存在感を増すテイチ

 テイチは大正五(1916)年に船を持てない漁家の次・三男といった余剰労働力の受け皿として発足しました。そのためテイチは「船を持っていない奴らが、寄って集って働く場所」として位置づけられてきたといいます。

 現在のテイチの船に乗って驚くのは、乗組員の多くが都会からの若い移住者であることです。しかしこうした傾向は、今にはじまったことではありません。大浦共有の働き場としてはじまったテイチは、遠洋漁業の衰退によって移動を強いられた者、余儀なく都会から出戻った者、職を失った者、定年退職後の再就職先を探す者など、大浦に関わる人びとが何らかの事情で働く場が必要となったとき、彼らを分け隔てなく受け入れてきました。その延長線上に、現在の鴨川の大波を求めてやって来たサーファーや都会からの移住者の受け入れもあるのです。

定置網漁

 現在のテイチは全国からの視察が絶えないほど高い技術を有する関東随一の定置網漁集団です。その技術によって創出される豊かな漁場は、「大浦に行けばいつもいい魚がある」と南房総各地から流通業者を集め、彼らが競り合うことで大浦の魚価は安定します。つまりテイチは、振れ幅の大きい市場変動の影響を和らげ、大浦漁家の生計を下支えする役割も果たしているのです。

セリの様子

 テイチの業務に同行すると、漁労とは直接的に結びつかない仕事が実に多いことに気づきます。テイチの通常業務のひとつに、しめ縄作りと奉納、参道の補修・清掃といった宮管理があります。大浦の氏神である八雲神社のしめ縄作りや管理業務はかつてはその氏子が担ってきましたが、高齢化や人手不足を理由に1980年代からテイチに移行したといいます。それを皮切りに、大浦の「神様ごと」の多くは徐々にテイチによって担われるようになってきました。他にも毎日の港湾の清掃や水難救助、市役所から依頼される遊泳区域を示すロープ張り等もテイチの業務になっています。

社にしめ縄をつけるテイチのメンバー達

 テイチは災害時にも大きな役割を果たしており、近年最大の自然災害であった令和元年の房総半島台風の際には、港湾機能の復旧活動に従事したのはもちろん、被災した独居老人宅の清掃活動にも勤(いそ)しみました。このようにテイチは、単なる漁組のひとつではなく、外部条件の変化やムラの内部で生じる様々な生活課題に対応する生活保障のしくみであり、大浦の人びとにとって「これだけはなくしてはならない」という存在なのです。

湯原の事例

 次にご紹介するのは、宮城県の南西に位置する七ヶ宿町湯原(しちがしゅくまちゆのはら)です。七ヶ宿という名が示すように、江戸期には参勤交代にも使われた羽州街道と奥州街道を結ぶ七つの宿場町のひとつとして栄えた地域ですが、1905年に奥羽本線が開通して七ヶ宿が主要交通網から外れて以降、その生業は養蚕や製炭へと移っていきました。とりわけ製炭業は活況を呈し、1940年頃には県下一の製炭生産量を誇っていましたが、戦後の燃料革命以降は衰退し、一時は5000人を超えていた人口も七ヶ宿町全体で1263人(2022年4月現在)となっています。

 湯原を歩くと改めて、高齢者や空き家が多いことに気づかされます。2018年6月現在で、湯原の居住人口の約半数(45.5%)が65歳以上、三分の一が80歳以上であり、また、102の家屋のうち22戸が空き家となっています。

 こうしたデータからのみ判断すれば、湯原は社会的共同生活が困難とされる「限界集落(人口の50%以上が65歳以上)」の条件をほぼ満たしています。にもかかわらず、湯原の人びとの言動に限界集落という言葉から連想されるような絶望感はありませんし、社会的共同生活が滞ったという話も聞きません。湯原の人びとはこの地で生活し続けるために、どのようなしくみを築いているのでしょうか。

