重要文化財となった便所

 前回は「和尚と小僧」の笑話の代表として、一休さん話をとりあげ、モデルとなった一休宗純禅師(1394-1481)にも触れました。その一休は、大応国師(1235-1309)が宋で臨済禅を学んで帰国した後、京都に禅寺として建立した妙勝寺が戦火で失われたこと歎き、寺を復興して晩年はそこで過ごしました。それが一休寺という通称で知られる酬恩庵です。

 この一休寺には一休ゆかりの品が多数伝えられていますが、面白いのは、1650年に再建された東司(とうす)、つまり便所が、古い形式を残しているということで重要文化財に指定されていることでしょう。これは、禅宗では東司での用足しやその掃除を修行の一つとみなし、重視してきたことと関係しています。

 道元(1200-1253)などは、主著である『正法眼蔵』に、東司の設備や使い方について説明した「洗浄」の巻をわざわざ加えているほどです。外国に比べて日本の便所が全般的にきれいなのは、こうした伝統に基づくものですね。

便所掃除の役目

 その東司の掃除については、大澤邦由・劉 勤「禅林の厠掃除-雪隠という美称、及び浄頭職の変遷」(『駒澤大学仏教文学研究』第22号、2019年)が興味深い検討をしています。それによれば、現存最古の禅寺の規範である『禅苑清規(ぜんねんしんぎ)』(1103年頃)が、既に浄頭(じんじゅう)と呼ばれる東司担当の係について述べていました。

 浄頭は、夜明け前に灯りをつけ、日の出に便をぬぐうへらや手を拭く布巾を水に浸し、小便桶をみがき洗い、石鹸のように用いる灰や植物などを補充しておき、朝食後にへらや布巾を洗濯し、晩すぎには湯を沸かして灯りの油を補充するのです。

 これは大変な仕事ですので、戒律にそむく行いをした者に担当させることもあったようです。実際、伝統派の一つである化地部(けちぶ)の戒律、『五分律』巻十七では、罰として「除糞」させるという記述もあります。

 それによると、僧侶になる前の見習い修行者である沙弥(しゃみ)が良からぬことをしたため、僧たちが在家信者の家に招かれて食事をした際にその沙弥を連れて来なかったところ問題となり、釈尊が「絶食させるのは良くない。罰として地を掃除させ、除糞させ、石をかついで運ばせるなど、様々な罰を科すべきだ」と定めたとしています。

 このように罰として作業させることを、中国では「苦使」と呼びました。上記の苦使のうち、「除糞」というのは、室内では壺のようなものの中に用を足して蓋をするため、毎朝、それを戸外に持ち出して捨て、壺を掃除する仕事であって、インドでは下層の労働者が担当していました。それを戒律にそむくような行為をした僧にさせたのです。

 ただ、罰として除糞させるのは、あくまでも一時的なものです。中国における浄頭は、寺の中で僧侶たちがおこなう様々な役目の一つであって、交代で担当していたようです。唐の百丈禅師の古清規(こしんぎ)の精神を復興すべく、『禅苑清規』なども取り入れて元代に編集された『勅修百丈清規(ひゃくじょうしんぎ)』では、この役につく者は、自分から道心を発して担当すると説いています。

 そして交代する際は、寺の管理役が「浄頭が欠けたため、担当したい者は名前を記してください」と書いた小さな張り札を掲げ、担当したい者はその札を手にして管理役のところに言って告げると、住職に報告がなされて新たに任命される由。

 希望者が出ない場合は、管理役が割り当てることになりますが、当然ながら嫌がってしぶしぶやる者、何とかして早く別の役目に移ろうとする者たちもいた反面、修行と受け止め、自ら進んで浄頭を長く務めたことで知られる僧も少なくなかったようです。

 その代表は、雲門宗の法系を継ぎ、宋代禅宗の大勢力となった雪竇重顕(せっちょう じゅうけん)(980-1052)でしょう。雪竇は霊隠寺(りんにんじ)で修行していた際、徳を隠して浄頭をつとめていたため、禅寺の便所のことを雪隠(せっちん)と呼ぶようになったとも言われています。

便所掃除の功徳

 では、唐宋代に禅宗が盛んになる前はどうだったか。唐代には貞観11年(637)に、不品行な道教の道士・女冠(女性道士)や仏教の僧尼を取り締まる法令として「道僧格」が定められましたが、残っていません。ただ、このうちの僧尼に関する規定を日本流に少しだけ変えたのが、「僧尼令」であって、こちらは律令の平安時代の注釈である『令集解(りょうのしゅうげ)』に引用されているため、おおよその内容を知ることができます。

 それによると、不法な行為をした場合、課される苦使は、「修営功徳」「料理仏殿」「灑掃」です。注釈によれば、最初の「修営功徳」のうち「修営」は、経典を書写することや仏像を飾ることを指します。苦使では、このうち特別な技術や資力が無くでもできる写経が主だったようです。

 かつての学校で、「~を何回書きなさい」という罰がおこなわれていましたが、その起源はこの辺りかもしれません。次の「功徳」は諸説あるものの、きちんとした装丁のお経を作ることや鍾を鋳造することのようであって、これには費用がかかります。

 「料理仏殿」の「料理」はクッキングではなく、堂や塔に塗料を塗ることです。そして最後の「灑掃」は、字が示すように、水をまいたり掃除したりすることです。便所の掃除は、これに当たるのでしょうが、注では便所掃除には触れておらず、また以後の資料にも苦使として便所掃除を課したとする記録は見えません。おそらく、なされなかったのでしょう。

 そして、鎌倉時代に禅宗が導入されるようになってから、東司の掃除が修行として位置づけられ、寺の雜務を担当する半僧半俗の者たちなどではなく、修行者が東司の掃除をする習慣が定着していったと思われます。

 現在でも、厳しいことで有名な禅堂の中には、浄頭を務めるのはある程度修行が進んだ者に限られ、入門したばかりで染浄の分別にとらわれている者にはその資格はない、とするところもあると聞いています。また、各地を回って法話をしていた禅宗の某管長がある寺に泊まった際、寺の小僧が真夜中に小用をたしに東司に行くと、その管長が黙々と掃除をしていたため、感激して修行につとめるようになり、後に自らも管長となったという話も耳にしました。

 私が勤務していた駒澤大学でも、初代学長となった忽滑谷快天(ぬかりや かいてん)(1867-1934)は、学生とともに寮に泊まり込み、新入生が入ってくると、自ら雑巾を手にして便器の掃除の仕方を教えたと伝えられています。

 数年前、「トイレの神様」という歌が流行しました。トイレにはべっぴんの女神様がいるから、きれいに掃除すると自分もべっぴんになれるとおばあちゃんが教えてくれたという内容でした。その女神様は、おそらく禅宗生まれでしょう。