西田幾多郎という哲学者

 われわれは、とても不思議なことに、ルールブックなしで、この世界で生きています。この世界に生れても、この世界のルールについては、ほんの少しも教えられません。何もわからずに八〇年前後、この世界で生き、あっという間に向こうの世界に旅立ちます。とてつもなく面倒なゲームを、毎日苦労しながらしているのに、そのゲームのルールも、それにゲームの意味もわからず生きていく。かなり寛容な(?)私も、これではさすがに納得できない。だから、まあ、こういう仕事を、飽きもせずにやっているわけですが。

 たしかに、自然科学の研究をすれば、物理的世界のもろもろの法則は、わかってくるかもしれません。相対性理論や量子論、超ひも理論に多世界解釈などなど。それも、もちろんものすごく興味深いし、私も大好きなのですが、でも「本当に知りたいこと」って、そこじゃない。もっと、根本的なこと、つまり本当のことを知りたいわけです。

 そういう欲求に、西田なら、もしかしたら応えてくれるかもしれない、と思ってしまうところがあります。それが、ほかの(西洋も東洋も含めた)哲学者とは、はっきり異なる点だと思います。ひじょうに不思議な印象なのですが、西田幾多郎という人は、哲学者という人種のなかでは、ただ一人、この「本当に知りたいこと」を教えてくれそうなのです。なぜそう思うのか。その理由は、わかりません。もしかしたら、ただの錯覚かも知れません。ただ私にとって、西田という哲学者は、そういう意味で、このうえなく特別な人なのです。

「絶対無」ふたたび―「超越的述語面」

 さて、その西田の「場所」という概念に戻りましょう。前回は、「絶対無の場所」が、われわれの世界(相対的世界)の裏側に貼りついているといったお話でした。私たちが存在しているこの世界には、決して登場しない<絶対>であり、<無>でもある場所が、裏面にある(といっても、<存在-無>の二項対立以前としての「ある」)ということでした。今回は、そのような「裏面」と、われわれが生きているこの世界(「表面」)との関係を考えてみたいと思います。

 最初に図式的に説明していきます。西田のいう「絶対無」は、二種類あります。西田の言葉を使えば、「超越的述語面」と「超越的主語面」というふたつです。ようするに、主語側と述語側に、それぞれ底知れない「絶対無」が、貼りついている(底ぬけている=世界から超越している)というわけです。

 私たちが、「AはBである」というとき、主語であるAは、述語であるBに包摂されています。ようするに、Aの集合が、Bの集合に含まれているというわけです。例えば「ハチは、犬である」という文における「ハチ」は、犬の集合に含まれています。あるいは、「犬は、哺乳類である」という文も、同じように、「犬」の集合は、「哺乳類」の集合に含まれています。どのレベルでも、この「AはBである」という言い方をするときには、かならず、Bの集合の方が大きく、Aの集合は、それに含まれることになります。

 このような包摂関係を、包摂する方に(Bの方向に)、最大限の集合にまで拡大すると、すべての世界の存在の集合を包みこむ集合が登場します。ただ、この「最大限の集合」は、存在(つまり、相対)の領域には、ありません。なぜなら、その「最大限の集合」が存在の領域にあれば、その「最大限の集合」に対して「より大きい」という相対的な関係が、かならずでてくるからです。つまり、「より大きい」(=「最大限の集合」をも包摂する)集合が、かならず存在することになるのです。

 そうなると、すべての存在(相対的世界のあらゆる存在者)を包摂する最も大きい集合は、存在(つまり相対)の領域とは関係のないものでなければなりません。そうです。「絶対無」の領域(もう「領域」という相対的で存在を前提する言い方はできませんが)になければならないのです。相対的な存在の領域にあるすべてを包摂する集合は、その裏面が「絶対無の場所」でなければなりません。すべてを包摂する集合そのものが、そのまま絶対無へと裏返るようなものでなければならないのです。存在と絶対無が、表裏をなしているから、このような構造が可能になるのです。これが、西田のいう「超越的述語面」です。

「超越的主語面」

 さて、そのような「絶対無の場所」が裏面に貼りついてる「相対的存在の世界」に、今度は、目を向けてみましょう。ようするに、われわれが生きているこの世界内部です。誰でも知っているように、この世界内部に存在してるもの(ハイデガーの用語を使えば「存在者」)は、限りなくあります。この無数の存在者に着目してみましょう。

