憲法学という学問は、国家の存立を前提とする学問です。一般的に憲法は統治機構という政府の仕組みの問題と、表現の自由や経済的な自由といった人権論という二つの領域に分かれます。このうち憲法学は特に前者の国家学と密接な関係にあります。およそ国家が存在するところに、憲法は存在します。そこでまずは、国家を成り立たせる上で、憲法がどのように関わっているのかということを考えていきたいと思います。

国家と憲法

 憲法学というのはもともと西洋で生まれた学問で、比較的新しい学問です。個人と個人の間で交わされる取引についての法律、今でいう民法は憲法の誕生するはるか以前から存在していましたが、近代国家と呼ばれる概念が生まれたのはせいぜい17世紀に入ってからですので、憲法学が生まれたのは当然それ以降です。当時は近代国家だけが文明国家であり、そうでない国家は野蛮な国家だとされていました。つまり、一人前の、今でいう国際法上の国家として認められるためには、近代国家になる必要があったわけです。

 では、その「一人前の国家」になるために必要なものとは何かというと、それが憲法です。こう聞くと驚かれるかもしれません。憲法なんかなくても国家は存在できるじゃないかと。現に、われわれは普段、憲法を意識することなく日本という国家を正しく認識しているように見えます。しかし実際は、憲法こそが国家の存在を背後で支えている根拠です。

 たとえば、国会の様子を思い浮かべてみてほしいのですが、国会ではたくさんの人々が集まって議論し、拍手したり、野次を飛ばしたりしています。事実としてはただそれだけのことで、その現象自体に本来は特段の意味はありません。しかし、私たちはそこで決議された法律が施行されると、自分にはその法律に従う義務があることを認識しています。その認識の根拠が、憲法にあるわけです。憲法が国会を組織した上でその権限を定め、国会で決議された法律に対する遵守義務を定めているから、私たち国民は国会で決まったことに従わなければならないと思っている、ということになります。

 では、その憲法が定める国家はどのような要素から成っているかというと、「国土」「国民」「国権」であるといわれています。これは伝統的なドイツの国家学の図式によるもので、「国家三要素説」と呼ばれています。「国土」というのは領土ですね、日本国の領土を映像や地図などで見たときに、私たちはそれを日本だと思うわけです。次に「国民」ですが、誰が日本国民で、誰が日本国民でないかを決定する根拠は憲法にあります(もっとも日本国憲法は、具体的に誰が国民であるかを定める権能を法律に委ねています)。そして、「国権」。これが一番ぴんとこないと思います。

 国権すなわち国家権力そのものは目に見えることはありませんが、実は、権力の網目は国家の隅々まで張り巡らされています。たとえば買い物に行こうと思って家を出てから、歩道を歩き、信号を渡り、お店に入り、商品を手に取って会計をし、来た道を戻って帰宅するまで、私たちのすべての行動は潜在的には国家の枠内に位置づけられています。

 もちろん、私たちが生活していく上では国家に監視されない自由な領域=プライバシーが必要であり、その典型が「家」の中です。しかし、このプライバシーさえも国家が約束したから守られているのであって、国家がなければプライバシーの保障を得ることも難しいと言えるでしょう。

自然法と実定法

 次に、西洋由来の憲法を理解する上で重要なものとして、「自然法と実定法」という二つの概念を説明したいと思います。「自然法」というのは自然の法則、つまり、私たち人間の手によらない「法」のことです。人間ではないとなると「神」という言葉が思い浮かぶかもしれませんが、ひとまずは、人間を超えたある種の超越的なものが生み出す現象に関する法則、ということにしておきましょう。それに対して「実定法」は人間によってつくられたもの、人為的な構築物です。なぜこれらの概念が重要かと言いますと、実は、憲法というのはこの二つの概念の間を行ったり来たりしているからです。

 日本の憲法をつくったのは、日本国民です。日本国民は人間ですので、憲法は実定法に属すると一般には理解されます。しかし、ここで問題になるのは、憲法をつくった日本国民自体が、当の憲法によって定義されているということです。論理的に考えると、憲法をつくった主体をその憲法が生み出すことはできない。憲法をつくる人というのはある意味親ですから、親が子をつくるのであって、子が親をつくることは背理になる。そのために、憲法というのは実定法を超えた領域、たとえば自然や道徳であったり、倫理であったりといった領域に足を踏み入れざるを得なくなります。問題は、いかにして憲法を確かな根拠に基づいて正当化できるかにあります。

 有力とされてきた議論が「社会契約説」と呼ばれるもので、国家というのは自然法則(神の法)の産物ではなく、人為的な(理性の法の)構築物であるという議論です。その嚆矢といえるのがトマス・ホッブズという哲学者で、彼の考えによれば、人間は自然権を持っているが、その自然権を誰もが自由に行使すると「万人の万人に対する戦い」が起きてしまうので、われわれは自然権をある種の大きな装置=主権者に譲り渡し、他者との共生を可能にする社会状態へと移行する。つまり、国家というのは、私たちがある種の約束に基づいてつくり上げた一つの大きな構築物だというわけです。

