――最後に、新自由主義と生権力の関係についてお聞きしたいと思います。フーコーは自由主義がもつ統治能力に強い興味を持っていたとのことですが、そもそも18世紀、それこそアダム・スミスの時代の自由主義と20世紀後半以降に台頭する新自由主義というのは何が違うんですか。

 これはいろいろな言い方があると思うんですけど。

――なんとなくですが、スミスの時代は経済という領域内だけの自由を保障する感じなのかなと。

 そういう言い方もできるかもしれません。国家は市場に介入しないで、「見えざる手」に委ねるべきだというのがスミスの議論。つまり、経済という自律的な領域があるということが言われ出したのが18世紀だとすると、現代の新自由主義はその経済の論理や文法を、ありとあらゆる場面で適用しようとするものだといえます。

 教育は投資だとかっていうのはよくいわれますし、就職先や結婚相手を探すのとコンビニで弁当を選ぶのとは同じだと考えることもできる。そこにあるのは「コスパ」という原理です。希少な資源をどう配分すれば最大の成果が得られるのかということだけで、すべてが説明できてしまう。たとえば、結婚相談所の登録料が5万円・10万円・20万円の3段階あったとして、ここで20万払っておいた方が人生全体で見れば得かもしれないとか、結婚して子どもが3人生まれたとして、誰にどれだけ費用をかければ一番老後が安定するかみたいに。

――おっしゃる通り、今は本当になんでも「コスパ」ですよね。スミスの時代には社会の中の一領域でしかなかった経済がすべてを飲み込み、社会全体が市場になった。その結果、社会を構成する我々もコスパの最大化のみを追求する存在、「ホモ・エコノミクス」になってしまったわけですよね。そんな中で、フーコーの関心を惹いたのは何だったのでしょうか。

 それはやはり統治に関する問題だと思います。たとえば、犯罪者もコスパを考えて行動しているということであれば、麻薬を取り締まるにしても、捜査を一律に強化するのではなく、締め付けるルートとあえて緩めて泳がせるルートをつくるといった発想になる。こういう犯罪政策は、『監獄の誕生』の規律化論とはぜんぜん違う発想なので、フーコーもかなり驚いたんじゃないかと思います。

――規律ではなく、心理を利用して犯罪を抑止するわけですね。

 そうですね。コストがあまりにも大きかったら犯罪者も思いとどまる。たとえば、「振り込め詐欺」をやっているような人たちは、対策が強化されるとすぐに別の犯罪に移りますよね。痴漢や幼女へのわいせつ行為にしても、電車内に監視カメラを設置したり、公園の木を低くして外からでも何をしているかが見えるようになると、おかしなことをする人が減るそうです。あくまでもその場所では、ですが。

――その場合のコストは、見つかったり、捕まったりするリスクということですね。監視カメラの存在をあえて知らせたりするのは、その「コスト」を意識させる効果があるわけですね。

 サポートセンターの電話で流れる「この通話は録音されています」とかね。そういうのは全部、人間はコストが大きすぎることはやらないということを前提に、望ましい行動をとるように促すやり方なんですよ。「ナッジ」っていうんですけど。

――ナッジ?

 こうした方がいいんじゃないって肘でつつくのを、ナッジっていうんですよ。規律のように命令したり強制したりするのではなく、自発的な行動変容を促すやり方。

――それも生権力なんですか。

 生権力のテクニックの一つだと思います。ナッジはマーケティングなんかでもよく利用されていますけど、根本にあるのはやはりホモ・エコノミクス的な考え方です。人間をすごく単純化して、ある意味動物のように捉えている。ここをつついてやればこういう風に動くよね、みたいな。そういう発想がいまはすごく多いです。

――コスパという本能で動く動物というわけですか……。でも、教育も就職も結婚も犯罪も、ぜんぶ同じ原理で説明できるというのはたしかにすごいですね。

 そうなんです。本当は違うんだけど、説明しようと思えばできてしまう。そんな便利なものはなかなかないですよね。フーコーもそのことに感嘆していますが、じゃあ彼が新自由主義を肯定していたかというと、それは違います。フーコーは新自由主義を称賛していたとかいう人がいますけど、私はそうは思いません。彼はチリで起きた新自由主義化を標榜したクーデターも知っていたはずなので、恐ろしいとは思っても、素晴らしいなんて思わないでしょう。

 実はフーコーってぜんぜん読まれてないんですよ。せめてちゃんと読んでから言ってよとは思います。

――私もぜんぜんちゃんと読めていませんが、素人目にも一筋縄ではいかないというか、なかなかすっきりとわからせてはくれない哲学者ですよね。

 そうなの。そこがいいんですよ。わからないからもっと読みたくなる。すっきりわかったらそこで終わっちゃうじゃないですか。でも今はすっきりわかりたい人ばかりですよね、しかもなるべく短時間で。それこそコスパですよ。

――最初の方で、「なぜ」ではなく「何がどう起きたか」を著述するのがフーコーの書き方だというお話がありましたが、だとすると、フーコーを読んでよくわからないということは、この世界で起きていること自体がなんだかよくわからないということなのかなと思いました。

 そうだと思います。フーコーは、みんながわかっていると思ってることは、ほんとうはわかってないんだってことを言い続けた人なんです。気の遠くなるような準備と調査と思考を重ねて、ほらね、わかってなかったでしょって。ある意味、ヒューマニティーをすごく信じている人ですよ。人間には自分で考える力がある。この先を考えるのはあなただよって、問いを投げかけているんです。それこそが哲学者というものなのではないでしょうか。


(取材日:2022年7月5日)