21世紀はこころの時代?

 前回書いた便所掃除については、「便器を磨くことは、心を磨くことだ」といった教訓が語られることもあるようです。それが日本の、とりわけ仏教の伝統だとされるわけですが、心重視という点で気になるのは、一時期、盛んに語られていた「こころの時代」という言葉です。

 その頃は「21世紀はこころの時代です」と称して、仏教の意義を説いていた人が少なくありませんでした。「心の時代」ではなく、「こころの時代」と平仮名を使っているのは、東洋の伝統というより、日本の伝統なのだということを強調したいためのように見えますね。

 実際、岐阜県仏教会が1988年に刊行した『21世紀はこころの時代 第33回全日本仏教徒岐阜大会 記録』という大判の本の冒頭に掲げられた全日本仏教会理事長、野口善雄氏の「大会を終えて」と称する挨拶文では、この大会を機として仏教徒が「国家的課題であります日本人の「こころ」の問題と取り組み、活動の輪を広め、心豊かな国土実現に邁進されますことを祈念いたす次第であります」と述べています。

 この挨拶文に続いて、全日本仏教協会会長であってこの大会の総裁をつとめた真宗本願寺派第24世の大谷光真門主が「時機を得た大会」、大会名誉会長であった臨済宗の谷耕月老師が「期待に応え責任を果たそう」と題する挨拶を寄せています。

 また、「<こころ>の時代としての21世紀-比較文化の視座から」という特集を組んだ『現代のエスプリ』誌の1994年4月号では、京都大学人文学部教授のカール・B・ベッカー氏の「日本の宗教的思考が21世紀に貢献するもの」というエッセイが掲載されています。むろん、依頼原稿でしょう。この特集の編集担当は、宗教学者である浄土宗僧侶、峰島旭雄氏です。

 峰島氏は、「あとがき」において、1997年に比較思想学会と日本デューイ学会の共催で「<こころ>の時代としての21世紀-比較思想の視座から」をテーマとする国際比較思想会議が開催され、アメリカ・イギリス・中国・韓国・フィリピン・ベトナムからの参加者を得ておこなわれたと述べています。この特集はその成果なのです。

 他にも、20世紀の末から21世紀の初めにかけては、「こころの時代」を題名とする本が多数出されており、「心の時代」と表記した本もありました。「心の時代」をテーマとしたニューアルバム、および同じ名のコンサートツァーと連動して出された、さだまさし氏の『心の時代』(サンマーク出版、1998年)もその一つです。

ブームの始まり

 この「こころの時代」ブームが始まったのは、1980年代の初め頃のようです。中でも話題になったのは、1983年の6月に刊行された木村治美『こころの時代に-私の精神分析入門』(文藝春秋)でしょう。木村氏は同書の「はじめに」では、「ものの時代からこころの時代へといわれて何年かたちます」(1頁)と述べていました。

 その前年4月には、NHKラジオのインタビュー番組「宗教の時間」の題名を変えた「こころの時代」の放送が始まっています。私自身、数年前にこの番組に出演して聖徳太子研究の状況について語った際、チーフディレクターとして最初からこの番組に関わっていた方に番組名についてお聞きしたところ、海外の動向は考慮していなかった由。

 しかし、「こころの時代」という発想はアメリカ由来なのです。アメリカに留学して精神分析を学んだ木村氏は、『こころの時代に』末尾の「女性の自立の問題」という章で、男性優位のモノ尊重の時代が終わったとして、「いまココロの時代がやって来た。モノでは満たされないことに気がつき、女性は違う価値観を持つようになりました」(307頁)と説いていました。アメリカで生まれた動きが日本にも及んできたというのです。

 東洋は精神文明、西洋は物質文明といった対比は近代以前からのものであって、幕末に活躍した佐久間象山が「東洋道徳西洋芸」と述べたことは有名です。しかし、「もの」と「心」を対比させた最初の有名な例は、1893年にシカゴで開催された万国宗教博覧会にほかなりません。

 世界各地から宗教者を招いてこの大会を開催したのは、経済優先がもたらす弊害と宗教心の弱まりに危機感を抱いた進歩的なアメリカのキリスト教徒たちであり、彼らが打ち出した大会テーマは、「Not matter, but mind; not things, but men(物質ではなくて心、物ではなくて人間)」というものでした。

 さらに、ヨーロッパ以上にアメリカで大流行した精神分析は、一般の人々に心への関心をかきたてたのです。そこで学び、現代日本人の心性についてかえりみるようになったのが木村氏でした。木村氏のこの本の序となる「はじめに」は、「こころの時代」を真正面から描いたユニークな本を書くことができたと述べ、「こころの時代に、捧げたいと思います」という言葉で結ばれています。 

便乗する人たち

 この本が出て3ヶ月の11月には、機を見るに敏な臨済宗の説法家、松原哲明氏による『こころの時代 : 今日の仏教・釈尊伝』(アムリタ書房)が刊行されています。これを皮切りとして、「こころの時代」は東洋の伝統、日本の伝統だと思い込んだ仏教界や仏教学界が、自分たちの出番だとして乗り出して来たのです。

 恥ずかしいのは、曹洞宗でも「21世紀はこころの時代」だと触れ回っていた人たちがいたことでしょう。しかし、道元は『正法眼蔵』では「身心一如」と説いていました。「心身」ではなく、常に「身」を先にして「身心」と記されています。何よりも現実の修行、振舞いが重視され、しかも身と心は「一如」であって区別できないことが強調されていました。

 道元は、身と心を対立するものとして心を体より貴いものとみなしたり、心の奥底に「霊知」とか「霊覚」などと呼ばれる清らかで神秘的な心、真の自分の心があるとしたりする宋代仏教の風潮に強く反発していたのです。

 その道元に始まる日本曹洞宗に身を置きつつ「こころの時代」を吹聴していた人たちは、「随処に主となる」という表現も好んで使っていました。これも不見識な話です。「随処作主、立処皆真(随処に主となれば、立処、皆な真なり)」、つまり、どんな状況になっても主体として振る舞えば、自分がいる所はすべて真実のあり方となるというのは、曹洞宗の禅僧の言葉ではなく、臨済宗の祖である臨済義玄の語録に見えるものです。

 この言葉を実践できていればまだ良いですが、国家主義化した戦時中の仏教を批判した市川白弦は、当時、この言葉を振り回して軍国主義を鼓吹(こすい)していた禅僧たちについて、時代の先頭を走って世間をリードしているつもりでいたものの、時代の波に流されていただけであり、実際には「随処に従となる」のみだったと述べています。

 ブームのゆくえ

 「こころの時代」という言葉を盛んに使っていた人たちは、まさにその好例ですね。「21世紀はこころの時代と言われています」などと称してあれこれ述べ立てるのですが、誰が言っているのかを示した人はなく、「21世紀はこころの時代」という言明が正しいのかどうか検証した人もいませんでした。

 その「こころの時代」に関する本で異色なのは、崎山治男氏が著した『「心の時代」と自己-感情社会学の視座』(勁草書房、2005年)です。社会学者である崎山氏は、自らの立場である「感情社会学」は、70年代後半からアメリカを中心にして盛んになっていった学問であり、自己の合理的な面にばかり目を向けていたことに対する反省、また厳密な実験中心主義の心理学から人間行動を把握しようとする学問への変化の中で生まれたと述べています。つまり、こちらもアメリカ由来だったのです。

 NHKの「こころの時代」は現在も放送されており、その内容が本として出版され続けていますが、ほかには「こころの時代」と題する本はほとんど見かけなくなりました。「こころの時代」だとされた21世紀は、もう終わったのでしょうか。