 これが近代国家の出発点ですが、実はこの出発点自体が日本ではなかなか受け入れられませんでした。戦前はおろか、最近の議論などを見ても、私たち日本国民が社会契約説という考え方を納得して受け入れているかというと、私は懐疑的です。

 国家を自然の産物ではなく人為的な構築物だと認めるということは、そこには超越的な力が何一つ働いていないことを意味します(ただし、先のホッブズは神の法にも一定の役割を認めていますが)。つまり、国家から「怪しいもの」や神秘的な要素が全部抜け落ちてしまうわけです。しかし、人間というのはえてして怪しげな議論に惹かれるものですから、契約で国家がつくられましたというのでは、やっぱりつまらない。人為を超えたところにある何かをどうしても見たくなる。その一つが本日の主題である「国家神道」と呼ばれるものだったのではないかと私は思っています。

主権とは何か

 次に主権です。主権は西洋近代を理解する上で決定的ともいえる概念です。みなさんはこれまで、国民主権とは国民が自分のことを自分で決められる権利だと聞かされてきたと思いますし、私も学校ではそう習いました。しかし、よく考えてみると、主権はパラドキシカルな概念です。たとえば私が車を運転しているときに、早く家に帰りたいからといって赤信号を無視することはできません。だとすると、私は主権者ではない。自分の行動を自分で決められないわけですから。

 このように、主権というものを突き詰めて考えると必ず矛盾が生じます。その原因は、主権というのは「私たち」が「私たち」のことを決められる権利であり、「私」が私たちのことを決められる権利とは次元が異なるからです。つまり、主権というのは、主権者に権力を集中させる力を持っています。極端に言うと、主権は個々人の生命や自由、幸福を、有無を言わせず奪うこともできるわけです。

 その典型が死刑です。死刑というのは、何も知らない人が見れば殺人でしかないわけですが、私たちは死刑をただの殺人とは見ません。この国ではそれが正当な刑罰であり、憲法に存在根拠を持っているからです(この点には異論もあります)。人を殺す権力というのは、主権の典型的な権能ですが、その逆もまたしかりです。すなわち生かす権力。私たち国民を生かしているのは、ある意味では国家です。

 たとえば、今回の新型コロナウイルスにしても、主権国家が国境を閉じることによって、国外からウイルスが入ってくることを防止しようとした。それができるのは、国家が国境管理を独占しているからです。どんなに力のある人でも、どんなに大きな企業であっても、国境だけは自由にすることはできません。このように、権力を一手に引き受けているのは国家である、それが主権の意味するところです。

 でも、ここまでくると、ちょっと不安になるわけですね。殺すも生かすも国家の自由となると、私たちは何もできないじゃないかと。そこで、私たち国民には権利が付与されています。たとえば警察権力が勝手に家の中に入ってこないだとか、裁判官の発布した令状なしでは捜索や逮捕をされないだとかです。そういった適正手続への権利やプライバシーというものが、国民には与えられているわけです。

 このように、国家のもつ主権と私たち国民の権利、権利と義務の二つの体系から成るのが、西洋が生み出した近代国家という概念です。

立憲君主制と天皇

 この近代国家という概念が実現するまでに、西洋ではざっと見積もっても600~700年もの年月がかかっています。しかし日本は、1850年代の開国から1889年の明治憲法公布まで、わずか数十年でこれを真似ようとしました。しかもその際に、忠実に西洋をトレースするのではなく、日本の特殊な価値を紛れ込ませたことが、結果として西洋との間に大きな亀裂を生み、のちの破滅を招きます。そのことが日本の敗戦と戦後の再出発につながったというのが次の話です。

 先ほど「憲法がなければ国家は存在しない」と言いましたが、実は日本の場合はいきなり国家ができてしまいました。明治維新によって、憲法が存在しないのにまず国家ができてしまったというのが、西洋とは大きく異なる点です。なぜそんなことが可能だったかと言いますと、当時の日本は外交上の理由から「一枚岩」になるしかなかったからです。日本は開国と共に強い外圧にさらされていたので、早く一人前の国家をつくらなければ、西洋にどんどん劣後して、ひいては植民地にされる可能性さえあった。当時、西洋は植民地獲得競争の最中にありましたので、日本もその対象となりかねなかったわけです。

 国家として何とかスタートした後、当時の日本の為政者は西洋に学んで一人前の憲法をつくろうと考えます。使節団を組織し、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカ等いろんな国を見て回るわけですが、その中で最終的にモデルに選んだのがドイツ・プロイセンの「立憲君主制」でした。

