前回、前々回と2回に渡って、サン・マルコ聖堂本堂内の「キリスト伝」連作をオシオス・ルカス修道院中央聖堂の装飾と比較しながら、その特徴を浮かび上がらせてきました(第21, 22回コラム参照)。今回は本堂に入る前のナルテクス(玄関間)に施されているモザイクについて見ていきたいと思います[図1 赤枠内]

[図1]サン・マルコ聖堂ナルテクスと平面図

ナルテクス概観

 サン・マルコ聖堂のナルテクスはL字型をしており、そのうち6つの小円蓋と2つのアーチに13世紀のモザイクが施されています。そこには旧約聖書の『創世記』全般と『出エジプト記』の冒頭部のエピソードが連作形式で展開しています。

 起点は正面入口の右側に位置する小円蓋[図1 a]です。そこには『創世記』の第1~3章に記された「天地創造」や「アダムとエヴァ」のエピソードが表されています。続いて入口周辺のアーチ[図1 b, c]には「大洪水」や「バベルの塔」(『創世記』6~11章)、さらに左側の小円蓋[図1 d]には「アブラハム」(『創世記』12~17章)に関する物語が複数場面で繰り広げられていくのです。

 一方、本堂の左翼廊へと連なる部分には、「ヨセフ」(『創世記』37~42章)の波乱万丈な人生が3つの小円蓋[図1 e, f, g]に渡って展開し、ここで『創世記』を典拠とした連作は完了します。最奥の小円蓋[図1 h]には『出エジプト記』(2~3章)に登場するモーセのエピソードが表されています。

 ナルテクスは元々、本堂に入ることができない未受洗者たちがとどまる空間で、入信希望者はそこで教会の聖職者からキリスト教の基本を教えられていました。オシオス・ルカス修道院中央聖堂のナルテクスでは、本堂への入口上部のルネッタ(半円形壁面)に《パントクラトールのキリスト》を置き、その左右の壁面に「イエスの死と復活」を代表する場面を2つずつ配して、イエスが神であることを明示しようとしています(第19回コラム参照)。

 それに対してサン・マルコ聖堂の装飾は、先述したように、聖書の第一の書である『創世記』を細かく視覚化しています。そこには本堂内の装飾同様、聖堂を訪れる人たちに聖書のエピソードを時系列に則って、できるだけわかりやすく伝達しようとする意図が読み取れます。この壮大な連作中、今回は『創世記』の冒頭部分を視覚化した入口右側の円蓋装飾[図2]を見ていくことにしましょう。

[図2]サン・マルコ聖堂ナルテクスの第1小円蓋

第1小円蓋の全体像

 ここのモザイクは1230年頃に制作されたと考えられており、『創世記』の第1~3章に記されている「天地創造」と「アダムとエヴァ」の物語が、3層の同心円上に27場面で展開しています[図3]

[図3]サン・マルコ聖堂 「天地創造」と「アダムとエヴァ」の連作 1230年頃

 このうち「天地創造」のエピソードは、神が創造を開始する以前のカオスの状態を表す「闇と水の上を漂う聖霊」から始まり、6日間の天地創造、そして7日目の「神の安息」までを、全部で11場面で表現しています。

 一方、「アダムとエヴァ」に関しては、彼らが神によって創造される過程が第12~17場面に、そして彼らが神との契約を破り楽園から追放されるエピソードが第18~27場面で表されています[図4]

[図4]第1小円蓋に表された主題

ヴァティカン図書館所蔵の挿絵入り聖書

 『創世記』の最初の3章が視覚化されることは、サン・マルコ聖堂のモザイクが制作された時代では盛んに行われていたようです。本モザイク以前に制作された聖堂装飾の例を挙げると、サン・ジョヴァンニ・ア・ポルタ・ラティーナ聖堂(ローマ)やサン・ピエトロ聖堂(フェレンティッロ)の壁画(12世紀)、モンレアーレ大聖堂(モンレアーレ)やパラティーナ礼拝堂(パレルモ)のモザイク(12世紀)が挙げられます。サン・マルコ聖堂の装飾以後だと、フィレンツェ洗礼堂のモザイク(1280年頃)やアッシジのサン・フランチェスコ聖堂の壁画(1290年頃)でも見られます。

