――ユダヤ人の知性を基礎づけているものの一つに「始原の遅れ」というものへの自覚があるとのことですが、それについて教えていただけますか。

 「始原の遅れ」(initial après coup)というのは、人間は被造物であるということです。ユダヤ教の宇宙観というのは独特なもので、宇宙を満たしている造物主が「収縮」することが創造なんです。神が身を縮めて、それによってできた「隙間」が世界なんです。創造というのは「ありもの」の組み合わせではなくて、「誰かが身を引いたことによってできた空隙が与えられたこと」なんです。被造物は、神が退いたことによってこの世に存在することができた。そういう発想のことを「始源の遅れ」と称するわけです。

 まず私が存在するというところから始まるのではなく、誰かにこの場所を譲ってもらったせいで、私が存在するスペースが出来たというふうに考える。被造物というのは、そういうある種の負債感を持っているということです。

――生まれながらにして借りがあるみたいな。

 誰かの贈与によって自分はここに存在している。キリスト教における「イエスが受難することで全人類を救う」という話も構造は同じです。キリスト教の場合は、世界を創造したときの創造主の行いを、もう少し人間的スケールで再演してみたということになるのでしょう。創造は収縮であるというのはユダヤ教ならではの、独特の宇宙観ですね。

――場所を譲ってもらったという感覚なんですね。

 たとえば自分が陽のあたる場所にいて、ぽかぽかして気持ちがいいな・・・っていうときに、それをただ、自分が日の当たる場所にいると考えるのではなく、自分が来る前にここにいた人が立ち去って場所を譲ってくれたおかげで、自分は日の当たる場所にいることができるというふうに考える。被贈与感っていうのかな、そういうものをベースにして自分の存在を基礎づけてゆく。

――なんか、気の休まるときがないような……

 そんなことないですよ。レヴィナス先生が言ってますけれど、儀礼やってると気が休まるって。

――ずっとそう考えていると、それが普通になるものなんでしょうか。

 子どもの頃からそうやって育つわけですからね。この儀礼にはどんな意味があるのかということを家族の中で話し、自分で考え、タルムードを読み、ラビにも尋ねっていうことを、生まれてからずっとやってるわけですからね。きわめて宗教的な集団ですよ。

――最も宗教的な集団が、最も科学的でイノベーティブだってところが面白いですよね。

 「宗教性」というのは、先ほども言いましたけれど、ランダムに生起してるように見える現象の背後には必ずある種の超越的な法則性が存在するはずだという先駆的な確信のことです。それは自然科学者の「すべての出来事はある法則に基づいて生起している」という先駆的直感と同じものなんです。

 世の中には「世の中にはルールなんかない。弱肉強食、色と欲だけで人間は動いているんだ」と言い放つ人もいますけれど、そういう人もレベルはすごく低いけれど「世界には『弱肉強食というルール』がある」ということは認めているわけです。「すべてはフリーメーソンの陰謀だ」とか「ユダヤ人の世界組織の陰謀だ」とか言う人たちも、彼らなりの仕方で「世の中の一見ランダムに見える事象の背後には、統一的な原理が存在する」ということは信じているわけです。

 彼らのレベルが低いのは、その「世界の出来事をコントロールしている原理」を「オレは知ってる」というところにあっさり居着いてしまうからです。万象の背後には美しい数理的秩序が存在するのだが人知をもってそれを知り尽すことはできないという風通しのよい諦念が信仰にも科学にも必要なんです。手が触れることはないけれども、たしかに何かがあると直感できないと、科学研究も宗教実践もできませんから。「なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」ですよ。

――手が触れることはないけどある感じって、なんかいいですね。

 自然科学の研究でもブレークスルーをもたらすような大きな発見は、だいたい直観に導かれるものらしいですよ。直感というのは、実際には膨大なデータを高速でモニターして出て来た結果なんです。そのモニタリングがあまりに早く範囲が広いので、どうしてそれがわかったのか、本人にも言えない。

 名探偵の推理と同じですよ。シャーロック・ホームズだって、どうして犯人がわかったのか、自分では言えないんです。ワトソン君が「どうしてわかったの?」と訊くから、それから改めて「どうしてわかったんだろう、オレ?」とモニタリングのプロセスを回顧しているんです。

宛先

――いまお聞きしていて、神さまが譲ってくれてできた空間に登場するというのは、既にある言語体系や社会構造のなかにわれわれが生まれてくるっていうのと、「遅れてくる」という点では同じなのかなって思ったんですけど。

