「テラ銭」とは

 前回は「寺」という漢字を「てら」と訓む理由を紹介しました。この「てら」という語は、誰もが知っているお馴染みの言葉であるのに、「寺院」とか「寺社」などの漢字熟語と違い、「てら」で始まる表現は多くありません。雑用をする「寺男[てらおとこ]」などは数少ない例のひとつでしょう。

 「テラ銭」があるじゃないかという声があがりそうですが、この言葉は実は良く分からない語なのです。インターネットで「テラ銭」を検索して説明を見ると、寺の敷地は寺社奉行の管轄であって町奉行は手が出せないため、寺で博打をしてその儲けの一部を寺に支払ったことから、賭博をする際、主催者に払う銭のことを「テラ銭」と言うようになった、などと書いてあります。しかし、こうした説明の場合、用例がまったくあげられていないのが怪しいところです。

 「寺銭」という言葉自体は、唐代の中国文献で用いられており、日本でも奈良末から平安初期にかけて編集された現存最古の仏教説話集である『日本霊異記』にも「寺之銭」として見えていいます。これはむろん、寺が所有する金を意味しており、建物の修理などのために蓄えられたものであって、貸し出して利息をとり、寺の運営費とすることも良くありました。

 当然ながら、寺の者がそうした「寺銭」に手を出したり、借りた在家の者が返さなかったりするのは、とんでもない悪業とされたため、地獄に落ちたとか、牛などに生まれ代わって寺で働いた、などといった説話がたくさん残されています。

 その「寺銭」が、どうして博打の場を貸してくれたお礼となるのか。そのうえ、「テラ銭」の現在の意味は、賭け事をする際、その参加料として払う代金というものです。寺に払うお礼の金がなぜ参加料に変化するのか。

古語辞典の説明

 そこで、『角川古語大辞典』第4巻(角川書店、1994年)を見てみました。この辞典の「てら【寺】)」の項では、通常の寺院、その住職、寺小屋の略などの意味の次に、「博奕の胴元」という意味をあげています。出典は『小倉山時雨珍説』。これは江戸時代の人気作者、山東京伝(1761-1816)が天明8年(1788)に刊行した黄表紙ですね。

 同辞典では、「てらぜに【寺銭】」については、「てらせん」に同じ、となっていました。その「てらせん」の項では、「賭博開帳者(貸元)が賭博の機会・便益を与えた報酬として、参加者から徴収する金銭」と説明し、「てら」については、「照らす」の略で灯火料の意とするものと、「寺」の意で寺に宿する宿賃とする説があるが未詳だ、としています。

 次は、2008年の『江戸時代語辞典』(角川学芸出版)。江戸時代に用いられていた語の辞典だけに、「てら(寺)」の語義の筆頭は、なんと、「賭博の胴元」であって、典故は貞享4年(1687)の『懐硯』です。これは、かの有名な井原西鶴(1642-1693)の作ですね。

 最後は、2003年の『江戸語大辞典』(講談社)。この辞典では、「てら【寺】」については、「てらぜに」の略、としています。そして、「転じて、開帳場。賭場」を指すとします。典故は、天明元年(1781)の『御代之御宝』。教訓書と戯作で知られた市場通笑(1737-1812)の作です。

 そして、「てらぜに【寺銭】」については、「賭博開帳者の徴収する口銭」とし、「寺は照の意で、灯を照らす料金の意という」と述べ、「てらせん」「てら」とも言う、としています。

 これまで見てきた説明は、いずれも通説とまったく違いますね。書きぶりからすると、「照らす」説が有力そうですが、「照らす」を「てら」と略すかどうか。それに、賭博は灯火が必要な夜にやるとは限りませんし、上記の辞書があげる用例を見る限り、「照らす」が元と思われるような文脈の用例はありません。寺に払う場所代と思われる例もありません。

 そもそも、博打は様々な場所で行われていました。さいころ博打の歴史を説いた増川宏一『さいころ』(法政大学出版局、1992年)によれば、賭博を禁じていた江戸時代において都市でしばしば博打の拠点となったのは、武家屋敷の中間[ちゅうげん]部屋であった由。武家屋敷には町方の捕吏[ほり]が踏み込むことができなかったためです。

 寺社でおこなわれることもありましたが、これは、寺社は寺社奉行の管轄下にあったため、武家屋敷と同様に町方の捕吏が踏み込めなかったためだろうと、増川氏は推測しています。おそらく、これが冒頭で述べた通説の起源ですね。

 しかし、賭博がおこなわれた場所として増川氏が具体名をあげている事例を見ると、寺の例は少なく、ここから「テラ銭」という言葉が生まれたようには思われません。ただ、さいころの丁半博打をする際の敷物を「盆茣蓙[ぼんござ]」と呼ぶことが示すように、賭博の用語には仏教関連の言葉が多いことも事実です。

仏教と博打

 では、仏教と博打はどう関わるのか。漢訳経典には「博打」の語は見えず、代わりに少しだけ登場するのが「博奕[ばくえき]」です。3世紀の中頃に活躍した呉の支謙が訳した『仏開解梵志阿颰経[ぶつかいげぼんじあはつきょう]』(*仏がバラモンである阿颰に説法して智恵を開かせたことを説いた教典。)では、仏教の修行者がやってはならない事柄をあげた際、「樗蒲「ちょぼ」・博奕」などの類をあげています。

 「樗蒲」というのは、記号が記された何本かの木の棒、ないし数枚の平たい板を投げ、出た目によってすごろくのように盤面を進んで争うゲームだったようです。ただ、経典が禁止するということは、そうしたゲームをやっていた修行者たちがいたことを示すものでしょう。

 実際、唐代における戒律研究の第一人者であった道宣(596-667)は、亡くなった僧侶の遺品のうち、重要なものとそうでないものを区別して処理する仕方を説いた『量処軽重儀[りょうしょけいちょうぎ]』では、勝負事の道具である樗蒲・碁奕(囲碁)・投壺[とうこ](壺に矢を投げ入れる遊び)・牽道(すごろく)・六甲行成(不明)・骰子[とうし](さいころ)・馬局(不明)の類は、修行の妨げになるため、売却して寺の費用にあてるべきだと説いています。つまり、そうしたものが寺に持ち込まれていたのですね。

 樗蒲[ちょぼ]が盛んであったことは、韓国の古寺の遺跡から、その盤面として使われていたとみられる塼[せん](かわら)が出土していることからもうかがえます。日本の平城京跡からも、底にそれに似た模様が刻まれている土器などが発見されていますので、日本の寺院でも樗蒲がおこなわれていた可能性は高いでしょう。

 そうした中で、ある程度認められていたのは囲碁でした。奈良時代の僧尼取り締まりの規程である『僧尼令[そうにりょう]』第九「作音楽条」では、「僧尼が音楽をたしなみ、また博打をしたならば、百日間の苦使(罰としての作業)を科す。ただし囲碁・琴はこの限りではない」と述べています。囲碁と琴だけは、僧侶のたしなみとして許されていたようです。

 しかしながら、もちろんそれですむはずがなく、様々な博打が行われていました。また大目に見られていた囲碁についても、修行などはそっちのけでひたすら囲碁に明け暮れて一生を終えた僧侶などもいました。

 そうした例については、村田なお・石井公成『教えを信じ、教えを笑う』(臨川書店、2020年)のうち、私が担当した後半分、すなわち、「酒・芸能・遊びと仏教の関係」の章に書いておいた通りです。そうである以上、「テラ銭」が「寺銭」と表記され、賭場を提供してくれたお寺へのお礼、という解釈が出てきたのも無理ないことかもしれません。