ジョットに始まるルネサンス美術では、聖なる人物や物語があたかも眼前に現れたかのようなイリュージョニスティックな表現を基本的に目指していたのですが、1500年頃までは作品全体の調和や自然らしさを重視していたため、人物像の過度の運動性や感情の表出はほとんど行われることがありませんでした。そのため、1506年に古代群像《ラオコオン》が発掘された時、この群像のダイナミックで情動的な表現は美術家たちにすぐさま受け入れられなかったのです。発掘に立ち会ったミケランジェロですら、その影響が彼の彫刻作品に現れるのは1513年頃に制作された奴隷像[第5回 図6, 7]でした。

 ところでミケランジェロは1508年から4年間に渡ってローマにあるシスティーナ礼拝堂の天井装飾[図1]を行っています。

[図1]システィーナ礼拝堂内観 ローマ

この大規模な壁画制作において、彼はヘレニズム的な表現を彫刻に先駆けて試みていたのでしょうか。

天井装飾の概要

 1506年、教皇ユリウス2世はミケランジェロに対して、委嘱していた墓碑の制作の中断を命じ、代わりに自分の叔父にあたる教皇シクストゥス4世が建てさせた礼拝堂の天井に壁画を描くことを依頼します。ヴァザーリ(1550年)によると、サン・ピエトロ聖堂の改築を行っていたブラマンテから教皇に進言があったためということです。この建築家はミケランジェロがあまり経験したことがない壁画を描かせて、教皇からの評価を失墜させることを企んでいたようです。

 その真偽は定かではありませんが、墓碑制作のための資金提供がストップしてしまったため、ミケランジェロは怒ってローマからフィレンツェへ戻ってしまいました。礼拝堂の天井装飾については、自分は画家ではなく彫刻家であるという理由で断り続けていたのですが、教皇からの度重なる要請があったためこの大仕事を引き受けることにし、ようやく1508年の秋、制作に取りかかり始めます。この礼拝堂の壁画を完成させれば、墓碑の制作を再開させるといった条件を教皇から提示されたのかもしれません。

 最初、ユリウス2世は12使徒を描くように依頼するのですが、それに対してミケランジェロは、その案では装飾全体が貧弱になってしまうと反論します。すると教皇は、それならばミケランジェロが好きなように描けばよいと告げたそうです。彼はまず天井の中心に9つの区画を設定し、そこに『創世記』の物語を祭壇側から入口側に向けて展開することにしました[図2]

[図2]ミケランジェロ システィーナ礼拝堂天井装飾 1508-12年

つまり祭壇側に「天地創造」(第9~7区画)、中央に「アダムとエヴァ」(第6~4区画)、入口側に「ノア」(第3~1区画)のエピソードを配すことにしたのです。そしてその周囲に旧約聖書の預言者7人と異教の巫女5人の計12人を置き、「ペンデンティヴ」と呼ばれる天井の四隅に「神の救済」をテーマにした旧約聖書のエピソード、そして側壁の最上層部には「人としてのイエスの先祖たち」を表すことを計画しました。

 この装飾の中心的役割を担っているのは言うまでもなく『創世記』の連作ですが、ミケランジェロの彫刻作品との関係から考察するには、ひとりひとりが全身像で表されている預言者像から見ていくのがわかりやすいと思います。

2体の預言者像の比較

 ミケランジェロは天井装飾を入口側から祭壇側へと進めていきました。つまり『創世記』連作の物語順とは逆行する形で制作していったのです。したがって7体の預言者像の内、入口真上の《ゼカリア》[図3]は最も早い時期に描かれたものと考えていいでしょう。

[図3]ミケランジェロ 《ゼカリア》 1508-09年

 ゼカリアはバビロンに捕囚となったイスラエルの民が解放された後、エルサレムの神殿を再建することを強く訴えた預言者です。ミケランジェロは彼を、自身の預言書を冷静に読み返している姿で表しています。石造の椅子にどっしりと腰かけている下半身はほぼ正面向きですが、腰をひねることで上半身を真横向きにしており、全体的に自然な動きを感じさせます。その落ち着いた表情からしても、そこにはいまだに《ラオコオン》からの影響は感じられず、《ダヴィデ》[第4回 図5]のクラシック的表現を継続しているように見えます。

