――まず最初に宇宙観の変遷(へんせん)というか、人間が宇宙をどういうものとして見てきたかということからお聞きしたいんですけど。天動説ができたのは、人々がキリスト教的な価値観で宇宙を見ていたということなんでしょうか。地球は神がいる場所だから宇宙の中心で、その周りを太陽や星が回っているといったような。

 宇宙の研究が、ユダヤ教やキリスト教といった唯一神の存在する西洋で始まったことが、人々の宇宙のとらえ方に影響してるのは確かでしょうね。しかし、天動説はユダヤ教やキリスト教が信仰されるずっと以前のギリシャ時代に提案されたものですから、唯一神の存在とも直接の関係はないものと思われます。天動説っていうのは要するに、地球は特別な存在であるという考え方です。

 宇宙、ユニバースという言葉の語源を辿ると、ユニバースというのは「ユニ」と「バース」なんですよ。「ユニ」はユニクロのユニ。「一つの」という意味です。「ユニット」とかあるでしょう。で、「バース」は「回転する」もの。つまり宇宙は「一つの回転するもの」という意味だったんですね。じゃあ一つの回転するものって何かっていうと、それは太陽系なんです。

 私たちの目で見る限り、太陽も月も全部われわれの周りを回ってるでしょう。昔はよく見える星を惑星と呼んだんですけど、それは5つ(水星、金星、火星、木星、土星)あった。で、それがみんなわれわれの周りを一律に回っている、みんな同じ一つの面上にそろって回転しているわけ。それでユニバース。

 だから、もともとこの言葉ができたときには、唯一神は関係なかったんじゃないかな。見たままの宇宙を、そのまま言葉にした。で、それに、この地球に神がいるからという理屈を後で付けたんだと思いますね。

――ユニバースという概念が先で、神は後だと。なるほど。で、後にコペルニクスが実は地球の方が動いてるんじゃないかっていうことに気付いて。

 コペルニクスより前、ギリシャ時代に既にそういうことを言った人がいます。アリスタルコスという人。彼は非常にすごくて、たとえば日食と月食は何で起こるかっていうことは、ギリシャ時代の彼には大体分かっていた。

――そうなんですか。

 日食というのは、お月さんが太陽から地球を隠す現象ですよね。で、月食というのは地球が月を隠す現象。このふたつを比べると、月食のほうがずっと長い時間つづく。だから、その影を見れば、地球のほうが月より大きいだろうっていうことがわかるわけです。実際、地球の影は月より3倍以上大きい。

 日食では、太陽と月は大体同じ大きさに重なります。見かけ上の大きさが同じであるためで、しかし距離は全然違う。太陽のほうが圧倒的に遠くにあるのに同じ大きさに見えるんだから、太陽のほうが絶対に大きいはずだと彼は考えました。それで、大きさからいくと太陽、地球、月の順になるだろうというのが分かるわけです。

 そうすると、大きい物体の周りを小さい物体が回るのが普通であって、大きい物体が動き回るなんておかしいというふうに、アリスタルクスは非常に論理的に説明した。でも、そういう論理性は、ギリシャ人はあんまり好きじゃなかったのかな。主流にはならなかった。プラトンもアリストテレスも美的な世界っていうか、哲学的に考察した。

 ただ、アリストテレスは天体の世界は完全である、永久であると考えていたみたいですね。ものすごく哲学的な思い付きだけど。

――完全だとどうなるんですか。

 円運動です。永遠に回り続けると考えた。しかし地球は有限である。寿命が決まってるから。それで、地球は直線運動。行って止まって、帰って止まって、それと同じで、生まれて死んで、生まれて死んで、を繰り返す。そういう生き死にが地球にはある。そういうふうに、哲学的に考えるわけです。だから、ギリシャ時代の発想に神はいないでしょうね。

――まだユダヤ教も、キリスト教もないわけですもんね。

 そう。神がいない段階で天動説は作られた。さっきのユニバースもそうですね。素朴に考えると、神なしでまずは天動説が生まれた。で、その後で神が出てくる。

 神が出てくると、より天動説が正しいように思うんだけど、そこには矛盾があるわけ。さっきの、大きい物が小さい物の周りを回るのだって矛盾ですよね。で、その矛盾に気付いたのがコペルニクスだってことだと思います。

ニュートンの思い込み

 哲学者っていうのは非常に理念的であると同時に、こうあってほしいとか、あるべきだという考えが先に立つことがあってね。それに対して自然科学者、物理学者や天文学者というのは、あらまほしいとか、あるべきだということではなく、自然はこうなっているということからはじめる。

――事実から出発するのが科学者。

 そう。

――哲学者はじゃあ、「こうあるべきだ」という理念に、「こうなっている」という事実、現象の方を当てはめて見るという感じでしょうか。

 そういう面がある。自分の論理に無理やり天体の現象を合わせるというか、都合のいいところだけを引っ張ってくるというか。

――牽強付会(けんきょうふかい)ってやつですね。

 ただまあ、それも仕方がないところはあるんです。宇宙論というのは、宇宙はどうなってるか、どのように生まれたか、といったことを考える分野でしょう。でも、宇宙全体のことはそう簡単に分からんわけですよ。だから、あらまほしいとか、あるべきだということが先に立つことになる。そうならざるを得ないのです。偉い学者は、特に、自分の目の黒いうちに決着をつけておきたいっていう傲慢なところもあるからね。

――その気持ち自体はすごくわかります。

 ニュートンは、宇宙は無限であるということを最初に言ったんですよ。で、実はそれも「そうなっている」のではなく、「あるべき宇宙は無限である」と言った。

 ニュートンは万有引力を発見したでしょう。すべての物質は引っ張り合う。だから、もしも宇宙が有限だとすると中心と端があり、端っこにある物質は中心に向かって引っ張られるから、全部真ん中に集まってしまって、全体がどんどん縮んでいくわけ。で、最終的にはつぶれてしまう。そんなはずはないと考えた。

――理論的に都合が悪くなるから無限だと。

 都合が悪いというより、この宇宙がつぶれるはずはないと思っていた。それこそ、神の創った宇宙がつぶれるはずはないと思ったのかもしれないけどね。つぶれないためにはどうなればいいかというと、ある場所から引力が働いたとしても、その反対側に同じくらい物質があれば逆方向に引力が働くから、万有引力は相殺されるでしょう。そうやって、物質が無限に広がっていれば、お互いの力は全部キャンセルされる。だからつぶれないというわけです。

 ニュートンは万有引力から考えて、有限の宇宙だったらいずれつぶれてしまう。つぶれない宇宙であるためには無限でなければならないという論理を立てた。その論理立てからいうと、アインシュタインも同じです。宇宙は広がったり縮んだりしないものだと考えていた。理屈上はニュートンと同じように先入観があったんですね。

 宇宙論はすぐに全体像が見えるわけじゃないから、あらまほしいとかあるべき宇宙を考える。ニュートンの場合はあるべき宇宙は無限でなければならない、とね。

――そういうのがないと進めないんですね。

 一応、起承転結は付けたいわけです。