――アメリカで公民権運動が始まったのは1950年代ですか。

 公民権運動をどう捉え、どこから始まったと考えるかはいくつか議論があるんですけど、運動が大きく広がっていくのは50年代から60年代にかけてですね。64年に「公民権法」が通り、それによって法律上初めて差別が撤廃されたということになります。

――「奴隷解放宣言」でも黒人の自由が認められたということでしたけど、それと「公民権法」は何が違うんでしょうか。

 奴隷解放宣言とその後に続くリコンストラクション修正(憲法修正第13条、14条、15条)は、投票権がなかったり、自由に働けなかったりする奴隷をなくすというものなので、いわば人じゃなかった存在を人にするというものです。

――同じ人民にはなったけど、差別自体は残ったと。

「分離すれども平等separate but equal」という有名な法理を含む連邦最高裁の判決があるのですが(1896年)、これは修正第14条を事実上覆し、公的機関を含むすべての分野での差別を認めたものです。教育機関や医療、住宅、交通機関など、あらゆる社会空間で白人と有色人種とを区分けすることが公然と認められていきました。

 教室も、トイレも、水飲み場も違う。レストランの入り口も違って、黒人は正面から中に入れなかったりする。映像や画像で見たことがある人も多いと思いますが、いわゆる「カラードColored」と「ホワイト・オンリーWhites Only」というものですね。「平等」という言葉が使われていますが、容易に想像できるように、実際には平等でもなんでもありませんでした。奴隷解放宣言と南北戦争の後もずっとそういう状態だったのですが、1954年に最高裁で教育機関における差別を違法だとする「ブラウン判決」が出て、1964年の「公民権法」でようやく法制度上の差別が撤廃されました。

――公民権運動の思想というのは、すごくざっくり言うと、黒人も白人も共に生きていこう、みたいな感じですか。

 思想上はそうですね。同じ立ち位置でやっていきましょうということだと思います。ただ、運動の実質としては、単に差別をやめようと訴えたり、権利獲得のために声を上げたりというだけではなく、それを「公民権civil rights」として法制化に結び付けていったのが重要な点です。

 もう一つ言えるのは、公民権運動が圧倒的にクリスチャンの運動だったということです。一緒にやっていきましょうというのは、キリスト教的に言うと、過去に起きたこと、手を染めてしまったことに対し、何らかの形で悔い改め、救済していきましょうということなんです。運動のリーダーだったマーティン・ルーサー・キングJrの言葉を分析する研究がいくつかありますけど、その中でもっとも説得力があるのは、タラル・アサドという人類学者によるもので、キングはキリスト教の言語で救済を語ったというものです(『世俗の形成――キリスト教、イスラム、近代』みすず書房)。つまり公民権運動というのは、白人のクリスチャンとしてのモラルに訴えかける運動だったということができると思います。だから、白人クリスチャンも参加することができたわけです。

――キリスト教の運動だというイメージはあまりありませんでした。でも言われてみると、キングは牧師ですもんね。

 もう少し正確に言うと、キリスト教というより、ユダヤ・キリスト教の言語を使った運動ですね。どうしてもキングたちの運動、黒人たちだけの運動というふうに見てしまいがちですけど、実際にはユダヤ人も一緒になって運動していましたし、かれらにもかなりの犠牲がありました。その当時はユダヤ人も、白人の扱いではなかったですから。

ネイション・オブ・イスラーム

――先生が調査・研究されている対象の一つに、マルコム・Xが所属していたことでも有名な「ネイション・オブ・イスラーム」がありますね。同じ黒人運動でも、かれらの主張や立ち位置はキングのそれとは少し違っていたようですが、どういう点が異なっていたのでしょうか。

 「ネイション・オブ・イスラーム」は1930年代のデトロイトで、マスター・ウォレス・ファードという人物によって創始されます。このファードというのは、他にも複数の名前があり、かなり謎めいた人物でした。どうやら移民だったようですが、それも定かではありません。

 当時、デトロイトには黒人街に加えて、中東からの移民街があったみたいです。大量生産の自動車生産ラインで知られるフォードの工場があったことにも関係します。仕事を求めて、南部州からは黒人が、国外からは移民が集まった。デトロイトの外れの「ディアボーン」という町は、今でもアメリカでもっとも多くのムスリムがいる場所だといわれています。

 ファードはその黒人街で物売りをしていました。最初はイスラームの宗教運動というより、黒人たちのルーツであるアフリカのことを語って聞かせてくれるというので、少しずつ有名になっていったようです。

――ファード自身は黒人ではなく白人なんですよね?

 白人だとする説もあるようです。諸説あるのでどれが本当か分からないんですけど、どうやら中東あたりからやってきた、肌の色の白いアラブ人といった説が有力です。

――彼自身はもちろんムスリムだった。

 ムスリムだと自称してはいますが、イスラームのことをどれくらい理解していたのかはよく分からないところがあります。ただ、ネイション・オブ・イスラームがスタートする前には、イギリス領インド帝国からアフマディーヤ運動が入ってきてデトロイトにすでにありましたし、イスラームの影響を受けたムーリッシュ・サイエンス・テンプルもありました。なので、いわゆる「イスラーム的なもの」はすでに認知されていたと言っていいと思います。

 ファードはその後、4年ほどで忽然と姿を消してしまうのですが、当局発表の情報とネイション・オブ・イスラームからの情報、各研究者の情報とがそれぞれ違っていて、正確なことは分かりません。

――ファードの失踪後にネイション・オブ・イスラームを広めていったイライジャ・ムハンマド(1897年-1975年)というのはどんな存在ですか。

イライジャ・ムハンマドが表紙を飾る彼の著書

 ネイション・オブ・イスラームの語りによると、ファードは人の姿になって現れた神、つまりアラーそのものという存在で、イライジャ・ムハンマドはその神(=ファード)に選ばれた預言者だということになります。メッセンジャーとか、プロフェットという存在ですね。そのイライジャがネイション・オブ・イスラームの基礎をつくっていきます。ただ、ファードと違って、イライジャについては証言や記録が多く残っているし、伝記もあります。それほど謎めいているところはありません。イライジャのリーダーシップのもとで、ネイション・オブ・イスラームは全国的な組織に発展していくことになりました。なによりも、食事や服装、マナーなどに関する慣習を見直し、具体的に経済的自立や精神的自立につながるプログラムを実践した人です。