「もの」はどうにもできない「こと」

 さて、さらに、他の人たちが、「もの」や「こと」について、どのように言っているのか、探っていきましょう。荒木博之という人の『やまとことばの人類学 日本語から日本人を考える』(朝日新聞社、1985年)というとても優れた本があります。荒木の考察を見てみましょう。

 まずは、「もの」についてこう言います。

それを日本人は「さだめ」というひとつ言葉で呼んだのであるが、日本人はそれに加えて、「共同体(集団)の論理」や「宿命」だけでなく、さらに広義の不動の原理をも指示するきわめて重要な表現をもっていた。それは「もの」という言葉である。「もの」は、神の論理としての共同体(集団)の論理だけでなく、人間の存在を貫いてある恒常不変の原理(さだめ)、さらには超自然的存在物(聖・非聖)、あるいは時間的に恒常不変のものとしてとらえることのできる具象物、までを広く指示することばである。(86頁)

 なるほど。かなり納得できる結論です。われわれ個々人では、どうにもならない「さだめ」や「宿命」のことを表すときに「もの」という語が使われるというわけです。そこで「こと」という語は、けっして使わない。

荒木も書いているように、

 たとえば、われわれは「人生は空しいもの」といって、「人生は空しいこと」とはいわない。「何と馬鹿げたことをしでかしたものだ」とはいうが、「何と馬鹿げたものをしでかしたことだ」とはいい得ない。(88頁)

のです。

 やはり、私たちにはどうにもならない事態を、「もの」という語で表しているのです。だから、私の個人的な語感として、「もの」を使うときに「諦めのような気持ち」が、そこに籠められるのも当然だと言えるでしょう。私たちにはどうにもできない「こと」だから、「それは、そういうものだから」などと言うのです。

 荒木は、つぎのように結論を述べます。

「もの」はいま見てきたように恒常不変の原理的なものを指示するのであるが、具象物を指して「もの」というのも具象物は本質的に恒常不変なものと認識されてきたからである。現代の人間にとっては、抽象的原理と具象的物体とは、まったく異なった対象世界でしかあり得ないが、古代の人間にとってはけっしてそうではなかったのである。古代の日本人は同じ「もの」ということばによって、恒常的・不変的・運命的原理をも、具象的な物体をも矛盾なく指示してきた。(92頁)

 前回書きました「もの」という語のもつ「固さ」つまり「固体性」とでも言うべきものは、この語が恒常不変の原理であり、われわれにはどうにもできない運命的原理を含んでいるからだということになります。

 さらに「もの」は、具体的な個物であると同時に、抽象的な原理でもあります。これもまたひじょうに独特なこの語のあり方だと思います。この世界を構成する無数の「もの」(物)は、いろいろなレベルやさまざまな領域で、そのつど切りとることができる恣意的な「もの」です――たとえば山という「もの」は自然の造形物としても、そこに棲む生きものの棲み処としても、あるいは人間の資源としても捉えることがきます――。そのあらゆる段階、すべての可能な場における「もの」が、そのような個物的なあり方をしていると同時に、運命や原理をも表しているというのですから。

 大きさも種類も、具体的側面も抽象的側面も、すべて表現していて、それら森羅万象(しかも、無数の視点からの万物)が、ある意味で、それぞれ、ひじょうに堅固なあり方をしている。それらを一括して「もの」と言うことができるわけです。何という化け物じみた包摂範囲の広大さと変幻自在さでしょう。驚くばかりです。

「こと」は非原理的で一回的

 それに対して、「こと」は、どうなのでしょうか。前回取り上げた大野晋同様、「言[こと]」と「事[こと]」との未分性を指摘して、荒木は、つぎのように言います。

 「こと」の主たる意味は「言語」としての「こと」と、事実、事柄を意味する「こと」およびそれからの派生的な意味であるが、古代にあっては、言語行為としての「こと」と、出来事としての「こと」とは未分化の同じ「こと」としてとらえられていた。(108頁)

 このように、言語的分節化と同じように、世界を分節する「こと」(言・事)は、「もの」とは異なり、そのつどの一回性を表現していると荒木は言います。さらに、『万葉集』の二つの歌を引用した後に、つぎのように「こと」のもつ意味を説明します。

 右の例の「恙[つつ]むことなく」の「こと」は、祟りを受けて怪我をしたり、病気になったりするという事件を指示し、「逢ふこともあらむ」の「こと」も、逢うという機会、事件を指しているわけだから、いずれも原理的・恒常的なものを指示しているのではなく、非原理的・一回的な生起変転するものを指しているのである。(113頁)