 湯原における最大の生活課題は宮城県下有数の降雪量から生じる除雪問題です。具体的には「小型除雪機を使って一時間の軒下の雪かき」が必須の日課であり、もしもこの日課を実施できなかった/できなくなった場合、屋根や軒先に落ちた雪と屋根に積もった雪がつながって柱のように凍り付き、最終的には家全体が雪氷の壁に覆い隠されてしまうのです。

湯原で暮らすためには日々の除雪作業が必須となる

 そのため湯原では、軒先を覆う雪氷の壁を破壊し、屋内に光を入れ、軒先に新たに雪を落とす空間を作り出す作業を「軒先を空ける」と呼び、通常の「雪かき」とは区別しています。軒先を空けるには、軒先や屋根の上に登り、雪氷をスコップやハンマーなどで破壊する必要があり、重機を使用できない手作業となるため、身体機能が低下した年配者などには難しく、危険な作業となります。

仲間集団「スノーフィールズ」

 こうした自宅の除雪は各戸の家族労力によって担われることが現在でも基本となっています。しかし、1990年代の後半になると近隣に他出子(=家を出て暮らす子供)も親類もいない独居老人宅、つまり私的領域の問題を家族労力のみで解決できない家が出現するようになりました。そこで、1998年に、湯原に暮らす若い男性の有志8名が村内ボランティア組織「湯原スノーフィールズ」を結成し、家族労力のみで除雪できない家の除雪を無償で引き受けるようになりました。ところが、思いも寄らない問題によってこの活動は頓挫してしてしまいます。

 その問題とは、軒先を空けるという重労働への「お返し」でした。「お返しはいらない」と伝えても、飲食物や金銭など、様々な形でお返しが戻って来てしまうのです。しかも、「あの家がこれくらいなら、うちはこれくらいしないと」といって豪華な夕食が準備されるなど、お返しはどんどん高騰していきました。その結果、スノーフィールズの活動は、「迷惑をかけてしまうから、頼む方も頼まれる方も遠慮するように」なり、機能不全に陥ってしまったのです。

 こうした事態の背景にあるのは、ムラの助け合いにおける論理です。佐久間政広によると、「村内の共同」には、ムラの公的領域に関わる「むら仕事の共同」と家々の私的領域に関わる「ゆいの共同」の二つがあり、それぞれは現代の農山漁村においてもしっかりと区分されています。大浦のテイチの活動は前者に、湯原における各戸の除雪は後者に該当します。

 「ゆい」は農村社会に古くから見られる家同士の助け合いのしくみです。たとえば田植えや稲刈りのように短期間で集中的な労働力を必要とする際に、複数の農家が労働力を出し合い、順番に各戸の作業をしていくのです。重要なのは「ゆい」は労働力の「貸し借り」であり、ある家に助けてもらったら次はその家を助けなければいけないということ。

 ムラではどんなことでも助けてもらえるというイメージがあるかもしれませんが、決してそんなことはありません。私的空間に関わる事柄は「give and take」が原則なのです。だからこそ、雪かきという労働に対してお返しが発生し、仮にその受け取りを拒否すれば、それはその家を「一軒前」として認めないこと意味してしまうのです。

 この問題を解決するためにスノーフィールズが目を付けたのが、2006年から七ヶ宿町が実施した「雪害対策政策」でした。スノーフィールズのメンバーらはこの政策による補助金の受け皿として「湯原雪害対策委員会」を立ち上げ、除雪作業を有償化(1時間2,000円、80歳以上は1時間1,000円)しました。こうすることで、軒先を空けることへのお返しを「少額の金銭」に限定してお返しの「高騰」を防ぎつつ、その家の尊厳を守ろうと考えたのです。「おばあちゃん。町から補助金が出てっけら、お返しはいらねんだあ。不足分の千円だけもらえますかい」といったように話すことで、「ゆい」の原理に背くことなく、自宅の除雪をヨソの人が助けることを可能としたのです。