――最後に戦争と民主主義の関係についてお聞きしたいと思います。今回のロシアによるウクライナへの侵攻は非常にショックを受けました。ロシアの行為は当然許されるものではありませんが、一方でウクライナ政府が国民総動員令を発令し、18歳から60歳までの男性の出国を禁止したことも、私自身はすんなりと飲み込むことができません。国を守るために戦え、そのために死ねと強制することが、はたして民主主義なのか。それでは第二次大戦の日本と同じではないかと。

 戦争と民主主義の関係は非常に複雑です。一昔前まで、特に日本の市民運動系の人びとは、戦争と民主主義を対極にあるものと捉え、戦争への道を二度と歩まないためにも民主主義が大切だと主張していたように思いますが、この両者には実は深いつながりがあります。

 早くも古代ギリシアにおいて、戦争は参政権の拡大に関与していました。ほとんどの戦争は「自衛」の名目ではじまるということがよく言われますが、国を守るために自分の身体や命を危険にさらしているのだから、政治的な発言権もあって然るべきだという理屈です。

――文字通り「血税」を納めているのだから、ということですね。

 この理屈によって政治の場から女性が排除されてきたのですが、20世紀になると女性も、主に「銃後」という形で戦争に参加するようになります。女性の参政権が拡大したのは、ヨーロッパにしてもアメリカにしても、二度の大戦の後なんですよね。つまり、戦争への参加と発言権がセットだという考え方は、古代ギリシアから現代に至るまでずっと続いてきたと思います。

 しかし、じゃあ国民は戦争という形でしか国に貢献できないかというと、決してそんなことはありません。税金を納めることはもちろんですが、仕事をしたり消費をしたりという経済活動も、出産や子育てという家庭での再生産も、結果的には国のためになるのですから、戦争だけを特権的に扱うことに必然性があるかどうかは、特に今日において問い直す必要があると思います。

――おっしゃる通りですね。

 戦争に関してもうひとついうと、外交と軍事はプロが考えるべきであり、民主的な意思決定にはそぐわないという議論があります。元をただせばロックの『統治二論』の中の議論ですが、要するに、外交と軍事に関しては議会を通さずに、王様、いまでいうと行政府がフリーハンドで決められるようにしておいた方がよい。外交や軍事の意思決定には多くの機密情報や高度な駆け引きが必要となるので、今のSNSがそうだとはいいませんが、素人が参加してわあわあ言い出したらろくなことにならないと。

――それに関してはどう思われますか。

 たしかに、民衆が熱狂に駆り立てられて無謀な戦争に突き進むということはありえます。一方で、みんなが意志決定に加われば、戦争という選択をすることで自分たち自身が死ぬかもしれないわけなので、慎重論も多くなり、戦争が起きにくくなるのではないかという議論もあるんです。なので、両方あり得ます。

 ただ、歴史的には、一人や少数の為政者に決定権があると、自分が不利な状況になったときに、最後の賭けで、やけのやんぱちで軍事行動に走るということが何度か起きてきました。今回のプーチンもそうかもしれませんが、悲惨なのは、国が勝手に戦争を始めて、何もわからないまま戦地に送られる民衆ですよね。ウクライナの方々が気の毒なのはもちろんですが、ロシア兵だってその多くは被害者です。自分の意思とは無関係の戦争で、国のために死ねと言われているのですから。現実は結局そうなんです。発言権は与えられず、血税だけを、命の貢献だけを求められる。

 そう考えると私は民主国家の拡大こそが、短期的には例外も多いのですが、長い目で見れば戦争の抑止につながると思っています。今みたいに権威主義体制が至る所にあり、山っ気をもったリーダーがあちこちにいると、同じことがまた起こると思います。そうならないように人類は民主制を生み出し、過ちを繰り返しながらも、国際的な秩序をつくってきたわけです。それが今回崩れてしまったのでもう駄目だと言っている人もいますが、私はトクヴィルのいうように人類が民主制から後戻りすることはなく、長い目で見れば民主的な国家が増えていくものと信じています。

――勇気づけられるお言葉ですし、私もそうであってほしいと思いますが、いまの日本の投票率なんかを見ていると、本当に大丈夫だろうかと不安です。「参加と責任のシステム」である民主主義を機能させるために、改めて何が必要でしょうか。

 政治に参加するのって、じっさい面倒くさいんですよね。ましてや、責任なんて誰も取りたくないでしょうし。自分の好きなことだけやっていたいから、政治はその邪魔だけはしないでくれという、さっきのコンスタンの議論は、多くの人の本音ではないでしょうか。でも、政治に参加するのはたしかに面倒くさいんだけど、それだけの価値があると思うんです。

 トクヴィルはアメリカの政治を説明するときに、連邦制ではなく、いちばん小さなタウンシップから始めています。タウンシップにおける自治がまずあり、それでは解決できないことを州がやり、州でもできないことを連邦がやる。こういう順で説明しています。単にアメリカがそういう成り立ちの国だからということかもしれませんが、これは、われわれが民主主義を考える際のヒントになると思うんです。

 教室でいきなり国政と言われてもぴんときませんが、自分たちの地域にどんな問題があり、どうすれば解決できるかという話であればイメージできますよね。そこから始めて、徐々に範囲を広げ、制度や歴史を学んでいけば、政治や民主主義といったものに少しはリアリティーを感じられるのではないでしょうか。

――まずは自分の身のまわりの、具体的にイメージできる集団の中で、何ができるかを考えてみるわけですね。

 狭い範囲の、ごく少人数での活動でも、自分たちで納得いくまで話し合って結論を出すことが重要だと思うんです。時間も労力もかかりますが、その方が充実感も満足感もあります。こういった経験を積み重ねることで、より大きな集団での意思決定もイメージできるようになると思います。しかしそれがまったくないと、大きな問題が起きたときに、一か八か、カリスマ的な独裁者にすべてを委ねてしまう。無能な議会に任せるよりは、そっちの方がましだと。

 しかし、その結果が悲惨なものにしかならないということは既にお伝えした通りなので、やはり身近な所から、自分たちの問題に関わるという実感を取り戻していくことが大切ではないかと思います。

(取材日:2022年3月18日)