「もの」は、原理的で恒常不変なものを指し、それに対して、「こと」は、非原理的で一回的な出来事を指しているというのです。これは、とても興味深い。

 なぜなら、われわれの通常の語感としては、「もの」の方が、より小さく、「こと」の方が、融通無碍[むげ]であらゆるものを包摂する大きさをもっているような感じがするからです。言ってみれば、イメージ的には、「もの」は個物で、「こと」は、それらあらゆる個物を包みこむ大きな風呂敷といった感じでしょうか。

 ところが荒木によると、それぞれの語が含意している本質は、「もの」の方が、運命や原理という、この世界の基底に存在する堅固な被膜のようなものであり、「こと」の方は、その基底原理に拘束されながら、そのつど生起し消滅する一回限りの非原理的な個々の出来事だからです。この意味のとんでもない反転(どんでん返し)は、とても不思議なのではないでしょうか。

 最初の印象では、「こと」の方が、広く大きく包みこみ、「もの」の方は、粒子のような個的なあり方で、この世界の最小単位のような感じだったのに、よくよく調べてみると、まったく逆だったわけですから。この世界の瞬間瞬間の出来事が「こと」であり、それを背後で支える世界の原理こそが「もの」だというのです。本当に驚いてしまいます。

 荒木は、ここまでは言っていませんが、「もの」と「こと」という二つの語のあいだで、こうした不思議な反転がおこっているのは、たしかなことだと思います。

「ものがたり」と「ことわざ」

 最後に、荒木が、「もの」と「こと」との対比を「ものがたり」と「ことわざ」という語で説明しているところを見てみたいと思います。

 まず「ものがたり」について、荒木は、こう言います。

かつての日本人の「ものがたり」に対する認識が、私が「もの」の意味から論理的に推論した「ものがたり」の意味ときわめて近いものであることを知るのであるが、物語文学の権威、三谷栄一氏なども、「もの」を「鬼[もの]」「精霊」と比定し、その立場から「ものがたり」を「ある氏族のみに伝えられ、信じられた尊いカタリゴト」「ある家に語りつがれた信仰的言い伝え」としているのは、たいへん興味深い。『日本昔話事典』(弘文堂)なども三谷氏と同じ立場から「ものがたり」を本来「子孫や氏族に、あるいは国中に知らせ、是非語り伝えねばならない重要かつ神聖なカタリゴト」としているのであるが、「もの」の意を私のように「世の原理・法則」と規定する立場からも、あるいは「鬼[もの]」「精霊」「神」などと措定する立場からも、「ものがたり」が、軌を一にして、「原理・法則についての説話」というひとつの結論に到達し得たことが大変面白いのである。(118頁)

「もの」が「世の原理・法則」であるとすれば、「ものがたり」は、ある氏族やある家に語りつがれた、その氏族や家の「原理・法則」だと言うのです。そして、荒木は、「もの」というのは「共同体の論理」を表しているとも言っています(86頁や119頁)。したがって、「ものがたり」という言い方のうちで、「もの」という語のもつ「原理・法則」という性格が、とてもよく活かされているということになります。

 それに対して、「こと」の方は、どうでしょう。荒木は、「ことわざ」という語のなかにある「こと」のもつ非原理的・一回的なあり方を指摘しています。

「ことわざ」はある生起転回してゆく「こと」、事件に際して「言語」の内的威力によって人を動かす言語の技芸である。この場合、「こと」は「ことば」および、一回的事件としての「こと」という、意味の ambiguity(両義性)をその深奥に秘めている。「ものがたり」が「世の原理・法則についての、あるいは原理・法則を知らしめるための説話」であるのに対して、「ことわざ」は、非原理的・一回的「こと」にかかわる言語の技芸であった。(124頁)

 なるほど。とても説得力のある説明だと思います。「ことわざ」のもつ、そのつどの局面における瞬発力を、実に的確にとらえているのではないでしょうか。「ことわざ」は、「こと」(言葉による一回性の出来事)の「わざ」(技芸)なのです。

「もの」と「こと」という二つの語の、日本語の母語話者にしかわからない深く微妙な意味の重なりや相違が、「ものがたり」と「ことわざ」という具体的な現象で、くっきりと表れていると言えるのではないでしょうか。

 次回もまだまだ、「もの」と「こと」について考えてみたいと思います。