――宗教的なものによって物事の考え方というか、生きていく上での軸ができていくのは、個人的には羨ましいなって思います。日本だとやはり宗教イコール危ないもの、怖いものっていうイメージがありますよね。

 でも、最近は日本でも宗教的なもの、霊的なものに惹かれる人が増えてきてるみたいですよ。

 この間、ある大学の講演に行くために最寄り駅でタクシーを待っていたら、中年の女性に「内田先生ですか」って話しかけられて、「講演、私も行くんです」っていうから、「じゃあ、ご一緒に」ということでタクシーに相乗りしたら身の上話を始められて、「息子が高校生なんですけど、進路のことでもめてて親子ゲンカが絶えない。もう人生がつらくてしょうがないからいっそ宗教でも入ろうと思って」とおっしゃる。

 こちらは上の空で、「はあ、そうですか、それはいいですね」って言ったら、「イスラムに入ろうと思うんです」って言うんですよ。これにはちょっと驚きましたね。「神にすがりたい」って言うから、新興宗教にでも入るのかと思っていたら、イスラムに入信するのはどうかと訊いてきた。そういう選択肢が検討の対象になったというだけでも「時代は変わった」と思いました。

――イスラムのどこに惹かれたんでしょうね、その方は。

 なんでしょう。仏教やキリスト教よりも宗教的な感じがするんじゃないですか。

――たしかに、一日5回も礼拝するのってかなり大変ですよね。

 ラマダンとかね。ああいう儀礼を見ていると、なんかいいなって思うのかも知れないですね。

――人間の奥底には、そういう儀礼的なものに縛られたいっていう欲望があるのかもしれないですね。

 儀礼って人間にとってすごく重要なものなんです。「自分には本当に信仰心があるんだろうか?」と自問してもすぐに「ある」と言い切れない。だって、人間だから、いろいろ心の中では悪いこと考えたりしますからね。でも、儀礼がきちんと決まっていて、とにかく決められた通りに儀礼を行うことを命じられている宗教だと、「自分にはほんとうに信仰心があるのだろうか?」という類の問いは前景化しない。だって、儀礼を滞りなくこなすだけで一大事業ですから。

 比叡山で千日回峰行をしている人は熱があろうと筋肉痛であろうと這ってでも歩き続けなければいけないでしょう。命がけでそういう行をしている人は「私にはほんとうに信仰心があるのだろうか?」なんて問いを自分に向けている暇なんかない。それと同じです。煩瑣に儀礼が定められていると、それを守るのに精いっぱいで、信仰心について懐疑的になっている暇がない。これが儀礼の功徳なんです。

 だから、戒律の基本は服飾規定と食餌規定になるわけです。「こういうものを着なさい、こういうものを食べなさい」という戒律が決まっていると、朝起きた瞬間から儀礼が始まります。朝起きて、服を着て、朝ごはんを食べた時点ですでに基本的な儀礼がいくつか終わっている。朝ごはんを食べ終えた時点ですでになすべき儀礼が順調に果たされているとそれから始まる一日が過ごしやすいでしょう。儀礼って細かく決められていて、面倒なものだと思うかも知れませんけれど、逆なんですよ。儀礼があるほうが生きる上ではずっと楽なんです。

――儀礼を守っていれば、自分がこの宗教の信者であることが実感できるわけですね。

 それによって魂の平安が得られますからね。デュルケームの『自殺論』によると儀礼の煩雑さと自殺率の間には関係があるようです。自殺率は当然、無神論者が一番高い。興味深いのは、その次がプロテスタントなんです。

 プロテスタントはカトリックの形式性を批判して、人は儀礼によってではなく、信仰によって義とされるという改革運動でしたけれど、信者にとってはけっこうストレスフルなんです。だって、自分がほんとうに神を信じているのかどうかを内心に尋ねることでしか信仰を基礎づけることができないから。でも、自分自身に向かって「お前は神をほんとうに信じているか?」と問いかけて、「はい」と確信を込めて答えられる人はあまりいない。儀礼性が乏しいと、そこがつらいところです。

 だから、自殺率の少なさでは下から二番目がカトリックで、一番少ないのがユダヤ教だということになる。多分イスラムもすごく少ないと思います。儀礼が煩雑になれば自殺率は低下する。そういう法則性があるようです。

 それだけ儀礼抜きで、ただ内面の確信だけで信仰を基礎づけることは難しいということです。儀礼があれば、ミサに行って聖水に指を浸したり、祝福されたパンを食べたりすれば、とりあえずは「信者としてやるべきことはしている」という納得感が得られる。生活が儀礼で満たされていればいるほど、おのれの信仰の揺らぎを経験する機会は逓減する。

――プロテスタントは聖書が第一なので、儀礼よりもテキストから読み取れるものを信じるってことですか。

 プロテスタントはラテン語聖書ではなくて、自分たちの母語で聖書を読む運動でしたから、時代が進むほど、信仰が個人的な意思に依存するようになってきた。それだけ純粋になったということですし、それだけ人間主義的になったのですけれど、儀礼が減ると、宗教は身体の支えを失ってしまう。

――儀礼は身体的なものですもんね。

 そうなんですよ。日曜に教会に行くだけでは、宗教を身体化するにはちょっと足りない。やっぱり毎日礼拝して、お祈りをして、讃美歌を歌って、ことあるごとにお互いに祝福を与え合って、できたら「信者らしい服装、信者らしい食生活」をするようにすれば、信仰を維持することはずっと楽になる。

――ユダヤ教徒は常住坐臥、いついかなるときもユダヤ教徒なんですね。

 そうであることを余儀なくされているわけです。着る服はもちろんですけど、帽子をかぶったり、家を出入りする度に祈りの道具を身に付けたり外したり……ということを一日中やっているわけですから。

 私が初めてレヴィナス先生にお会いした時に、インタビューの後に思い切って「記念にご著書にサインください!」って差し出したら、先生がびっくりされて、「きょう土曜日だよ」って言うんです。「安息日だから、文字を書いてはいけないんだよ。君、知らないの?」とあきれられました。

 日曜日に牧師さんに会った時に、「この契約書にサインお願いします」って言っても「安息日だからサインはできません」なんてまず言われることないでしょう。安息日という概念があるということと、安息日の儀礼を守るということは別の話なわけですよ。火を使うことも労働になるので、土曜日は部屋の灯りもつけちゃいけないんです。後から思い返してみると、レヴィナス先生のおうちの部屋も灯りがついていませんで、夕方になると真っ暗でしたね。

――インタビューに答えるのは労働じゃないんですか。

 それは知的な交流なので、労働ではないんです。聖書を読んだり、タルムードの講義をしたりするのは、労働じゃないんです。僕のようなのが家に来るのを迎えて、何時間もお話してくれるのは、いいんです。でも、サインは駄目!

――そのギャップが面白いですね(笑)