八月革命

 こうして敗戦を経て日本の戦後は始まります。まず問題になったのは、新しい憲法をつくる必要があるかどうかです。というのも、明治憲法には先ほど述べたとおり、立憲学派と神権学派という二つの見方が混在していましたので、一度は潰(つい)えた立憲学派を復興することにより、憲法は変えずに運用を変えることで対応できると考えた論者も数多くいたわけです。

 しかし、当時の占領軍であるGHQは憲法の改正を不可欠と考え、新しい憲法の制定を日本政府に迫ります。ここで理論的に問題になったのが、新しい憲法は明治憲法の改正手続の枠内で成し得るのかという点です。これはテクニカルな問題に思われるかもしれませんが、実は神学論争にも準(なぞら)えうる非常に含蓄の深い争いで、つくる権力=造物主と、つくられた権力=被造物、両者の関係をどのように説明するかという論点をはらんでいます。

 もし明治憲法の改正で新しい憲法がつくられたとなると、その改正手続きは憲法によって既に定められているものなので、つくる権力自体は動きません。そうなると、明治憲法をつくったのは天皇ですので、天皇はいつでも新しい憲法をつくり変えることができることになり、新憲法の前提とする国民主権と矛盾します。この矛盾を避けるには、造物主が交代したと説明するよりほかない。そこで憲法学では、宮沢俊義の唱えた「八月革命説」が通説となります。

 八月革命説は、ポツダム宣言を受諾したことによって、国の根本建前が天皇から国民へと移動する革命が起きたと説明します。これは革命といっても法的意味における革命なのでフィクションの感は否めませんが、天皇の国から国民の国になったことをものの見事に説明できます。これはオーストリアの哲学者ハンス・ケルゼンの規範科学論を意識した議論で、理論的にも十分に耐え得るものでした。 

 しかし、尾高朝雄という法哲学者がこれに反発します。尾高は、主権というのは天皇か国民かという問題ではない。主権は「ノモス」なんだと言います。ノモスというのはギリシャ哲学から引き継がれてきた概念でフュシスの対となる概念です。一般的には「法」、「習慣」、「制度」と訳される言葉ですが、彼に言わせるとそれは「正しい統治意思の理念」であって「政治の矩」、すなわち政治が従わなければいけない上位の法である。従ってノモスである主権は、具体的な政治のあり方を決める力ではなく、政治の力をも規定する高次の概念として想定されなければいけないと議論を展開します。 

 何やら難しい話ですが、要するに彼が言いたかったのは、主権者であったとしても従わなければいけない法があるはずだと。国民が主権者になったからといって、好き勝手にできるわけではない。国民にも従わなければいけない法があり、それがノモスなんだということです。しかし、この論争は結局、宮沢の勝利に終わったと一般には理解されています。尾高は「ノモスというのは天皇を通じて具象化される必要がある」と述べており、天皇への憧れを捨てきれなかったことが敗因の一つだったのではないかと思います。

戦後の日本人にとっての憲法

 では、戦後の日本は「八月革命」によって国民主権の国になりました、ということですべてが丸く収まったかというと、そうはいきませんでした。大きな原因は、八月革命の意義が国民に浸透しなかったところにあります。

 アメリカ独立革命もフランス革命も、フィクションではなく実際にあった出来事です。もちろん、ポツダム宣言を受諾して日本が負けたというのも厳然たる事実なのですが、アメリカ独立革命やフランス革命が勝利の物語であったのに対し、八月革命はポツダム宣言の受諾という敗北の物語だったわけです。この敗北を抱きしめることができない中で出てくるのが「押し付け憲法論」、つまり私たちの憲法は占領国によって押し付けられたものだという考え方です。

 この図式は戦後間もなく保守党が提唱し、自民党の党是となって今日まで生き続けています。そして、その自民党を長きにわたって支持してきた日本人の精神構造の中にも、多かれ少なかれ埋め込まれている。つまり、戦後の日本人の多くは、自分たちの憲法への愛着や深いコミットメントを、ほとんど持っていないわけです。 

 私はアメリカに行っていつも驚くのですが、アメリカ人は平気で憲法を語ります。憲法はかれらの精神構造に根付いてるので、あらゆる問題が憲法の観点から論じられている。一方、日本では憲法は腫れ物のような扱いです。憲法を論じると偏っていると見られたり、逆にそう見られないように憲法論を遠ざける傾向が見られます。