 1509年9月15日、ミケランジェロはフィレンツェに350ドゥカーティを送金しているので、1508年秋からこの時期までが制作の第一段階とみなされています。その後、1年近くの中断があった後、1510年の夏から装飾は再開され、天井の半分ほどが完成した1511年8月14日に一旦、公開されました。それは教皇からの強い要請があったからです。足場が解体されたこの時、ミケランジェロ自身も初めて自作品を床から見ることができたはずです。その後、時を経ずして第三段階に入り、祭壇側の残り半分が描かれ、1512年10月31日に壁画はすべて完成しました。したがって祭壇の真上に位置する《ヨナ》[図4]は、最後に描かれた預言者像と考えてよいでしょう。

[図4]ミケランジェロ 《ヨナ》 1512年

 ヨナは紀元前9-8世紀の預言者で、ある日、神からアッシリアの首都ニネヴェへ行くことを命じられます。ところが彼はその要請を拒み、タルシシュへ向かう船に乗ったので、神の怒りを買い、強烈な嵐により船は難破しそうになります。ヨナから事情を聴いた船員たちが彼を海に放り込むと、途端に嵐はおさまりました。ヨナは大きな魚に飲み込まれてしまいますが、魚の体内で神に祈り続けていたところ、3日後に彼は吐き出されたのです。この出来事はキリスト教会では、磔刑[たっけい]の3日後に復活したイエスの予型(タイポロジー)と考えられました。

 《ヨナ》[図4]を《ゼカリア》[図3]と比べると、体全体がひとまわり大きくなり、ポーズもダイナミックになっています。《ゼカリア》が椅子に行儀よく座っているのに対して、《ヨナ》は上半身を大きく傾け、右足は宙に浮かせています。彼は天の神に向けて、悔悛の思いを必死に伝えようとしているようです。ここには明らかに《ゼカリア》にはないヘレニズム的な表現が見て取れます。そしてその特徴はまさに《ラオコオン》[図5]に由来しているように思われるのです。

[図5]《ラオコオン》 BC.40-20年頃(原作:BC.170-159年頃) ローマ ヴァティカン美術館

 ヨナの下半身の動きはラオコオン像をなぞったようであり、預言者とは思えない筋骨隆々な上半身、そして感情を明確に表出している点もラオコオンを強く想起させます。頭部のひねり方や表情はラオコオンよりも彼の息子に近いようにみえます。

[図4]の細部(左)と[図5]の細部(右)
[図4]の細部(左)と《ラオコオン》の細部(右)

預言者像に見る様式の変化

 他の預言者像を見てみると、入口側に置かれた《ヨエル》と中央付近の《エゼキエル》[図6]は《ゼカリア》[図3]よりもやや動きを感じさせるものの、全体的には安定したポーズを取っており、クラシック的な表現と言えるでしょう。

[図6]ミケランジェロ 《エゼキエル》 1511年8月以前

ところが祭壇側の《ダニエル》[図7]になると像そのものの大きさが明確に大きくなり、より逞しい四肢を大胆に動かしていることがわかります。衣に施されている色彩も、緑色の生地が右膝付近では黄色に変化するといった新しい手法を用いています。

[図7]ミケランジェロ 《ダニエル》 1511年8月以後

 1511年8月14日に公開されたのは、ヴァザーリ(1550年)によると「半分ほど」ということですが、正確にはどこまで描き終わっていたのかはわかっていません。ただ下絵の転写法が《エヴァの創造》と《アダムの創造》で異なることから、《エヴァの創造》の区画までが完成したところで公開されたのであろうと考えられています([図2]参照)。そうなると《エゼキエル》は第二段階で《ダニエル》は第三段階ということになります。

 7人の預言者全体で見てみると、第一・第二段階で表された《ゼカリア》[図3]、《ヨエル》、《イザヤ》、《エゼキエル》[図6]の4人と、第三段階で表された《ダニエル》[図7]、《エレミア》、《ヨナ》[図4]の3人は像全体の大きさや感情表現、ポーズといった点で明らかに様式が異なっていることがわかります。おそらくミケランジェロは第二段階を描き終えて自身の壁画を初めて床から見上げた時、視点と作品との途方もない間隔に驚いたのではないでしょうか。自分の描いた壁画が想定していたイメージよりも、はるかに迫力に欠けていると痛感したのだと思います。そして残りの半分の区画では、人物像をより大きく描き、その動きや表情を今まで以上に明確に示す必要性を感じ取ったのでしょう。