 立憲君主制というのは君主政治、つまり国家のトップに固有の人格を置くわけですけども、そのトップの権力さえも憲法によって規定され、制限されるという考え方です。つまり、憲法によって国家が完結しているわけです。これは君主制ではありますが、立派な立憲主義です。立憲主義というと、一般的には民主主義との結びつきが強調されがちですが、君主制とも結びつきます。君主の権力が憲法によって制限されていれば、それによって国民の自由や福利、幸福を守ることも可能だからです。

 しかし、日本の面白いところは、この立憲君主制に一つの「装置」を埋め込んだ点です。それが、天皇制の物語に他なりません。憲法起草者の一人である伊藤博文が西欧で学んだ際、法体系の背後に見たものはキリスト教でした。つまり、西洋の近代国家概念は、キリスト教の世界観・価値観を背景として、初めて成り立っていることに気づいたわけです。

 では、日本でキリスト教に代置し得る概念は何かと考えたときに――もちろん、日本もキリスト教でいくという考えもあり得たのかもしれませんが――、伊藤は尊王の流れをくんだ天皇制を憲法に組み込むことを選んだ。留意すべきなのは、ここでの天皇は立憲君主制の君主であると同時に――ちょうどキリスト教の神と同じく――人間を超えた存在としても認められたという点です。つまり明治憲法には最初から、立憲主義と天皇制という、両立することのない二つの要素が組み込まれていたということになります。 

立憲学派と神権学派

 その二つの存在根拠に引き裂かれた憲法学説の在り方が、「立憲学派」と「神権学派」です。前者の立憲学派を代表するのは美濃部達吉であり、後者の神権学派を代表するのが上杉慎吉という、戦前の東京帝国大学の教授です。この両者は、同じ憲法というものを語っていても、全く別のものを見ています。美濃部は西洋を見ており、一方の上杉は極めて日本的なものを見ている。ただ、どちらも国家論を展開していることには違いはないわけです。

 美濃部の議論は「国家法人説」に支えられています。つまり国家というのは法人であり、人為的にこしらえられた「人」だという主張です。そうすると、国家は法人の内部で完結していなければならないので、すべての存在は機関として、国家の要素に位置付けられます。この点は天皇も例外ではなく、国家の枠内に存在する一機関として、位置づけられるわけです。要するに、立憲君主制の枠内に天皇を押しとどめようとするわけです。

 すると、これを許せない学説が出てくるわけですね。天皇が国家の一機関とは何事だと。天皇は国家を超越する存在である。天皇が国家に正当化根拠を与えるのであって、その逆ではない。ここから、天皇こそが神なんだという考えに近づいてくるわけですが、そうした見方を示したのが神権学派であり、「天皇主権論」を説いた上杉慎吉もその系譜に位置づけられます。戦前に起きたこの二つの学派の争いは、実は今日でも形を変えながら見られる構図であり、私たちはずっと同じ対立の図式を引きずってきています。

 上杉慎吉の天皇主権論をもう少し細かく見ていきますと、上杉はもともと美濃部と同じくドイツの国家学を学び、国家を西洋流に理解していました。しかしドイツ留学から帰ってくると、これには諸説あるのですが、まったくの別人になっていた。帰国後の彼は「天皇信仰論」、そして、それに基づく「天皇服従論」といった、極めて特殊日本的な価値を説き始めます。

 上杉は皇道論を論じる中で「絶対的対象に直に憑依することによる安心」といった表現をしていますが、「憑依」という宗教的な響きがする言葉を簡単に使ってしまうわけです。天皇即国家であり、それに合一することで私たちの自我は実現する。天皇=国家と国民の間にはいかなる中間勢力も入ってはいけないということで、政党や財閥のようなものはすべて否定されます。 

 こうした議論は今日からすると極端で古いと思う人が多いと思いますが、当時の夏目漱石の作品にも似たような傾向は見られます。『こころ』という有名な小説があります。あの作品は表向きは恋愛小説(当時は珍しかった)として読むこともできますが、その最後で「先生」が自害する理由が乃木希典の明治天皇への「殉死」という、極めて宗教的な言葉で語られています。イギリスに留学し、自由主義を十分に堪能してきたはずの漱石が、自身の小説の締めくくりに天皇への殉死という、極めて特殊日本的な概念を使った。これは非常に示唆的だと思います。 

 その後の日本の歩みですが、明治憲法下でも大正デモクラシーによる「普通選挙権」の導入や、一時期は二大政党制および政党内閣の実現など、立憲主義が機能していた時期もありました。しかしそれも長くは続かず、西洋からの離反、満州事変、5.15事件、国際連盟の脱退と、軍国主義への道をひた走ります。

 そして天皇機関説事件。先述した美濃部の天皇機関説は1912年に唱えられた学説なのですが、それが1935年になって急にやり玉に挙がり、美濃部は貴族院議員の辞職を余儀なくされました。その後、岡田内閣から出された「国体明徴声明」の中で天皇機関説は『神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除せざるべからず』と断じられ、立憲学派の息はついに途絶えることとなったのです。

(後編へつづく)