特殊日本的なものへの傾斜

 では、戦後のそういった事態に対して日本の憲法学がどのように取り組んできたかということですが、これはまさしく西洋の憲法的価値を憧憬として忠実にトレースしてきたわけです。

 樋口陽一先生がよく「方法としての西欧」とおっしゃいますが、日本の近代化の歴史は西洋に近づいていくことを前提に、西洋の価値を積極的にトレースしてきました。その代表が「リベラリズム」という考え方で、これは自由主義と訳されますが、要するに、国家・公共の領域と私的な領域をきっちりと区分する。この二つの空間が混同されないように、人為的に二つの空間を区分するわけです。しかし、戦後の日本においてそれが成功したかと言われると、なかなか心もとない。

 これは加藤典洋さんが『敗戦後論』で述べていることですが、戦後憲法は亡霊としての戦前の死者を抱えています。たとえば政府が「村山談話」で従軍慰安婦への謝罪をしても、時をほぼ同じくして、それに対する反発が同じ政府・与党内から出てきてしまう。つまり、人格が二重になってしまっているわけです。戦前の立憲学派・神権学派のような対立は、いまだにこの国に根付いていて、アジアに対する戦争責任を謝罪する一方、そのアジアに対し優越感を抱く傾向がある。そういった精神構造が複雑に入り組んでいるのが、日本の戦後といえます。最近でもそれは、古来の天皇制復活への期待や、多くの政治家がコミットする「日本会議」の発展、「神の国」発言というような形で出ています。

 それと同時に、最近では日本が経済面において国力を低下させてくると、精神面への回帰、すなわち日本人論が復活してきます。それが意味するのは、日本人の生は西洋の近代国家の枠組みでは完結しない、近代に意味を見出すことができないという事態です。その結果、アノミー、つまり意味を喪失した生が特殊日本的なものへと向かい、今日のような状況になっているというのが私の時代診断です。

日の丸・君が代とは何か

 こうした時代状況に対して果敢に闘いを挑む人たちもいます。その一例が「君が代訴訟」で、これは東京都の公立学校の校長が教職員に対して、式典における国歌斉唱の際に起立斉唱をするように命令したことに端を発した事件です。一部の教職員が命令に従わなかったために懲戒処分を受けたのですが、その命令の正当性が裁判で争われました。一連の事件は、よく考えてみると、戦前とほとんど同じことをやっているわけですね。

 戦前、国家を憲法によって完結させようとする立憲学派に対して、神権学派は憲法の上位に教育勅語及び御真影、そして日の丸・君が代を置きました。従って、国民主権となった戦後において、日の丸・君が代を強制するのは望ましくないはずですが、最高裁は強制しても構わないというんですね。その理由が非常に巧みで、日の丸・君が代の強制は憲法が保障する思想良心の自由を侵害しない、なぜなら、今や日の丸・君が代に対する起立斉唱は儀礼的な意味合いしか有さないからだ、というのが最高裁の言い分です。

 儀礼とは何か。これは島薗先生のご著書に深く関連するところですが、儀礼というのは非常に空虚なもので、それ自体はほとんど意味を成さない。つまり、日の丸・君が代をめぐる起立斉唱の命令とは、みんながやっているんだから、あなたたちもやってくださいと言っているに過ぎないと。それであれば、あなたたちの思想良心の自由は侵害されていないでしょう、ということで、最高裁はある種の仲裁を図るわけです。 

 しかしこれは、議論のすり替えでしかありません。国家権力が日の丸・君が代をめぐり強制力を行使するとき、その背後には明らかに忠誠を誓わせようとする意図が見え隠れしています。つまり、反逆者、起立しない教職員をあぶり出したいから、わざわざ強制力を行使してまで起立斉唱をさせようとしているわけです。しかしながら、裁判所はそこに目を向けることを避けた。この一連の流れは、戦後日本が抱える問題を象徴しています。案の定、君が代訴訟判決の1年後の2012年には、当時野党であった自民党から、西洋の普遍的な価値に極めて否定的で、かつ戦前の物語への憧憬がにじみ出た憲法改正草案が発表されます。

法と物語

 では、このような文脈から私たちはどういう方向に進めるのかということですが、そこで押さえておきたいのが「法と物語の連関」というテーマです。法が物語によって支えられているというとフィクションのように聞こえますが、法と物語は実は切り離せないことを示した憲法学者がアメリカにいます。ロバート・カバー(Robert Cover)という人で、彼は『ノモスとナラティブ』という論稿で、法はノモスであり、私たちが生きる世界そのものだと主張します。私たちは法によって、正誤の基準や生きる意味というものを供給されているんだと。カバーの背景にあるのはユダヤ・キリスト教的な伝統ですので、まさに聖書的な価値観から法と物語の連関を紡ぎ出そうとするわけです。