 こうした大規模な聖堂装飾を行う際に、画家やモザイク師はしばしば聖書の挿絵を参考にしました。12世紀のローマ周辺では挿絵を伴う『創世記』がいくつか出版されていますが、なかでもヴァティカン図書館に所蔵されている彩色写本(Vat. Lat. 12958)は『創世記』の図像を考える上できわめて重要な書です。

 この写本の一頁全面を使って描かれた挿絵[図5]を見てみましょう。

[図5]彩色写本(vat.lat.12958)の挿絵(4v) 12世紀 ヴァティカン図書館

 サン・マルコ聖堂では、「天地創造」から「アダムの労働」までを27場面で表していますが、ここではわずか7場面で構成しています。4層に分けられた画面の第1層には「天地創造」、続く第2層に「アダムの創造」と「エヴァの創造」、さらに第3層には「原罪」と「神の懲罰」、そして最下層に「楽園追放」と「アダムの労働」が描かれているのです。

 「天地創造」の図像

 この挿絵の最上層では、創造主である神が天球を示す円内に半身像で表され、右手は祝福のポーズをし、左手に聖書を抱えています[図6]

[図6]《天地創造》 [図5]の細部

  これはオシオス・ルカス修道院やダフニ修道院で見られる「パントクラトールのキリスト」と類似した図像です(第17回コラム参照)。左右の天使は光と闇を象徴し、そしてそれぞれの上方には太陽と月が擬人化されています。第2層には「アダムの創造」と「エヴァの創造」が描かれていることから、この第1層には7日間に渡って神によってなされた「天地創造」が一場面で表されていることがわかるのです。

 中世イタリア美術の専門家であるガリッソン(1961年)によると、「天地創造」を単一画面で表し、半身像の創造主を円内に配す図像は、11~12世紀にローマ周辺で制作された『創世記』連作に共通する特徴ということです。その一例としてローマのサン・ジョヴァンニ・ア・ポルタ・ラティーナ聖堂の身廊部に描かれた壁画[図7]を見てみましょう。

[図7]《天地創造》 12世紀 ローマ サン・ジョヴァンニ・ア・ポルタ・ラティーナ聖堂

  画面中央の鳩は水の上を漂う聖霊を象徴しているので、神による創造以前のカオスの状態を表しています。一方、創造主はヴァティカン図書館の彩色写本同様、円内に無髭(むぜん)の半身像で描かれ、右手は優勢を示す手の平を、逆に左手は劣勢を意味する甲を見せており、それぞれの下には光と闇の擬人像が置かれています。これは創造の第1日目の「光と闇の分離」を視覚化しているのです。また円内の太陽、月、星は創造の4日目、下方の魚は5日目の創造を表しています。ここではヴァティカン図書館の写本で見られるような図像に具体的なモティーフをいくつか加えて、「天地創造」の7日間を一画面中に見事に再現しているのです。

 サン・マルコ聖堂のモザイクよりも少し後に制作されたアッシジのサン・フランチェスコ聖堂の壁画[図8]では、どのような表現になっているでしょうか。

[図8]ヤコポ・トッリーティ 《天地創造》 1290年頃 アッシジ サン・フランチェスコ聖堂

  サン・フランチェスコ聖堂の《天地創造》はフランチェスコ修道会出身の最初の教皇ニコラウス4世(在位:1288-92年)が、ローマで重用していたヤコポ・トッリーティをアッシジに派遣して描かせたと言われています。ここでは画面中に地平線が明確に定められ、陸と海がはっきり分離されています。そして陸には植物や動物が、海には何匹もの魚が泳いでおり、それらにはしっかりとした陰影が施され、彫像的に表現されています。つまり様式の上では、サン・ジョヴァンニ・ア・ポルタ・ラティーナ聖堂の壁画よりもはるかに写実的な表現になっているのです。