 さっきも例にだした「ハチ」に戻ってみましょう。犬のハチです。私の生家では、私が小さい頃から犬を飼っていました。その犬は、私が高校の時に亡くなった(結構長生き)のですが、かりにその犬の名前を「ハチ」だったということにします(本犬の許可を得ていないので、仮名でいきます)。

 つまり、世界の歴史上、未来永劫も含めて、ただ一匹だけ、ただ一時期に、九州の最西端に生きていた犬のことです。唯一無二の個体です。アリストテレスの「基体」(第一実体)と言っていいかもしれません。アリストテレスのこの概念の定義は、「主語になって述語にならないもの」なのですから。「ハチ」という固有名についての無限の述語は、どんどんでてくるでしょう。「ハチは、動物である」「ハチは、哺乳類である」「ハチは、食肉目・イヌ科・イヌ属である」「ハチは、九州生れである」「ハチは、20世紀に生きた犬である」「ハチは、スピッツである」「ハチは、白い犬である」などなど、以下無限。

 ところが、「Aは、ハチです」という文は、「A」に「ハチ」という固有名詞を入れる時(つまり、同語反復)以外は、成りたちません。「ハチ」は、どうしても主語にしかならないのです。そして、よく考えると、この世界内部にいる存在者は、それぞれ、この「ハチ」と同じ存在者なのです。つまり、すべての存在者は、唯一無二の「基体」(第一実体)なのです。ここから「超越的主語面」がでてきます。

 すべての存在者(唯一無二の個物)は、こうして無限の述語(属性)が、たっぷりたたみこまれています。そうなると、この世界のなかにあるすべての存在者は、それぞれに無限がたたみこまれていることになります。ひとつの個物を、この世界で完全に説明するためには、無限の述語が必要になるからです。これでは、いつまでたっても、個々の事物を、この存在の世界で、有限で相対的な存在者として特定することができないということになるでしょう。

 こうして、この世界の存在者は、無限の属性をもっているということから、それぞれが存在している特定の場所で、「絶対無の場所」へと超越(底抜け)していくことになります。この世界のなかにあるすべての存在者は、唯一無二の個別の存在なのですから、それぞれの個々のものが、「絶対無の場所」へと反転していくことになります。これが、「超越的主語面」という概念です。

 さらにこの無限を含有している(=結局、含有できてはいない)唯一無二の個物は、それぞれが、時間の流れのなかで、生成消滅しながら変容していっています。そうなると、その瞬間瞬間の状態もまた、それぞれが異なった属性として、その個物の述語に加わっていくのですから、さらに複雑に錯綜した唯一無二性が生成しつづけていると言えるでしょう。唯一無二の個物はそのままで、「絶対無の場所」に接触しているのですが、それがさらに生成消滅していることにより、その瞬間瞬間、あらたな個物として「絶対無の場所」への反転が起こっていることになるでしょう。 

われわれの世界と「絶対無の場所」

 最後に、「超越的述語面」と「超越的主語面」について、まとめてみたいと思います。構造としては、存在の世界(われわれが生きているこの世界)の裏面に「絶対無の場所」が貼りついている。存在そのもの(「存在-無の二項対立」そのもの)を成立させている場所が、こちら側(表面)には決して現れることなく、「存在-無の二項対立以前の場所」として、あちら側(裏面)にある。

 しかし、同時に、この世界内部(こちら側)の個々の存在者も、その性質の無限をみずからにたたみこむことができずに、個々の個物の底から、それぞれ「絶対無の場所」(あちら側)へと抜けていく(内側から超越していく)。そうなると、われわれの存在の世界は、外側にも、内側にも、「絶対無」が貼りついていることになります。あるいは、このような二重の反転構造になっているのですから、われわれのこの世界(存在の世界)が、そのまま「絶対無の場所」だと言えるかも知れません。なにせ、「表裏一体」なのですから。

 機会があれば、西田の時間についての考えについては、もっとべつの角度から、お話したいと思います。今回は、とくに最後のあたりは、少し突っ走りすぎたかもしれません。

 次回は、マルクス・ガブリエルと西田の比較をしながら、もっとゆっくりお話しします。