「隠喩からの自由」などと大それたテーマを掲げて『病める舞姫』を読もうとしているわけですが、始める前に、自分の頭の整理のためにも、これまで述べてきたことを要約したいと思います。あわせて、私の中で暗黙の前提となっていたこと、理路が曖昧だったところを明確化させています。要約とはいえ、けっこうな長文となってしまいました。

これまでの論旨

❶言葉の意味の内部構造を「内包」「外延」に分けて捉える。ただし、論理学とは捉え方の順番が逆になる。論理学では、言葉が指示する事物の集合を外延とし、その集合の成員が共通にもつ性質・状態を内包として、外延先行の捉え方をする。それは、言葉は現実の事物を指し示すという前提があるからだ。しかし、命題の真偽判定には良いのだろうが、言葉の実状にはそぐわない。言葉は、まずは内包(性質・状態についての観念)を呼び起こし、それに応じた外延(事物の集合の典型的なイメージ、究極的には個物)を心像として結像する。内包が先行し、外延が後続する。(中村さんが「言語は自己指示の塊」と語るように、言葉は本来、現実を指し示しているわけではなく、使用の場面で現実を指し示すかのようにして運用されているだけだ。)

❷言葉は、前後の言葉との組み合わせや統語状況、文脈に応じて多様な意味を発現する。場合場合に応じて言葉の意味が変わるのは、内包に潜勢状態で蓄積されている豊かな意味(認知言語学でいう百科事典的意味)の一部がそのつど現勢化するからで、識閾下で働く意味の胚を糸井重里にならって「コトバの素」とよぶ。内包に潜在するコトバの素は、その言葉をどんな場面で、何を指して、どういう解釈で聞き、発したかなど、言葉を使用してきた記憶が堆積する中で形成されたものと考えられる。そのため、コトバの素は明確な分節線をもたず、互いに溶け合い、意識の深層で揺れ動いており、意識の表層に浮上したときにも性状は曖昧なままだ。一方、外延は意識の表層で表象され、具体的で固定的なイメージの形をとる。

❸このような内包の先行性・変動性、外延の後続性・安定性は、内包がコト的であり、外延がモノ的であることからも裏づけられる。経験は、その生起の姿を捉えればコトとして、対象化して眺めればモノとして見えてくる。そして経験を言葉で把握したとき、コトは内包に現れ、モノは外延となって現れる。内包はコト性を帯び、コトは生成変化し連続する世界を瞬間的に切り取っているから変動性を宿している。一方、外延はモノ性を帯び、モノはコトの生起が反復されて固定化されたものだから安定している。

❹内包は流動的なために、不安定な状態を嫌う私たちは外延によって内包を固定しがちだ。しかし、変動する内包を変動するままに受け入れたほうが、深層で揺れるコトバの素の動きが感じられ、言葉の味わいは深まると考える。

❺外延による内包の固定化を解除してくれるのが詩だ。(むろん、日常言語の内包・外延関係をいったん解除しないと詩は読めない。) 一方で前述のとおり、日常言語も常に揺れ動いている。場合場合に応じた意味の変化を、佐藤信夫は「意味の弾性」とよんだ。そして、意味の弾性を生み出す仕組みが換喩、隠喩、提喩、転喩、緩叙法、対義結合などのレトリックにあるとした。レトリックは、言語的認識を駆動するメカニズムであり、言語活性化の原理的なパターンだ。とすると、レトリックによる意味の変動は、コトバの素が深層でうごめいている内包の運動に現れるだろう。ただし、日常言語は意識の表層で機能するため、内包の動きは外延によりすぐに固定されてしまう。〔広告コピーは、このメカニズムを最大限に活用する。一瞬にして解ける謎(=コピー)を提示して内包を運動させ、消費者の関心を引き、商品を外延としてイメージさせて欲望を喚起する。〕

❻ところが詩の言葉は、内包が不規則に大きく動き、安易な外延固定を拒絶する。詩が分からない私のような人間にとっては、外延を見つけられずに途方にくれることになる。そこで、詩も日常言語も内包運動の原理は同じだと仮定して、外延をイメージすることをあえていったん保留する。そのうえで内包を強引に動かしてみる。この作業の一環として、一般に詩的表現と見なされる隠喩に対して疑いの目を向ける。

❼隠喩は、媒体(表示された言葉)によって趣意(暗示されている意味)を表すレトリックだ。その読解の過程で、媒体と趣意が共有していると推定される媒介項(隠喩の根拠)が、媒体の内包が収縮(抽象化または部分化)することで暗黙裏に生成される。この段階のレトリックは、種概念で類概念を表す「提喩《種→類》」。そして媒介項を趣意に特殊化するレトリックが、類概念で種概念を表す「提喩《類→種》」。隠喩は「提喩《種→類》」と「提喩《類→種》」が組み合わされた「二重の提喩的な運動」と見なせる。運動の二段階目では、一段階目で収縮・生成された媒介項の内包が膨張し、具体性を付与され、外延を獲得して趣意を示す。これは、見方を変えると、「提喩《種→類》」により生じた媒体の内包の運動を、外延(趣意)によって固定することだ。そこで、隠喩としての受け止めをせずに、一段階目の「提喩《種→類》」のまま、コトの生起にまかせて媒体の内包を遊ばせてみる。

