ケインズ主義の行き詰まり

 冷戦後に一気に進んだ大きな変化に、戦争の民営化がある。

 これはじつは冷戦終結そのものの結果というより、以前から進んでいたアメリカ社会の組織的変化が、軍事領域にも拡大したことだと言っていい。その変化とは、経済社会政策のケインズ主義からネオ・リベラリズム(新自由主義)への転換である。

 アメリカは、大戦間の「大恐慌」を乗り越えるため、ルーズベルト大統領がニューディール政策を採用、それ以来公共投資によって雇用を作り出し、産業経済を活性化させる(成長を作り出す)という経済政策を採ってきた。第二次世界大戦は、ヨーロッパにとっては大災厄だった。だが、アメリカは多くの軍隊をヨーロッパ・アジアに送り出して戦ったが、大西洋と太平洋によって世界の戦場から隔てられた本土は、世界各地で消耗し尽される物資を供給する世界の工場となって産業的には大発展を遂げた(その頂点が、核兵器の開発製造だったとは言わないが)。

 そして戦後は、共産主義ソ連への対抗もあり、壊滅した西ヨーロッパを復興すべくマーシャル・プラン(国防長官ジョージ・マーシャルによって計画されたヨーロッパ諸国の復興支援計画)で強力に支援した。アジア諸国に対してはガリオア・エロア基金(アメリカが西ドイツ、オーストリア、イタリア、日本、南朝鮮に行った援助のための基金)だ。いくら競争でひとり勝ちしても、その製品の買い手がいなければ強大な産業力も潰れてしまう。それに貧困は共産主義(社会主義)浸透の土壌になる。ソ連の影響力を抑えるためにも、アメリカは市場競争原理を棚上げしても西側諸国の復興を支援した。それは、政策誘導で経済を活性化させるというケインズ主義の国際的適用だとも言える。

 その一方で、国内では大量生産・大量消費の繁栄状態が作り出され、それが「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ(アメリカ的生活様式)」として、マンハッタンのイリュミネーションあるいは自由の女神像のようにして世界に掲げられ、全世界の憧れ(羨望)を誘った。やがて世界は(少なくとも西側世界は)こうなるのだとばかりに。

 そうして復興した国々はアメリカ産業の望ましい市場となるが、同時にまた競争相手にもなる(その好例は日本の自動車産業)。よく言えばその競争によって世界経済は活性化してゆくが、一方、アメリカの最大の「公共投資」セクターは、冷戦下で当然ながら軍需産業になった。アイゼンハワー大統領が退任時(一九六一年)に軍産複合体制について深刻な警告を発したのは有名だが、その後、アメリカはベトナムでの戦争に深入りすることになる。この戦争への出費は「公共投資」として軍需を軸として経済規模を拡大する一方で、重い負担(税収の多くが戦争に投入される)となって国家財政を脅かすようになった。

新自由主義の台頭

 そこでケインズ主義を目の敵にするミルトン・フリードマン等の「新自由主義」の出番が回ってくる。新自由主義をたんなる経済理論とみなすことはできない。それは共産主義と同じような、そしてそれに全面対抗しようとするラジカルな社会改造プロジェクトである。

 フリードマンの先達はフリードリヒ・ハイエクだが、おそらく「自由な社会とその敵」(カール・ポバー)という標語に集約することもできるその思想は、当時ソ連が体現していた国家計画経済体制が、経済のみならず人間の「自由」を根底的に否定する体制だと批判し、「社会性」(社会的利益)を口実にしたあらゆる自由の制約を斥けて、個の意欲の無制約の解放こそが文明の発展と人類の幸福をもたらすという考えである。そして欲望のアリーナ(競技場)である「市場」へのあらゆる外的権力の介入を「不正」だとして拒絶する。すべては「市場」の決定に委ねなければならない。売れるものが人びとの欲望に答える良い商品であり、ダメなものは淘汰される。それだけが「自由」の競合による決定の場だと。そこに外的力の介入があってはならない。そう考えるため、個のイニシアチヴと市場の無制約化を理想とする。

 ただし、そんな抽象的な「市場」は現実には存在しない。どこの国の社会でも、市場取引はその社会の人びとの生活慣行や歴史的条件をベースに成り立っている。だが、そうした社会的条件や、ましてや国家(政治)による介入・調整を一掃してこそ、市場の決定機能は十全になり、富も幸福も最大化する(これをシステムの「最適化(maximalization)」と呼ぶ)。それが最も「公正」(正しい)な「自由市場」だというのだ(『大転換』を書いたカール・ポランニーが「市場を社会に埋め戻す」ことを課題に掲げたのとはまったく反対の考えである)。

 彼らにとっては、公共投資を梃[てこ]に経済を活性化し、社会分断を避けて福祉(再分配)を考慮するケインズ主義は、個より全体を優先させる社会主義と変わらない。理想は、国家の事業もすべからく「民営化(私営化)」して市場競争に委ねることである。だが、戦後の全般的な混乱が収まるまでは、さらには各国のそして国際的な政治的調整なしには、世界的な「復興」はありえなかった。だからこの「市場原理主義」の理想は、長らくフリードマンの拠点シカゴ大学経済学部研究室にくすぶっていたのだが、ベトナム戦争によるアメリカの国家財政破綻の危機から、強引にその「市場」を作り出すチャンスが訪れることになった。

 その最初の「実験」が、南米チリに成立した社会主義政権(アジェンデ政権)を倒したピノチェト将軍のクーデター(一九七二年)とその後に続いた最悪の軍事独裁下で、「シカゴボーイズ」によって実施されたことはよく知られている。ナオミ・クラインはこうした「新自由主義」の適用を「ショック・ドクトリン」と呼んだ。軍事クーデターとそれに続く恐怖の粛清で、社会はショック状態に陥り、いわば無抵抗化し空白化したところに「自由市場」の原理を植え付ける、ということだ。これについてはナオミ・クラインの著書を参照してもらうとして、ここではアメリカ本国でとりわけ「戦争」に絡んで起こったことに注目しておこう。