「左右」「上下」「前後」ということ

 今回は、「絶対無」という概念を説明するために、「表裏」という概念を手がかりにしたいと思います。「表裏」という関係は、とても面白く、ほかのさまざまなわかりやすい二項の関係とは異なっています。たとえば、右と左。この関係は、中心さえ決めれば、同時に同じ平面で存在します。右手と左手を見るときのように、自分の胴体を中心にすれば、同時に、右(手)と左(手)を見ることができます。上と下は、どうでしょう。これも、二階建ての家を見ながら、二階を上、一階を下と言えますし、一人の人間を見ながら、頭を上、脚の先端を下と言えます。同時に「上下」を見ることができます。

 前と後(うしろ)はどうでしょう。これは、すこし厄介ですね。たしかに、目の前にある自動車の前と後というように、ある対象を決めて、その対象の前面と後ろの面という言い方はできます。これだと、左右、上下と変わりません。ただ、その場合でも、本来の「前面」(前)や「後面」(後)は、自動車の運転席に乗っている人にとっての「前面」であり、「後面」なはずです。したがって、自動車を横から見ながら、「前後」と言っているときには、われわれは、自分が自動車に乗っていることを想定して「前後」と言っていることになるでしょう。「前後」という概念の起源をたどれば、それは、自分自身の「前面」であり「後面」(「背面」)だからです。つまり、「前後」という概念には、人間の視点が、原理的に関係していると言えるでしょう。

 しかし、それを言えば、左右も上下も同じかも知れません。自分を中心にした「左右」ですし、自分から見た「上下」だからです。視点は、いつも自分を中心にしています。ただ、視点そのものが、二項対立の片方だけに偏っているのは、「前後」だけの特徴だと思います。われわれの視点は、つねに「前」を向いているからです。

 とにかく前々から不思議なのは、われわれ(おそらくすべての存在)の構造が、前面だけに向かっているということです。理由は、わかりません。視覚が一番わかりやすいですし、おそらく「前後」という概念には、視覚が深くかかわっているので、視覚を例にとりましょう。なぜ、われわれは、前だけを見ているのでしょうか。同時に、後面(背面)も見ることができるような構造に、なぜなっていないのでしょうか。

 いやいや、この問自体がおかしいのかも知れません。「前しか見ることができない(後ろを見ることはできない)」から、「前」という概念ができたのかも知れないからです。視覚と前とは、同時発生の概念なのではないでしょうか。おそらくそうでしょう。そうすると、「眼の前」という言い方の「眼」と「前」とは、決して切りはなすことができないということになります。つまり、「眼は前」なのです。

 このように考えれば、われわれが前しか見ることができないのは、構造的にそうなっているからではなく、概念的に(概念の成り立ちからして)そうなっていたのだということになります。そうなると、おかしなことになります。われわれは、「後ろを見る」ことができなくなります。なぜなら、「見る」のは、「前」だけだからです。

 でも、よく考えると、「後ろを見る」というのが、おかしな言い方であることはすぐわかります。なぜなら、「後ろを見る」という言い方のなかの「後ろ」は、本当の「後ろ」ではないからです。それは、一瞬前の「後ろ」です。一瞬前に「前」を見ていた(これは、必然的かつ概念的な構造)ときに「後ろ」だった「背面」を、そのとき、振り返って(そこにタイムラグが生じる)見ている(前を見ている)からです。つまり、「後ろを見る」というのは、一瞬前の「後ろ」を、一瞬後に「見る」(そして、それは、かならず「前を見る」)という行為のことを言っていることになります。われわれは、どんなに頑張っても「前しか見ることはできない」のですから。

 このように考えると、「前後」を確認するためには、「左右」「上下」とは異なり、一定のタイムラグが必要だということになります。しかし、もし、この「タイムラグ」を認めないのであれば、「前後」という概念は、同時に同じ地平では、決して成立しない(両立しない)概念だということになります。理由は、われわれは、原理的に前しか見ることはできないから、ということになります。ようするに、「前」と「後ろ」は、意味としては、対立している(かつ、絶対に双方を必要としている)のですが、同時に確認することはできない概念だと言えるでしょう。「前」があれば、かならず「後ろ」があるのですから、ふたつの概念は、同時に成立しているはずなのですが、それを同時に確認できる地平はない。つまり、われわれには、つねに「前しかない」ということになるでしょう。

 これは、まあ「視覚偏重」による説明かも知れませんが、ただ、やっぱり、「視覚偏重」になるだけの構造をわれわれがもっているというのは、たしかなことだと思います。 

「表」と「裏」

 さて、「表裏」について考えてみましょう。「表」と「裏」もまた、「前後」と同じように、絶対に分離することはできません。「表」があれば「裏」があり、「裏」があれば、かならず「表」があります。たしかに一枚の紙や、一箇のコインであれば、その「裏」と「表」を、われわれは、ひっくり返して見ることができます。でも、同時には、無理でしょう。表と裏を同時に見ることは絶対できないのです。これもまた、「前後」と同じように、タイムラグが必要です。

