寺を焼くこと

 前回は、寺の中で博打をするという、けしからぬ話でした。しかし、寺院に関わるもっともけしからぬ行為は、寺に火をつけて焼くことでしょう。ただ、寺を焼くことは、古代から行われていました。

 その最古の記録は、むろん、仏教導入に反対していた物部守屋が蘇我氏の寺を焼いたというものです。『日本書紀』によれば、疫病の流行は仏教を入れたせいだと主張した守屋は、天皇から寺を破壊する許可を得、敏達天皇14年(585)3月に自ら蘇我氏の寺に乗り込んで指図し、塔を切り倒して火をつけさせ、仏殿と仏像も焼いています。

 古代にあっては、寺は堅固な城としての役割も果たしていましたので、その面で警戒されたことも考えられます。実際、皇極4年(645)に中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が蘇我入鹿を宮中で斬り殺すと、蘇我氏の襲来をふせぐため、中大兄はただちに「法興寺(飛鳥寺)に入り、城となして備え」た、と『日本書紀』に記されています。

 当時の寺は高い塀で囲まれており、軍事拠点として用いられたのです。また、初期の寺は、都への交通の要路となる道の傍らに立てられ、寺の周りに太い丸太の柵を張りめぐらすのが普通であって、法隆寺も後に塀が築かれる前は、丸太の高い柵で囲まれていました。

 こうした時期を経て仏教が広まっていった結果、寺は広大な荘園を有するようになって強大な勢力となり、僧兵を抱えて税を取り立てるようになりました。また寺と寺同士が争うことも増えていきました。

比叡山の僧兵たちの焼き討ち

 そうなれば、寺の僧兵たちが、敵対する寺を襲撃するという事態が生じるのは当然でしょう。その代表は天台宗内部の紛争です。長らく続いてきた比叡山延暦寺と園城寺(三井寺)の対立が頂点に達した英保元年(1081)6月には、延暦寺の僧たち数千名が武装して園城寺を襲撃し、塔や僧坊などを焼いています。

 怒った園城寺の僧たち300名ほどが同年9月に延暦寺を襲ったものの、多勢に無勢で打ち破られ、逆に延暦寺側が園城寺に押しかけ、残った建物をすべて焼き払ってしまいました。これは、最初の焼き討ちの成果を聞いた延暦寺の天台座主が、「堂舎や経蔵などを焼いてこそ襲った甲斐があろう。僧坊などばかり焼くのは無益なことだ」と語ったため、二度目の襲撃では金堂を初めとする重要な堂や経蔵を焼き払った、と伝えられています。ひどい話ですね。

 最初の焼き討ちで、僧兵たちが金堂を焼くのをためらったのは無理もないでしょう。憎い相手の僧たちが暮らしている僧坊を焼くのと、本尊を安置した金堂や経典を収めた経蔵を焼くのとでは、まったく違いますので。以後も、寺の中心となる金堂を焼くことには、悪僧たちでさえためらいを覚えたことが、延慶本の『平家物語』に見えています。

 永万元年(1165)に延暦寺の僧たちが清水寺を焼き討ちした際、まず僧坊に火をつけ、ついで大門、次に三重塔を焼いたものの、本堂は残ったままだった由。延暦寺の僧兵たちがためらっていると、「大悪僧」である乗円が進み出て焼くことを主張し、「罪業、本ヨリ所有ナシ。妄想顛倒[てんどう]ヨリ起ル。心性[しんしょう]、源[みなもと]清ケレバ、衆生則チ仏也」と呼びかけると、衆徒たちは「もっとも、もっとも」と賛同し、御堂の四方に火をつけた、とあります。

 「罪業、本ヨリ所有ナシ」とは、罪業は本来、空[くう]であるということです。「妄想顛倒ヨリ起ル」とは、罪も含めて一切は空であるのに、これこれすると罪業となるのではないかなどと誤った考えにとらわれることによって、かえって罪業が生じるのだ、ということですね。

 「心性、源清ケレバ、衆生則チ仏也」とは、存在の根源は心であり、その心の本姓はもともと清らかであるため、その観点からすれば、煩悩に満ちた人々もそのまま仏なのだ、という意味です。

 だから本堂も焼いて良いのだというのは、無理なこじつけとしか言いようがありません。しかし、乗円が唱えたこの句は、目の前の事象は空であってそのまま真理にほかならないとする天台本覚論の立場を極端にまで推し進めたものであり、この図式自体は広く受容されていたものです。

 たとえば、親鸞の「正像末[しょうぞうまつ]和讃」の草稿本にもこの類句が見えています。ただ、そこでは、「罪業モトヨリ形ナシ。妄想顛倒ノナセルナリ。心性モト清ケレド、コノ世ハマコトノ人ゾナキ」と改められていました。つまり、心の本性はもともと清らかではあるものの、末法の世である現在について言えば、そうした本来の清らさかを生かすことのできる真実の人はおらず、自分を初めとして煩悩に満ちた者たちばかりだ、と深い反省を示していたのです。

焼き討ちされた比叡山

 その親鸞は、比叡山を出て法然のもとにおもむきましたが、比叡山は以後も強大な勢力であり続け、戦国時代になっても武力を誇っていました。その叡山の焼き討ちを命じたのが、織田信長です。仏教の権威を恐れない近世人であった信長は、元亀2年(1571)9月、比叡山を攻撃して根本中堂を初めとする主要な建物を焼き尽くさせました。僧侶たちばかりでなく、ふもとの坂本の町から山に避難した女性や子供たちをも斬り殺させたのです。

 これが、焼き討ちを繰り返してきた延暦寺の末路でした。しかし、信長が天正10年6月に明智光秀の軍勢に襲われ、本能寺で自害して果てると、早速、比叡山復興が企てられました。2年後に再興の許可がおりると、寺塔の建立も始まります。

 再建は、徳川家康や伊達政宗などの支援によってなしとげられました。しかし、徳川幕府の保護と監視下に置かれた比叡山の僧たちは、以後は焼き討ちどころか、武装することも許されなくなったのです。