる意味とを一語で兼ねていた。つまりこれは古代日本人が、人間の口にするコトと人間のするコトとはすなわち同一であると見る素朴な観念を抱いていたことの証拠である。(同書、60頁)

 古代日本人は、「事」と「言」を同一だと考えていたということです。言語による連続的世界からの分節化と「こと」という語が、深くかかわっていたことが、ここからもわかると思います。

 次回は、さらに他の人たちの「こと」「もの」についての考え方を見ていきたいと思います。