 その際に彼がすぐさま思いついたのが、5年前に発掘された《ラオコオン》[図5]であったに違いありません。したがって、教皇からの要請によって壁画が一旦公開された1511年8月は、第二段階と第三段階の境目というだけでなく、クラシック的表現とヘレニズム的表現の分岐点と定めることができるのです。

ペンデンティヴに描かれた壁画の比較

 物語場面において前期と後期の様式上の違いを明確に把握できるのは、天井の四隅に描かれた壁画でしょう。入口の真上で《ゼカリア》[図3]の左側に描かれている《ユディトとホロフェルネス》[図8]では、旧約聖書続編『ユディト記』に記された物語を表しています。

[図8]ミケランジェロ 《ユディトとホロフェルネス》 1508-09年

 ユダヤの町ベトリアがアッシリア軍によって包囲された時、美しき寡婦ユディトは敵の大将ホロフェルネスのところに赴き、彼に仕えることを申し出ます。そして敵陣に受け入れられた4日目、ユディトは招かれた酒宴の席で泥酔したホロフェルネスの首を斬り落とし、それを侍女に持たせて町に帰還しました。このことに勇気づけられたベトリアの人たちは、見事にアッシリア軍を駆逐することに成功したのです。

 この壁画では画面中央でユディトは背を向けながら、侍女にホロフェルネスの首を持たせています。そして画面右の室内ではホロフェルネスの遺体がベッドに横たわり、反対側では見張りの兵士が居眠りしています。美しい寡婦が女性としての魅力を利用して敵の大将をかどわかし、その首を斬るという非常にドラマティックなエピソードであるにもかかわらず、ミケランジェロは人物像の動きや感情表現を最小限に留め、全体のバランスを取ることに重きを置いています。その特徴は隣接している《ゼカリヤ》[図3]同様、クラシック的と言えるでしょう。

 一方、祭壇の真上で《ヨナ》[図4]の左側に位置する《ハマンの懲罰》[図 9]では、3つの場面を同一画面上に表す「異時同図法」が採用されています。

[図9]ミケランジェロ 《ハマンの懲罰》 1512年

旧約聖書続編の『エステル記』によると、アルタクセルクセス王の治めるペルシャでは多くのユダヤ人が暮らしており、その一人であるモルデカイは王の側近として働いていました。やはり王の側近として従事していたハマンは自分の言うことに従わないモルデカイを嫌い、ユダヤ人全体を殺戮する計画を立てます。

 ある夜、眠ることができなかった王は家来に日記を読ませるのですが、そこには王の殺害をモルデカイが未然に防いだことが記されていたため、王は褒美として立派な服をモルデカイに贈るようにハマンに命じます(画面右奥)。そのため彼は渋々、王からの贈り物をモルデカイのもとに持ってきます(画面右手前)。一方、モルデカイの姪であったエステルはその美貌により王に気に入られ、ユダヤ人であることを明かすことなく王妃になります。彼女は叔父からハマンがユダヤ人殲滅を計画していることを知らされ、王とハマンを宴に招き、その時に彼の計画を王に報告します(画面左)。その結果、ハマンはモルデカイを処刑するために用意していた処刑場で、自身が磔になってしまったのです(画面中央)。

 刑に処されているハマンの逞しい肉体や、両腕を大きく伸ばしたダイナミックなポーズ、苦悩に満ちた表情は、すぐさま《ラオコオン》を想起させます。ここでは画面の安定性よりも、聖書に記されたエピソードをできるだけドラマティックに表現することを優先させているように思われます。そのヘレニズム的な表現は隣接する《ヨナ》[図4]と共通します。

[図9]の細部(左)と[図5]の細部(右)

 今回、預言者像やペンデンティヴの壁画で見た異なる2つの表現は、有名な『創世記』連作でも認めることができるのでしょうか。そのあたりのことを次回、検証していくことにしましょう。