 その議論からすると、私たちが西洋の近代国家を支えていると思っていたリベラリズム=自由主義の考え方は批判されることになります。なぜなら、リベラルな法律は普遍的に独立しており、いかなる物語によっても基礎付けられないからです。カバーは、物語こそが私たちの生きる意味を供給するのであって、リベラルな法は私たちの法を「殺す(kill)」という、非常に扇情的な表現をしています。ではリベラルな法は全く不要かというとそうではないけれども、それはこの世に存在する複数のノモスを調整する役割を担っているにすぎない、と言います。

 このカバーの議論が、先述した尾高朝雄の「主権とはノモスである」という議論と、まさしく響き合うわけです。ただ一つ違うのは、尾高は大きなノモス、すなわち国家そのものが一つのノモスによって基礎付けられることを説いたのに対し、カバーはユダヤ・キリスト教の教会を典型とする共同体のレベルでノモスを見ていたということです。

 カバーがなぜ一つの国家を所与と見ないかと言いますと、世界の分裂は避けられないと見ているからです。私たち人間の本源は物語る能力にあり、物語というのは多様性を持つ以上、物語は必ず複数存在する。つまり、国家神道論にしても、ここまでお話してきた立憲主義にしても、カバーにしてみれば、どちらも物語の一つにすぎないということになります。これはリベラルな法の優越を信じる憲法学者にとってはショッキングな告発です。

戦後日本の物語

 そこでようやく本題ですが、では戦後憲法学は、この物語論にどう取り組んできたのか。結論から言うと、正面からは取り組んではこなかった。私たちは戦後、物語を封印するところから始めました。まず手始めに政教分離ということで、国家神道の物語を封印した、あるいは封印したと思ってきたわけです。その代わりに西洋由来の人権や自由を基調とする普遍性の物語を導入し、それを広めることによって新しい日本の在り方を実現しようとした。

 しかし、この普遍性の物語はどうも浸透していきません。たとえば、新聞でよく見られる「市民社会」という言葉ですが、この市民社会というのは、日本では確固とした実体がありません。一体何を指して市民社会と言っているのか、論者によっても意見はさまざまです。

 しかし欧米では、市民社会=シビルソサエティーと言われたときに、確固たるものが想定しやすい。これは、伝統的・歴史的に市民のレベルから社会を生み出してきたアメリカやイギリスと、日本のように一部のエリートが上から国家をつくった社会の違いだということが言えます。実際、日本では、市民運動が1970年代以降は下火になっており、現在では学生が運動をしていると言うと白い目で見られたり、下手をすると就職活動でも不利になりかねない状況になっています。

 そんな中、憲法9条の物語だけは例外的に今日まで生き続けました。日本の戦争の負け方はかなり悲惨なものです。空襲や原爆によって多くの国民を殺された被害者であると同時に、アジアの国々においては多くの人びとを殺害した加害者でもあった。そういった体験を、戦争を生き抜いた世代の人たちが語り続けて、この物語というのは生き続けてきたように思います。

 しかし、これもやはり主流とまではいえず、多くの国民にとって9条は現状保守主義の現れでしかなかったという指摘がなされています。つまり、日本は安全保障のことを棚上げして、とりあえずは経済の発展に専念すればいい。そういった「吉田ドクトリン」的な考え方を、憲法改正を党是とする自民党さえも支持したことで、9条は改正されずに今日までやってきているわけです。2015年に安全保障法制が改正されたときには大きな反対運動が起きましたが、それとて、現実政治を覆すには至りませんでした。

 それと同時に起きているのがノモスとは反対の現象であるアノミーの蔓延、生きる意味の喪失と、その反動としての安易な物語への傾斜、つまりは精神世界への逃避だと思います。現実がうまくいかないと精神に逃げるしかありません。それを象徴する事件が、オウム真理教によるサリン事件だったり、孤独な若者たちが起こす無差別な殺人事件です。外国におけるテロのような思想犯とは違い、日本のこうした事件の背後にはこれといった体系的な思想がない。先日の安倍元首相殺害事件が政治的な思想に起因する犯罪ではなかったというのは、このことを象徴しています。

