――リンカーンによる「奴隷解放宣言」が出るのは南北戦争中の1862年ですね。それがアメリカ全土に行き渡るのはもちろん戦争の後だとは思うんですけど、これによって黒人は白人から自由になったということでしょうか。

 法的には、この宣言だけでアメリカ全土の奴隷解放というわけにはいかず、主に当時のアメリカ合衆国(北部州)から抜けて争っていた南部州の奴隷解放に限られました。1862年に最初の奴隷解放宣言の予備版が発布され、その翌年1863年に実質的な奴隷解放宣言が発布されます。それでも、この宣言のインパクトは大きかったと言えます。その後、1865年に憲法修正第13条が可決され、はじめて奴隷というものはとにかく全部禁止して「自由民」にすると謳われました。

――反対から言うと、それまで黒人は白人の所有物だとみなされていた。

 そういうことです。北部州の一部ではもっと早くに解放されているので、既に自由民の立場を獲得していた人もいましたが、南部州では最後まで奴隷制度が残りました。南部州が撤廃に反対したのは、プランテーションの労働力として奴隷が必要だったというのが大きいでしょう。

 その前に遡ると、奴隷制度の前には奴隷貿易というものがあり、北米よりもむしろ中南米にたくさんのアフリカ人が運び込まれました。教科書的に言うと、まずは奴隷貿易が禁じられ、それから奴隷制度が撤廃されていくという順序になります。

 でも、現地の人びとの語りを集めていくと、南部州では奴隷解放宣言の後も、本質的には奴隷労働と変わらないものがあったようですが……。ともあれ、奴隷制がなくなると、今度は黒人たちへのリンチが横行するようになります。たとえば、あらゆる種類の暴行のあと、首をくくって殺し、他の黒人たちが見える場所に吊るしたり、それを記念撮影したり、性器を切り取ったりといったことが行われました。単なる殺人や暴行ということではなく、そういうかたちで、相手を制圧するために暴力を象徴的なかたちで用い、何重にも「殺す」という事件が増えてきます。本来の意味でのテロリズム(恐怖政治)です。また、黒人擁護にまわった白人もリンチを受け殺されたようです。

――これまで「所有物」だった黒人が、自分たちと対等になったことへの反感からでしょうか。

 そうですね。黒人が自分たちの社会空間に入ってくることに対する意思表示と考えることができると思います。法的にも、奴隷制を禁止した修正第13条のあとに、連邦議会が修正第14条を通過させ、元奴隷の黒人たちの市民としての地位を保証しようとしたのは、南部諸州が実質的に黒人たちの権利を制限し、奴隷制度下と変わらぬ地位に貶めるための法を通していたからです。もうひとつ例をあげると、憲法修正第15条によって黒人たちにも参政権が与えられましたが、南部諸州では「ジム・クロウ法」呼ばれる一連の州法が通過し、黒人や先住民の投票を妨害するためにあらゆる手段が講じられました。

 まともな教育が受けられなかったので当然ですが、当時のアフリカン・アメリカンたちは識字率が低かった。なので、たとえば読み書きができなければ投票させないとしたり、投票に際して税金を課したり、投票所の数を少なくしたり、投票所そのものをKKKに襲撃させたり、逮捕歴がある者は投票できないようにしたり……。当時は不当逮捕なんて、今以上に簡単にできたでしょうから。黒人が夜に外を歩いてるだけでも逮捕されることがあったそうです。

奴隷貿易

 アフリカン・アメリカンの人びとが受けてきた暴力の背景には、法制度によるものだけではなく、制度にはあらわれない侮蔑的な慣習行動や意識があると思います。それがたとえば、かれらに対する「ポリス・ブルータリティ」、警察による暴力なんかにもつながっている。本当にあらゆる方向からアフリカン・アメリカンを虐げ、抑圧する機構がずっと働いてきているんです。それは目に見えにくい部分もありますが、そうした働きをできるだけリアルに想像してみることが重要だと僕は思っています。

――史実だけでは暴力の内実を捉えることはできないと。

 もちろん史実を学び、何が起きてきたのかを知ることもすごく重要なんですけど、それと同時に、恐らくそれ以上に重要なのは、そうした暴力の中で生きていくとはどういうことなのかを、自分の身体を通じて、ていねいに、じっくりと、リアルに想像することだと僕は思うのです。自分だったらどうだろうか、あるいは、すごく仲のいい友達や恋人や子どもがそういう目にあっていたらどうだろうかと考えることで、初めて、自分の暮らす社会と結び付けることができる。