 基本的には同じですね。

――既にある秩序のなかに登場してくる。

 「登場」というより、「呼び寄せられる」。「招かれて来ている」という感じですかね。

――なるほど、招かれるという感じなんですね。

 宗教的な覚醒の始点は「神の声を聞く」という経験です。それはだいたい「ちょっと、こっちにおいで」というコールサインなんです。『創世記』に「あなたの父の家を出て、私が指し示すその地に至れ」という主の言葉がアブラハムに臨んだとありますけど、「父の家を出る」というのは、いま住んでいる場所、なじんでる言語や価値観や世界の見方の枠組みから抜け出しなさいということです。

 でも、主の言葉そのものは人間にはわからない言語で綴られているはずなんです。主の言葉は語彙も統辞法も音韻も、人間の言語とはまったく違うはずですから、人間に理解できるはずがない。でも、族長たちや預言者たちの上にはしばしば「主の言葉が臨んだ」と書いてある。それは「何を言ってるかは分からないけど、それが自分宛てのメッセージであることはわかった」という経験のことだと思うんです。コンテンツはわからないが、アドレスはわかる。

 喩えて言えば、ラジオを聴いていたら、どうも自分に向かって何かメッセージを送っているような気がする。でも、ノイズが多すぎて聴き取れない。必死にチューニングしたり、アンテナの角度を変えたりしたけど、それでもノイズが消えない。とうとうラジオを外に持ち出して、音声がクリアに聞こえるまでどんどん歩いて、気が付いたら、家からはるか遠く離れたところに来ていた・・・。アブラハムが父の家を出て荒野に向かっていったのは、恐らくそういう感じではなかったのかなと思います。

 神のメッセージは基本的に、雲の柱とか、稲妻とか、燃える柴といった、非言語的な現象を経由して人間に臨むのです。だからその意味がわかるはずがない。でも、それを見て、「これはなんだか分からないけれど、私宛てのメッセージに違いない」と思ってしまった人がいた。それが一神教の最初の信者です。

――何言ってるか分かんないんだけど、自分宛てであることだけは間違いないと。

 そうです。コンテンツが理解できないメッセージでも、それが自分宛てか、そうでないかの違いはわかります。宗教的覚醒というのは、意味のレベルで起きることではないんです。自分がそのメッセージの「宛て先」だという直感から始まる。

 宛て先というのは直感でわかるんです。中身を読んだら、自分のことが書いてあったからとか、封筒の表に「内田様へ」って書いてあったから、宛て先が自分であることが分かるという話じゃないんです。そんなものどこにも書いてない。でも、自分のまわりを飛び交っている無数のシグナルのうち「これは自分宛てだ」ということが人間にはわかる。これはDNAに組み込まれている、ある種の生得的な能力なんです。

 生まれたばかりの幼児が母親から話しかけられているときに、言葉の意味が分かるはずがない。でも、母から届くこの暖かくて柔らかい空気の振動が「自分に宛てたものだ」ということはわかる。そして、「自分がこの波動の宛て先だ」ということを理解した後にはじめて「自分」という概念も立ち上がってくる。最初に主体があって、主体同士でコミュニケーションしているわけじゃないんです。まずコミュニケーションが成立して、それが成立したことによって、事後的にそのコミュニケーションの回路の両端にいる「発信者」と「受信者」が立ち上がる。

――それは身体感覚ですよね。

 身体感覚です。ユダヤ人って、欧米では例外的に母親がすごく子どもを甘やかすんです。Jewish Mother という言葉があるくらいで。欧米では伝統的に子どもの自立を急かしますね。産まれたらすぐに乳母のところに出したり、別の寝室に寝かせて、母親を求めて泣こうがわめこうが見に行かない。そうやって子どもの自立を促す。

 でも、ユダヤ人の家庭はかなり家風が違うみたいです。子どもをいつまでもかわいがる。僕はこのユダヤ人の母親の過剰な愛情と、きわめて男性的で、ストレスフルな一神教信仰の存立の間には相補的な関係があるんじゃないかと思います。

 一神教は「コンテンツは理解できないが、宛て先が自分だということは分かる」という能力抜きには成り立ちえないのですけれど、この「宛て先」という感覚は赤ちゃんの時に母親にものすごく愛されてないとなかなか育たない。早くから社会化を強いられて、親の要求する社会的な責務(一人で寝られるとか、ちゃんと排便をするとか)を果たしたことの報酬として「愛してもらえる」という関係だと、「なんだかわからないけれど、自分がこのメッセージの宛て先だ」という直感はなかなか涵養されないと思うんです。

 イエスだってマリアにすごくかわいがられていたと思いますよ。マリアが子どもを幼児のときから別の部屋で寝かせて、夜泣きしても抱きにゆかないようなきついお母さんだったら、ご子息の宗教的覚醒はかなり遅れたんじゃないかと思いますよ。

――なるほど。そういう意味でも、ユダヤ教からキリスト教が生まれたわけですね。

(取材日:2017年12月7日)