――柳田国男はそもそもなぜ、沖縄に興味を持ったのでしょうか。

 それは非常に大事な問題だと思いますね。柳田国男というのはご存じのように高級官僚だったんですけど、大和の人間なので沖縄にはとくに関係がない。それなのに、晩年はとにかく沖縄に執着していました。沖縄というだけでもう目の色を変えるくらい。遺言状にも、自分が死んだ後は沖縄の研究を続けてほしいということが書かれています。これは晩年になってからのことですけど。

 なぜ沖縄に興味持ったのかってことは、100%は分からないけれども、柳田国男は日本中の離島を回ってるんです。日本には人間の住んでいる島が大体400くらいあるんですけど、本土も島なわけですよね。つまり、小さな島の理屈が分かれば、大きな島である日本の文化も分かるだろうと。いわゆる比較文化。さまざまな島の習俗と、本土のそれとはどういう関係があるのかってことを考えていたようです。

――本土のことを知るために、小さな島に目を付けたんですね。

 それにも実はきっかけがあって、柳田国男が愛知で療養していたとき、浜にヤシの実が流れてきた。黒潮にのって来るんですね。それが面白いというので島崎藤村に話したところ、「その話を僕にくれ」ということで、後に日本中で流行する『椰子の実』の歌が生まれた。

――そうだったんですね。

 実は柳田自身もヤシの実の歌をつくっているんですよ、漢詩みたいなのを。柳田国男は自分では詩人のつもりなんです。折口信夫という方がいて、あの人は歌も詠むわけですけど、柳田はよく言ってましたよ。「まあ、折口君は歌詠みだからなあ」って、ちょっとばかにしたような感じでね。自分の歌のほうがいいと思ってるんです。たしかに和歌もたくさんつくってはいるんですけど、どうも固くてね。いい歌もあることはあるんですけど。

 で、問題はそのヤシの実なんですけど、柳田は南の国の木の実が黒潮にのって日本本土へ流れてくるように、ずっと南にある沖縄の文化と日本の文化の間にも何か関わりがあるんじゃないかと考えたわけです。これはまだ、30歳になるかならないかくらいのことだと思います。

――すごくドラマチックな着想ですね!

 それともう一つ、柳田は「郷土研究会」というのをつくっていたんですが、そこで偶然沖縄の女の子の写真を見るんですね。恐らく小学生か中学生くらいだと思うんですけど、その女の子の手に入れ墨がしてあった。それが非常に印象的だったそうです。

 われわれの手は入れ墨をするとかえって汚くなっちゃうんですけども、10代とか20代の女性の、真っ白い、ふっくらとした手に入れ墨っていうのはとても美しくて印象に残るんですよね。琉球では入れ墨のことを「ハヅチ」っていうんですけど、ハヅチには段階があり、結婚する前から少しずつ彫り始めて、結婚したらぜんぶ彫り終わる。

 柳田が見たのは少女ですから、まだぽつんぽつんだったと思うんですけど、大和の人間である柳田にはそれが非常に印象に残った。恐らくそれも、琉球を意識するようになったきっかけだと思うんですよ。

――愛知の浜に流れ着いた「ヤシの実」と少女の手の「入れ墨」が、柳田国男の目を沖縄に向けさせたわけですね。

 私はそう見ています。当たってるかどうかは分かりませんけどもね。

稲の伝来

 柳田国男は特に稲の伝来に興味をもっていました。要するに、稲がまず沖縄に伝わって、それが日本の本土に来たんだと。日本の文化の根源は琉球列島だという仮説を立てたわけです。

 晩年は足がだんだん不自由になっていったんですけど、農林省に行ったり、あちこちで研究会を立ち上げたりして、もう熱中していました。その会には人類学の中根千枝さんもいましたよ。女性初の文化勲章をもらった人ですが、その時はまだお下げ髪でね。「来月インドに留学に行きます」と言ってました。ともかく、いろんな人が集まって稲作の伝来の研究をするわけですが、考古学なんかは柳田とまったく立場が違うわけですよ。

――とおっしゃいますと?

 考古学はやはり遺跡や出土した物をもとに判断しますからね。沖縄に弥生文化はないんだから、稲は朝鮮から南九州に伝来したんだという結論がもう出ているんです。沖縄から来たなんていうのはありえないと。それは今も同じですけどね。

――柳田説には物証がないわけですね。

 泥棒にも三分の理っていうけど、柳田にも道理はあるんです。たとえばサツマイモ。私たちは今サツマイモといいますけど、あれはもともと薩摩から来たんじゃなく、南支那から琉球に来てるんです。それで琉球から薩摩に行って、薩摩から江戸へ行った。今でも山口とか四国、伊豆七島あたりでは古い言葉で「リュウキュウイモ」っていいますよ。

――なんで変わっちゃったんですか?

 薩摩はやはり力がありますからね。琉球を支配してたのは薩摩ですから、薩摩に持って行ってそこから流通すると、ぜんぶ薩摩になっちゃうわけです。沖縄の人にとってはかわいそうなんですが、サツマイモも薩摩から琉球に来たんだとみんな思ってるわけ。

――本当は逆なのに……

 サツマイモは時代がずっと新しいんですけど、柳田によれば、稲も恐らく南支那から沖縄にやって来た。来た理由は何かというと漂着です。

 中国は戦争が多かったから、戦禍を逃れてきた漂流民がたまたま宮古島に流れ着く。宮古島は貝がいっぱいとれるんですが、その中に宝貝というきれいな貝があって、これは中国の昔の貨幣だったんです。それで、かれらが中国に帰るときにそれを持って帰り、そしてまたやってくる。そうしてるうちに中国と宮古島の間に交渉が生まれて、そこで稲を持ってきたんだと。

 だから柳田の説にも理屈はあると思いますね。だけど、じゃあ証拠を見せろって言われると、残念ながら証拠はない。沖縄ではまだ弥生式の土器は出ていない。稲作を裏付ける考古学の資料がないのね。そこは弱みなんですけど。

――物語としてはすごく魅力的な説ですよね。

 柳田説のように、南から北へ流れる文化として「高倉」があります。高倉というのは足が4本とか6本あって、その上に小屋を建てるいわゆる高床式の倉庫で、この中にお米なんかを保管する。この高倉は伊豆七島や、和歌山なんかでも見られますが、私の調べたところ、黒潮の流れに沿ったところにしかないんです。

 その形を見ていくと面白いんですけど、八丈島あたりにあるのは明らかに、琉球列島の高倉なんですね。高倉は東南アジアの稲作地帯にもあって初穂のお祭りなんかに使われるんですけど、それが形を保ったまま日本の太平洋側にあるということは、稲作が黒潮にのって南から北へ伝わったという証拠の一つになるんじゃないかと思ってるんですよ。

――すごく面白いです。

 だから柳田国男は、稲作が琉球から伝わったという意見を死ぬまで離さなかったですね。自分が死んだ後も誰かにやってもらいたい。それが遺言状の中にも表れていると思うんです。