――まずは民俗学の起源といいますか、柳田国男が創始したということくらいは私みたいな素人でも知ってはいるんですけど、それが一体どういう学問で、どんないきさつで世に出てきたのか、といったところからお聞かせいただけますか。

 ごく簡単にいうと、民俗学というのはいわゆる庶民の文化、文字ではない文化に関するものですね。文字というのは、昔はある程度教育のある人しか知らなかった。日本の歴史というのは「偉い人」の、いわゆる英雄たちの記録なんですよ。織田信長とか徳川家康といった人たちが日本をつくってきたんだと私たちは習ってきたわけですけども、しかしこの国にはそれだけじゃなく、大多数の文字も知らない人びとがいたわけですよね。

 そういった人たちにもやっぱり歴史があるわけです。たとえ文字は知らなくても、言葉は知っている。相手が話をして、それが自分の耳に入る。口から承るということで、これを「口承文芸」といいますけど、昔話だったり、民謡だったりといったように、口承によってずっと伝わってきた社会があるわけです。

 さらには庶民のお祭りだとか、結婚式、お葬式といった行事は、日本の歴史の中ではほとんど語られていないわけですけれども、大多数の農民、庶民の生活の中にはお正月をはじめとしたいろんな行事があって、さまざまな物語もある。「偉い人」たちだけでなく、庶民たちは庶民たちの歴史を持っているわけなんです。

――言われてみるとその通りですね。

 そういったことは今まで、学校ではあまり習ってこなかったんですよ。歴史の本や教科書というのはそれぞれの時代の権力者、上からの物語がほとんどで、下々の人びとの歴史は無視されてきた。でも、下々の人たちにだって歴史はある。

 たとえば昔話なんていうのは、ほとんどが農民たちのおとぎ話や、いろりのそばで語られてきたようなものがずっと伝わってきた。そういう、口から耳へということでしか伝わってきていないものも日本の文化なんだ。文字ではない庶民の文化、それを勉強しようじゃないかということで、目を付けたのが柳田国男だったわけです。

――なるほど、よくわかりました。

 私はいつも言うんですけども、民俗学っていうのは一番ラクな学問なんです。たとえば考古学というのはやっぱり土をほじくらきゃならない。石を運んだり、大変なんですよ。だけど民俗学はラクなもんで、田舎に行っておじいさんやおばあさんとお酒を飲みなが話を聞いていれば、これが学問になる。誰にだってできます。

――とてもそうは思えませんが……

 昭和20年代の後半というのは、はたしてこれを学問として認めるべきなのかどうかといった雰囲気でした。柳田国男がそれを学問の体系として組み立てたわけですけど、私は今でも抵抗を感じることがあります。「民俗学」っていうふうに名前を付けると非常に堅苦しくなるんですよ。

 元々は「民間伝承」といっていました。語り継がれてきたもの、その中にはいろんな行事もあるわけですね。それが学問に値するかしないかは分からないけれど、日本の歴史を考えてみれば大多数の人は庶民ですから。織田信長や徳川家康だけが日本人じゃないわけで、そういった大多数の庶民の歴史は、語り継がれてきたものを通じて知るしかない。だからそれを記録して、保存していく。そういった草の根の活動ですね。

沖縄との出会い

――先生はもう70年近く沖縄の研究をされているそうですが、沖縄をやることになったきっかけはなんだったんですか。

 ちょっと遠回りになりますけど、柳田国男が古希を迎えたとき、その記念に二つの仕事を計画したんですね。一つは『日本民俗総合語彙』といって日本の特殊な言葉、たとえば結婚式のことを場所によっては「足入れ」というんですけど、そういった土地ごとの行事を表す言葉をまとめてみようという仕事。それともう一つが沖縄の文化を系統立てて勉強しようじゃないかと。

 その頃私はもう学校を出ていたんですが、宮本常一さんじゃないけど放浪癖がありましてね。出身は長崎の山の中でイノシシの出るようなところなんですけど、伊豆七島を勉強していたものですから、八丈島に行ったり、南にある青ヶ島って島に行ったりしてしていました。そしたらある時、柳田国男のところで沖縄をやるんだけども適当な人間はいないかという話があり、不思議な縁で私が行くことになったんです。

――それはいつ頃のお話ですか?

 昭和26年頃ですね。それで沖縄をやることになったんですが、私は何でもよかったんです。要するに、月給さえもらえれば。そこは財団法人の民俗学の研究所だったわけですけど、場所は柳田国男の自宅です。たいへん都合がよかったのは、旅行するのにはどこへ行っても結構。研究所休んで、出てこなくたって構わない。旅行するならどうぞ、好きなように回ってらっしゃいってことで、こんないい場所はないわけですよ。

――放浪癖をお持ちだったわけですもんね。

 ただし、お金は自分でもたなければいけなかった。行っていいと言われたって、お金が無いのはどうにもしょうがない。あの頃の給料は1万2000円、ずっと1万2000円です。もちろん賞与なんてありません。7、8年たっても1銭も上がらない。だから生活は楽じゃなかったですよ。なんとかお金を工面して地方に旅行しても野宿が多かった。汽車賃だけは、どうもごまかせない。でも寝るところは、野宿すればただですから。

――先生は野宿の名人だとお聞きしました。

 初めて沖縄に行ったときもそうでした。野宿しましたよ。そのときは文部省から金をもらって、他にも人類学や考古学といった先生方と一緒に行った。私も一応は民俗学の研究員ですから、名目は先生ですよ。それで1カ月ほど調査すると、他の先生方はみんな帰っていくんですね。学校の講義があるからといって。

 でも、当時は今と違って、一度帰ってしまうとパスポートの効力がなくなるわけです。

――そうか、沖縄に行くにはそもそもパスポートが必要だったんですね。しかも1回きり。

 もう、それでおしまいです。また来れるかっていうと、あの頃はいろいろ厳しかったですからね。だから行ったら最後、帰るもんかと思って。

――はい(笑)

 でも金はない。行くときに文部省から現金で100ドルもらってたんですけど、悪いことに、その現金を他の先生方の分も含めて落っことしちゃって。当時の沖縄は日本の円が通用しませんから、先生方にも頭下げて、おわびを言って。

 そんなわけなので、先生方が帰ってしまうと宿賃がない。だからほとんど野宿。また旅館が少ないんです、あの頃は。内地から来るのはお役人くらいで、どうせ税金で泊まるから少々高くたって関係ないんですよ。でもこっちは大変ですからね、そんなところに一泊でもしようものなら帰りの旅費までなくなってしまう。

――本当に帰れなくなっちゃうと。

 行ったときには「先生さま」で、みなさん帰った後は一人で野宿ですよ。浮浪者みたいでひどい目に遭いましたけども、今となればいい思い出、ということで。