 しかしながらその一方で、図像上の特徴を見ると、天球内に半身像の創造主、その下には聖霊を象徴する鳩、そして左右に光と闇の擬人像が置かれている点では、先行作例とあまり大きく変化していないことに気付きます。同様の図像はフィレンツェ洗礼堂のモザイクでも見て取れます。つまりローマで11~12世紀に普及していた「天地創造」の図像は、13世紀になっても基本的に継承されていたと考えられます。

サン・マルコ聖堂の「天地創造」の特徴

 サン・マルコ聖堂ナルテクスの小円蓋では、「天地創造」は同心円上の最も内側の層と中層に表されています[図9]

[図9]第1小円蓋の内層と中層 [図3]の細部

 その図像は前述の中部イタリアにおける同主題作品と比べると、明らかに異なります。このモザイクの最大の特徴は、『創世記』第1章の記述を11場面に分けて表していることにあります。12世紀末に制作されたパレルモの宮廷礼拝堂やモンレアーレ大聖堂の装飾でも、7日間に渡る創造の行程を1日ごとに視覚化することは行っていますが、3日目や5日目、6日目の創造を2場面とし、創造以前の状態や安息の場面も含めて11場面にも渡って展開している「天地創造」の描写は、聖堂装飾では他に例がないと言っていいでしょう。

 創造主の表現も、ローマ周辺の彩色写本や壁画で見られる半身像とは大きく異なります。神は多くの場面において、画面の左側に全身の立像として表されているからです。また場面の進行に合わせて数がひとりずつ増えていく天使は天地創造の何日目であるかを示しています。例えば4日目の《天体の創造》[図10]では天使は4人登場し、7日目の《神の安息》では、玉座に腰かけた神が7番目の天使に祝福を授けるといった具合です。

[図10]《天体の創造》 1230年頃 サン・マルコ聖堂

古代末期の彩色写本との関係

 図像伝統を重視する中世美術において、ナルテクスのモザイクのように同時代の作品と全く異なる特徴を示す例はきわめて珍しいと言えるでしょう。このモザイクを制作したモザイク師は、いったいどのような先行作例を手本にしたのでしょうか。

 この問いに対し、ナルテクスのモザイクを古代末期の彩色写本『コットン創世記』(4~5世紀)と最初に関連付けたのはティッカネン(1889年)です。現存する挿絵入り聖書のなかで最古のひとつとされるこの写本は、コンスタンティノポリス、もしくはアレクサンドリアで制作されたと考えられています。しかしながら1731年に火災に見舞われ、その多くが焼失してしまいました。もともとは440ページ以上から成り、そこに350前後の挿絵が添えられていたということです。現在、大英図書館に所蔵されているのは燃え残ったいくつかの断片[図11]と、17世紀に模写された水彩画のみです。

 

[図11]《アブラハムと天使》 『コットン創世記』(26v) 4-5世紀 ロンドン 大英図書館

 《植物の創造》を描いた水彩画[図12]をサン・マルコ聖堂モザイクの同場面[図13]と比較すると、図像的にきわめて似ているため、ヴァイツマン(1955年)は『コットン創世記』の挿絵がヴェネツィアのモザイクの直接の手本だと考えました。

[図12]《植物の創造》 17世紀  パリ 国立図書館(左)
[図13]《植物の創造》 1230年頃 サン・マルコ聖堂(右)

 この貴重な彩色写本は、1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを征圧した時に略奪され、そこからヴェネツィアにもたらされたのではないかと言われています。当時、サン・マルコ聖堂では本堂の装飾がおおよそ完成しており、ちょうどナルテクスのモザイクに取りかかろうとしていた時期でした。そこでこの写本に添えられた数多くの挿絵を、できるだけ忠実に玄関間で再現しようとしたのかもしれません。

 

 『コットン創世記』の挿絵はサン・マルコ聖堂のみならず、西欧中世の多くの聖堂装飾や浮彫などに多大な影響を及ぼしたと言われていますが、その原本がオリジナルの状態をほとんど留めていないため、ナルテクスのモザイクは中世美術における図像の伝搬とそれに伴う変化を知る上で、きわめて重要な作例となっているのです。