 でも、表裏に関しては、メビウスの帯があります、メビウスの帯は、表がいつの間にか裏になり、裏がそのままで表に反転します。これだと、「表裏」は存在しなくなるのではないでしょうか。「表=裏」なのですから。ただ、メビウスの帯であっても、特定の一部分の表裏は、決して同時に見ることはできません。ある部分の表に着目しているとき、その部分の裏は、表と同じ地平には、存在できません。したがって、メビウスの帯のように、表が裏になり、裏が表になるのも、ある意味で、タイムラグが必要だということになります。「表」と「裏」は、同時には成りたっていないのです。

 それでいて、この「表」と「裏」は、絶対的な近さのうちに共存しています。「表」から「裏」へ、「裏」から「表」へは、決して行くことはできないし、同じ地平には、同時に登場することは、まったくありえない。ところが、それなのに、最も近い「表裏」をなしている。絶対的に隔絶しながら、絶対的に近接している。最も近く、最も遠い。これが、「表裏」という不可思議な関係の本質的構造です。 

「表」の場所と「裏」の場所

 さて、少し思考実験をしてみましょう、われわれは、「表」の世界に存在していると考えるのです。例えば、一枚の紙の上(表)に、すべての存在があると想定してみましょう。その紙は、無限に拡がっています。紙は、その世界の背景になっています。そして、その世界にはすべてのものがあります。全存在があり、その存在の関係も何もかも、あらゆるものがあります。右も左も、上も下も、前も後ろも、あらゆる二項対立が揃っています。存在しているものもあれば、その存在が無い時もあります。存在と存在しない(相対無)状態が、対立しているというわけです。あらゆる存在がある世界。つまり、これは、まさしくわれわれのこの世界そのものだということになります。これが、西田のいう存在の場所です。ビッグバン以来のこの宇宙があり、その宇宙を包摂する「相対無」という意識をも含めた存在の場所だと言えるでしょう。

 そして、仮定したように、われわれが存在しているこの世界を、「表」の場所だと考えてみましょう。この「表」の場所は、二項対立によってできあがっていて、矛盾は、成立しません。つまり、矛盾を禁止する矛盾律が成りたっている世界です。

 二項対立が、きちんと成りたち、矛盾は排除されている世界。それがわれわれがいる世界(「表」の場所)だということになります。だからこそ、存在と無という二項対立も成りたっていますし、「存在しているのに、同時に無い」という状態は、決して現れません。

「絶対無」の要請

 しかし、そのような世界(「表」の場所)が成立していると考えれば、ただちに、その世界と対立する世界(「裏」の場所)を、どうしてもわれわれは、想定してしまうのではないでしょうか。なにしろ、われわれの世界内部では、二項対立が、根本的な原理として支配しているのですから。あらゆるものが、二項対立している世界が、この「表」の場所だといっても過言ではないのです。ですから、西田自身も、物理的世界(存在の世界)と対立させて、意識を「相対無」として想定したのではないでしょうか。

 つまり、この「表」の世界全体に対立するX(「裏」の場所)を考えてしまうというわけです。しかし、そのような想定は、いくらでも続けていくことができてしまいます。「存在」と「無」(存在の欠如)の二項対立、その二項を包摂した「物理的世界」とその背景である「相対無の場所」(意識)との二項対立。さらに、それらすべてを包摂した「表」の場所と、それに対立するX(「裏」の場所)との二項対立。さらに、それら(「表」の場所と「裏」の場所(X))を包摂したYの場所とYに対立するZの場所との二項対立、……以下同様。

 そこで、西田は、「表」の場所と、それに対立するXの場所(「裏」の場所)との関係で、すべての世界を説明しつくそうとします。つまり、「以下同様」の無限を、「裏」の場所(X)で、シャットアウトしようというわけです。

 そのために要請したのが、「絶対無の場所」という概念だったと言えるでしょう。だから、「絶対無の場所」は、「表」の場所に対する「裏」の場所というわけではありません。もちろん、「表裏」という概念の最も本質的な構造をなしてはいるのですが、ただの二項対立ではないのです。この「裏」は、とんでもない「裏面」なのです。

 結論だけ先に言ってしまうと、この「裏面」は、「相対」と概念的に対立するわけではない「絶対」であり、「存在」と対立するわけではない「無」だということになります。ようするに、この「裏面」は、「表」に対立するわけではない「裏」なのです。

 いやいや謎は、深まるばかりです。次回こそ、「絶対無の場所」の正体を暴きたいと思います。