「相対」と「絶対」

 西田幾多郎の「絶対無」という概念について、正面から考えてみましょう。「絶対」と「無」とにわけて、考えてみたいと思います。まずは、「絶対」から。

 「絶対」の反対語は、「相対」です。でも、そもそも、この「絶対」と「相対」という概念の対立自体が、おかしな関係なのです。だって、「相対」という言葉は、何かと何かが「相対立(あいたいりつ)している」というわけですから、「対立」や「対概念」といった意味を、その本質としています。「二項対立」や「反対」や「肯定・否定」といった関係が、この「相対」という概念のなかに入っているというわけです。

 それに対して、「絶対」は、「対を絶している」のですから、「対立」や「相対」というあり方とは、まったく異なるものです。そうなると、「相対」と「絶対」とが対概念だというのは、「対立し対をなすもの」と「対立や対をなさないもの」との対立というわけですから、おかしなことになります。「絶対」は、この「相対」的関係のなかには、決して入ってはいけないはずですから。「絶対」が対立しては、まずいでしょう。つまり、「相対」と「絶対」の対立自体が、「相対」的なあり方なのに、そのなかに「絶対」という決して「対をなさないもの」が入りこんでいるという変なことになっているわけです。

 ですので、「相対」と「絶対」というふたつの概念は、その概念自体の意味から考えれば、本来は、二項対立などできません。そもそも対立できない概念対なのです。いわば「対立」というあり方は決して構成できない概念同士だと言えるでしょう。

 そうすると、「相対」と「絶対」という概念は、意味の上では、たしかに反対の意味ということになっていますが、ただ、その関係は、通常の反対語とは異なり、決して対立できないという意味での「反対語」だと言うことになります。「女性」と「男性」や「動物」と「植物」、「右」と「左」といった通常の反対語とはまったく異なり、同じ平面に対立するふたつのものを並べて、このふたつは反対ですよね、とは言えないのです。同じ平面には、「絶対」と「相対」とを並べることはできない。そうです、「絶対」と「相対」というふたつの概念は、前回お話した「表裏」をなしているのです。

 たしかに意味としては対立しているのですが、しかし、全くちがう世界を構成しているから、決してであうことのないふたつの概念が、「絶対」と「相対」といえるでしょう。「相対」が「表」の世界だとすれば、「絶対」はその「裏」に貼りついている。しかし、「表」の世界に現れることは決してない。「絶対」は「相対」には、絶対になれないからです。表裏「一体」ではあるけれども、「地続きではない」対概念だということになるでしょう。

この世界に「絶対」はない

 われわれは、どんなものでも認識するときには、それを分節化して認識します。たとえば、「机」を認識する(例えば見る)ためには、机以外のものと対立させて、「机」を浮かび上がらせる(分節化する)必要があります。「机を机として」見るためには、「机以外」を背景にしなければなりません。

 もし、「机以外」が存在しなければ、「机」そのものも認識したり見たりすることはできないでしょう。そのような事態になってしまうと、「机」=「存在全体」になるということですから、「机」という対象や概念そのものを把握したり認識したりすることは決してできないからです。そして、この分節化は、もちろん二項対立をその本質にしています。特定の対象を浮かび上がらせるためには、他のものを否定して、「机」(肯定している対象)と「机以外」(否定している背景)とを二項対立させるからです。

 そうすると、認識し、その認識を基盤に生活しているわれわれは、「相対」の世界に存在していることになります。だからこそわれわれは、言語を使い、その言語による世界認識を共有することにより、生きているということになります。言語は、まさに「否定」という二項対立を成りたたせる根源から出発している働きであり、道具であり、存在だからです。

 このように考えると、われわれ人間は、「相対的世界」に生きている。つまり、「表」の世界に生きているということになるでしょう。そして、われわれの認識の及ばない「絶対」の世界は、そのわれわれの生きている世界の「裏面」をなしているということになります。もちろん、その「裏面」へは、われわれ相対的な人間たちは、決していくことができない。われわれの「表」の世界と「表裏一体」をなしているはずなのに、<絶対に>、そこ(「裏の世界」)へ反転することはできないということになるでしょう。

「存在」と「無」

 さて、つぎに「無」の概念を考えてみましょう。これは、前にも確認したと思いますが、この世界には、どこにも「無」は登場しません。われわれの生きている世界のなかで、全く何も無い状態を見つけることは、不可能だと思います。ベルクソンの「無」に対する批判にもありましたように、「無」は言葉だけの存在なのです。どこにも「無」はない。この世界は、存在に満ちみちています。この「存在充満」の反対を「考えてみた」結果でてきたのが、「無」という概念だと言えるでしょう。われわれに、その反対を考える習慣(?)があるからこそ、でてきた概念だと言えるでしょう。言語(否定の働き)をもっているからこそ、想定してしまう概念なのです。

 この世界には、「存在」しかない。その世界全体(この「全体」という概念も、かなり曲者ですが)に対立するのが、「無」ということになるでしょう。この「無」は、言葉だけのものなので、どこかに(空間のなかに)存在しているわけではない。以前のこの連載で引用しました「純粋存在と純粋無は同じものである」というヘーゲルの言葉も、このことを言っていると思います。

 私の解釈ですと、この言葉は、「存在全体」と「無」とが「表裏一体」をなしていることを表現しています。存在の領域には、無は一切登場しない。しかし、存在そのものの対立概念として「無」というのが、もしあるのだとすれば(あるいは、言葉としてだけの「無」の場所を想定できるのだとすれば)、それは、「存在全体」(純粋存在)の裏面にべたっと貼りついているのではないか。だから、ある意味で、「存在」と「無」は、表裏一体をなした同じものなのだ、といった意味ではないでしょうか。 

絶対無の場所

 さて、われわれが、生きているのは、存在の世界です。われわれが日々暮らしているこの領域は、存在で満ちみちています。そうなると、われわれは、存在の世界にいながら、その「裏面」である「無」に支えられている(というよりも、「貼りつけられている」?)ということになるでしょう。われわれが、「相対」の世界にいながら、その裏に「絶対」が、貼りついているのとまったく同じ構造だと言えるでしょう。

 そして西田幾多郎の「絶対無」という概念は、いま説明したような「絶対」と「無」という概念が、くっついたものなので、われわれの世界(相対的で存在に満ちみちた世界)の「裏面」に貼りついている世界(場所)のことを表現しているということができるでしょう。これが、西田の「絶対無」だと思います。

 西田は、最晩年の著作で、大塔国師の「億劫相別、而須臾不離、尽日相対、而刹那不対」という言葉をよく引用していました。これは、「億劫(おくごう)相別(あいわか)れて須臾(しゅゆ)も離れず、尽日(じんじつ)相対(あいたい)して刹那(せつな)も対(つい)せず」(永遠もの長い時間わかれていても、一瞬も離れてはいない。一日ずっと向かい合っているのに、一刹那も向かい合ってはいない)という意味です。この言葉は、まさに、今回説明した「相対」と「絶対」、「存在」と「無」との「表裏一体」の関係を表したものだと言えるでしょう。