 加えて、現代はいわゆる新自由主義の時代です。戦後、憲法学が説いてきたリベラリズムの物語は、いまや自己責任の物語へと変換されてしまいました。その結果が、強い者が生き残り、弱い者は切り捨てられるという市場原理の社会です。行き場を失った弱い者がインターネットを通じて排外感情を高め、ナショナリズムを増幅させていくという構図が今日見られています。

 それと同時に、憲法1条に対して憧れを抱く人たちも出てきています。1条の象徴天皇制に戦前回帰の可能性を見る人もいれば、平成天皇が示した新しい象徴天皇像に可能性を見いだす人もいる。そういった時代に突入しています。こういった社会の状況を前にして、憲法第1条の天皇制、9条の平和主義、そして20条の政教分離がどういう関係にあるのかについて、憲法学もちゃんと整理できないままここまできています。

日本は政教分離を成しえたのか

 そうした中、島薗先生のご著書(『戦後日本と国家神道』岩波書店)では1条と20条の関係が正面から取り上げておられるところが、憲法学に大きな示唆を与えてくれます。すなわち、国家神道というのは神聖天皇崇敬と切っても切れない関係にあり、それに依って立つ国体論的言説は、皇室祭祀を通じて今もなお再生産され続けているというご指摘です。 

 天皇は憲法4条によって政治的権能を剝奪されていますので、憲法学は天皇制は既に空虚だと、中身は空っぽだと思ってきたわけですが、しかし、その空虚の中心は実は空虚ではない。そこでは戦前に連なる国体論的言説が着々と再生産され続けているという議論への応答を求められている。これが、現在の憲法学の状況だと思います。 

 これに対して、日本の憲法学は有効な回答を持っていません。というのも、天皇制がもともと、立憲主義と極めて相性が悪いからです。既に述べた通り、立憲君主制という形で天皇制を位置付けることは可能ですが、日本の場合は戦前の天皇制を背負っているので、そういうわけにはいきません。また、そこには戦争責任の問題もあります。そうなると、天皇制はたしかに憲法で規定されているけれども、これは立憲主義とは別の領域にある、「身分制の飛び地」(暫定的に憲法で認められている)という説明にならざるを得ません。 

 この問題を最高裁判所はどう考えているかというと、日本の最高裁は、政教分離については一般人がどう考えているかということを大きな指標としてきました。多くの国民が政府と宗教の結びつきをおかしいと思わなければ政教分離に反しないという、非常に曖昧な図式に逃げ込んでしまっているわけです。つまりは、政治と宗教が明確に分離されない。憲法学もそれを正面から批判することなくやってきた。今回の統一教会に関するような問題が起きてしまうのはある意味では必然でした。 

 では、これからどうしていけばもっと日本はよくなるのか。戦後の経験から、西洋の普遍的価値をただトレースするだけではどうもうまくいかない。かといって、今さら戦前の日本固有の神話を語るわけにもいかない。とすると、第三の可能性に向かうしかないと私自身は思っています。それを私は拙著『近代立憲主義と他者』の中で展開したのですが、それに対してはこの後コメントをいただく松平徳仁先生からの手厳しい批判があります。すなわち、日本の立憲主義は西洋の普遍的な価値をトレースすることによって、実は特殊日本的な価値を擁護してきただけだというご指摘です。

 たとえば、憲法9条の平和主義の物語というのは、戦争を放棄するという理想的なナラティブに聞こえますが、実はそれによって、アジアに対する戦争責任を封印している面があるわけです。というのも、憲法9条には、天皇の戦争責任を封印した側面や、また、アメリカとの安全保障条約を前提として初めて成立してきた経緯があります。この安全保障条約がある限り、日本は中国を含めたアジアに対する戦争責任に目を向けることが難しい。このように、9条を理想と信じる価値観さえも欺瞞でしかないと問われると、なかなか答えに窮するのが正直なところです。

 いずれにしても、日本の憲法秩序の構造は「八月革命説」が言うように戦前と戦後で変わったのか、それとも変わっていないのか。変わっていないのだとしたら、どこにその原因があり、何によって立て直せるのか。新しい物語なのか、それとも、今ある立憲主義を鍛え直すことによってなのか。そういった問いへの応答が、今憲法学には求められているという問題提起をして、この発題を終了させていただきたいと思います。


※本稿はNPO法人東京自由大学の講座「国家神道と物語論」の講演内容に一部加筆・修正を加えて作成しました。