暴力とアイデンティティ前編】

中村 寛
interview #015
人は生まれ持った肌の色や宗教、文化などにかかわらず平等であり、自由に生きる権利がある。世の中が表向きだけでも)それを常識とみなすようになったのは、ようやくこの数十年のことです。大航海時代、奴隷としてアメリカ大陸に連行された人びとは、何世紀にもわたって、理不尽な差別や暴力とたたかってきました。その歴史とはいったいどのようなものだったのでしょうか。そして、そこに抜き難くあるアイデンティティをめぐる問いとは? ニューヨーク・ハーレムでのフィールドワークをもとにした残響のハーレム――ストリートに生きるムスリムたちの声』共和国)の著者、文化人類学者の中村寛先生にお聞きしました。
後編を読む>
  1. 奴隷解放宣言
  2. 奴隷貿易
  3. 公民権運動
  4. ネイション・オブ・イスラーム
  5. マルコム・X

奴隷解放宣言

――リンカーンによる奴隷解放宣言」が出るのは南北戦争中の1862年ですね。それがアメリカ全土に行き渡るのはもちろん戦争の後だとは思うんですけど、これによって黒人は白人から自由になったということでしょうか。

 法的には、この宣言だけでアメリカ全土の奴隷解放というわけにはいかず、主に当時のアメリカ合衆国北部州)から抜けて争っていた南部州の奴隷解放に限られました。1862年に最初の奴隷解放宣言の予備版が発布され、その翌年1863年に実質的な奴隷解放宣言が発布されます。それでも、この宣言のインパクトは大きかったと言えます。その後、1865年に憲法修正第13条が可決され、はじめて奴隷というものはとにかく全部禁止して自由民」にすると謳われました。

――反対から言うと、それまでは白人の所有物だとみなされていた。

 そういうことです。北部州の一部ではもっと早くに解放されているので、既に自由民の立場を獲得していた人もいましたが、南部州では最後まで奴隷制度が残りました。南部州が撤廃に反対したのは、プランテーションの労働力として奴隷が必要だったというのが大きいでしょう。

 その前に遡ると、奴隷制度の前には奴隷貿易というものがあり、北米よりもむしろ中南米にたくさんのアフリカ人が運び込まれました。教科書的に言うと、まずは奴隷貿易が禁じられ、それから奴隷制度が撤廃されていくという順序になります。

 でも、現地の人びとの語りを集めていくと、南部州では奴隷解放宣言の後も、本質的には奴隷労働と変わらないものがあったようですが……。ともあれ、奴隷制がなくなると、今度は黒人たちへのリンチが横行するようになります。たとえば、あらゆる種類の暴行のあと、首をくくって殺し、他の黒人たちが見える場所に吊るしたり、それを記念撮影したり、性器を切り取ったりといったことが行われました。単なる殺人や暴行ということではなく、そういうかたちで、相手を制圧するために暴力を象徴的なかたちで用い、何重にも殺す」という事件が増えてきます。本来の意味でのテロリズム恐怖政治)です。また、黒人擁護にまわった白人もリンチを受け殺されたようです。

――これまで所有物」だった黒人が、自分たちと対等になったことへの反感からでしょうか。

 そうですね。黒人が自分たちの社会空間に入ってくることに対する意思表示と考えることができると思います。法的にも、奴隷制を禁止した修正第13条のあとに、連邦議会が修正第14条を通過させ、元奴隷の黒人たちの市民としての地位を保証しようとしたのは、南部諸州が実質的に黒人たちの権利を制限し、奴隷制度下と変わらぬ地位に貶めるための法を通していたからです。もうひとつ例をあげると、憲法修正第15条によって黒人たちにも参政権が与えられましたが、南部諸州ではジム・クロウ法」呼ばれる一連の州法が通過し、黒人や先住民の投票を妨害するためにあらゆる手段が講じられました。

 まともな教育が受けられなかったので当然ですが、当時のアフリカン・アメリカンたちは識字率が低かった。なので、たとえば読み書きができなければ投票させないとしたり、投票に際して税金を課したり、投票所の数を少なくしたり、投票所そのものをKKKに襲撃させたり、逮捕歴がある者は投票できないようにしたり……。当時は不当逮捕なんて、今以上に簡単にできたでしょうから。黒人が夜に外を歩いてるだけでも逮捕されることがあったそうです。

なかむら ゆたか 中村 寛
多摩美術大学美術学部 教授

多摩美術大学教授。著述家。文化運動プロジェクト「人間学工房」代表。専門は文化人類学。日本とアメリカをフィールドとして、暴力や社会的痛苦、文化表現や感性、感情、反暴力の試みなどのテーマに取り組む一方、人間学工房やゼミナールを通じて、さまざまな大学の学生や卒業生、つくり手たちと活動をおこなう。