 それと、逆の立場、つまり加害者側にいたとしたら、と想像することも大切だと思います。これはとても嫌な想像だとは思います。でも、このインタビューは日本語でなされて、日本語で文字になると思うのであえて言うと、日本に生まれ育った日本国籍保有者で、自分は日本人であるということになんの疑いも持たずにきた人は、奴隷制下において自分が白人であった可能性について考えてみることが、とても大切だと僕は思います。

 「被害者」に安易に感情移入することは、「加害者」を自分とは相容れない存在として固定化してしまうことにつながります。それは、傲慢であるばかりか、不健全で非建設的です。要するに、集合的な残虐行為に加担した人たちを、「野蛮な悪魔」のようにして理解してしまうのですから。むしろ、ごく普通の常識をもつ理性的な人間が、つまりは自分や自分にとってのかけがえのない他者と同じような人間が、暴力に加担していたと考えるほうがいい。そうするとはじめて、歴史上に起きたことを現在とつなげて考えられるのではないかと思います。

――たしかに史実を見るときは、どうしても自分を第三者の位置において見てしまいますね。

 たとえば奴隷貿易について、アメリカの人類学者であるシドニー・ミンツ(1922年-2015年)は、『アフリカ系アメリカ人文化の誕生』の中でこんなふうに書いています。

 自分の村でおだやかに暮らしていたら、ある日突然網を掛けられて岸に連れていかれる。殴られたり蹴られたりするかもしれない。鎖で拘束され、言葉の通じない別の部族の人と一緒に船の底に押し込まれて、ぎゅうぎゅう詰めのまま何十日も波に揺られる。食事が足りなくなり、栄養失調になる。病気がまん延する。動けなくなった人は労働力にならないので、どんどん海に捨てられる。

 ようやく港に着くと、今度は競りに掛けられてどこかに買われていく。それでもまだ、自分の身に何が起きているのかまったく分からない。見たこともない場所に投げ込まれ、強制労働が始まる。抵抗しようものなら殺される。同じような境遇の、でも言葉の通じない人たちと、来る日も来る日も働かされるわけです。

 その苦悩や困難というのは、現代の私たちが抱えているそれとは著しく違ったレベルのものでしょう。しかもこれが自分の代だけでなく、次の代も、その次の代も、そのまた次の代も、ずっと永遠に続くかもしれない。そう考えてしまうと、僕らのメンタルでは、もう絶望しかないだろうって思ってしまう。

――そうですよね……。

 ところが、そうじゃないと。そんな絶望的な状況にもかかわらず、かれらは文化をつくったとシドニー・ミンツは言うんです。

――文化、ですか?

 言葉の通じない奴隷同士でどうやってコミュニケーションをとるのか考え、愛し合う男女が出てきたときに、どういう手続きで結婚するのかを取り決めていく。あるいは死人が出たときにどういうふうに埋葬し、どんな儀礼を執り行うのかを。そういった儀式や儀礼では、そこにあるもので楽器を作り、音楽を奏でる。奴隷たちは極めて初期の段階から音楽をつくっていたことが分かっているとミンツは書いています。

――同じアフリカから連れてこられた人たちにも、それぞれに固有の言語があり、文化があったわけですね。恥ずかしながら私は、そのこと自体を考えていませんでした。それで、それぞれの違いを超えて共有できるものをつくろうと。

 それは本当にすごいことだと思うんです。真の想像力とクリエイティヴィティを要する行為だと。そんな劣悪な環境だったら、自分のことしか考えないのが普通だって思うじゃないですか。自分がとにかく生き延びるだけだったら、別に文化なんてつくる必要ないんですよ。それでもつくるということは、無意識のうちかもしれないけど、自分が死んだ後のことに希望を託しているんです。この状況が自分の次の代、あるいはその次の代くらいには少しでもましになっていてほしいっていう。

 奴隷貿易や奴隷制度によって、強制労働という肉体的・精神的な暴力と同時に、アフリカの各部族が持っていた伝統、文化、言語の一切合切が破壊されました。かれらの受けた暴力は想像を絶するものですが、それへの抵抗もまた僕たちの想像をはるかに超えるものです。「抵抗」というとふつうは戦うとか抗議することだと思うけど、そうじゃない。ミンツも書いているとおり、新しい文化をつくり、それを通して生き延びていくこと、なんとかやっていくこと、次の代へとつないでいくことが、かれらの最大の抵抗だったと思うのです。