 さて、『病める舞姫』には、隠喩はもちろん、「提喩《種→類》」も「提喩《類→種》」も頻出します。ここでは以後の展開の参考に「提喩《種→類》」について解説します。

「提喩《種→類》」は、事例(種)をあげることで、その例が含まれる類概念を示すレトリックです。教科書的には親しみやすく「嘘つきは泥棒の始まり」や「人はパンのみにて生きるにあらず」などの慣用表現で説明されます。「泥棒」で悪人一般を、「パン」で食糧一般を同時に表しているというわけです。ただし慣用化しているので、「泥棒」や「パン」は、その言葉自体の意味をもはやほとんど感じさせません。種と類の意味が二重映しになるのが本来の提喩であり、これらの慣用表現も初めて語られたときは「泥棒」も「パン」もはっきりとその存在を主張していたでしょう。

『病める舞姫』の中では、中村さんが『奥歯からオペラが聞こえる 第18回』(※1)で取り上げていた「赤錆びた包丁」の分析がとても鮮やかで分かりやすかったので引用させてもらいます。

 包丁は危険だ。なぜなら、分節化を象徴する道具だから。この世界の事物をきれいに切り分ける。この世界のどこにも切れ目はないはずなのに、勝手に切り分けてしまう。~(中略)~だから、「包丁」は「赤錆びて」いなければならない。包丁がピカピカ光って、その能力の最高地点(エンテレケイア)をひけらかしていては困る。この土方的世界では、そんな無法は許されない。敵とみなされる。包丁は、錆びて赤くなり、ボロボロになって、分節化作用とは程遠い存在になるべきなのである。

「包丁」の内包がその属性の一部「切り分ける道具」に収縮し、他の属性(物体である、料理に使う、柄の先に刃がついている など)は後退。包丁は、切り分ける(分節化する)道具としての機能が焦点化されて見えてきます。文中に「象徴」とあるように、「提喩《種→類》」はまさに象徴を生むレトリックです。

「けむり虫」の内包を遊ぶ

 というわけで「隠喩からの自由」を試みますが、始めに言い訳をしておくと、本来は識閾下にあって見えないコトバの素を当て推量で記述しているので、無理矢理な話になっています。また、詩の鑑賞はそもそも、これから述べるような迂遠で愚鈍なことはせず、直感的に感受するものだと思います。なので以後は、詩と縁遠い私のような「ふつうの人」が内包を流動化させるための稽古です。最初に取り上げるのは、『病める舞姫』の出だしに登場する「けむり虫」。

「そうらみろや。息がなくても虫は生きているよ。あれをみろ、そげた腰のけむり虫がこっちに歩いてくる。あれはきっと何かの生まれ変わりの途中の虫であろうな。」言いきかされたような観察にお裾分けされてゆくようなからだのくもらし方で、私は育てられてきた。(「白水Uブックス」p.3)

 この「けむり虫」を私は長い間、舞踏手を表す隠喩だと思ってきました。連載の冒頭に置かれた文の主役なので、物語の展開を示唆する重要な存在なのだろう。何者かのセリフの形で語られ、直後に「言いきかされたような観察に ~ 私は育てられてきた」とあるので、言い聞かせている何者かは、土方少年を舞踏家に育てる導師(舞踏の神)なのだろう。その導師に「そうらみろや」と、おそらく手本として指示されたのは、息がなくても生きている、この世のものではない虫。それが「そげた腰」で「こっちに歩いてくる」。土方さんが舞踏のあり方として話していた「(飯詰の中で折り畳まれた、赤子の)行ったっきり戻らない足 ~ それを追跡する」や「立ってるんじゃなくて崩れている ~ 灰柱の歩行を舞踏の原点に」(※2)を体現しているような虫です。さらにその虫は「何かの生まれ変わりの途中」だという。「私の身体の中で死んだ身振り、それをもう一回死なせてみたい」(※3)と語った、死を死ぬことで再生をはかる舞踏の方法を実践しているのかもしれない。そして「けむり」とは、「お裾分けされてゆくようなからだのくもらし方」の述懐につながるので、舞踏の「押し出されて出てくる、こういう歩行の原理」(※2)を視覚的に表したものでしょう。この3行に暗黒舞踏のエッセンスが詰まっている。「けむり虫」は、理想の舞踏手を喩えたものだと受け取りました。

 この推測は、今でも大きくは外れていないと思っています。しかし、だからこそ別の読みがありえるのかを探り、「けむり虫」の内包をもっと豊かにできればと考えます。まずは「虫」の内包をどう収縮させるか。「虫」は複数の意味をもつ言葉なので、その多義性を手がかりにいくつかの可能な解釈を求め、さらに修飾語の「けむり」の解釈と組み合わせてみます。

(1)生物としての「虫」から

「虫」と聞いて、どんな生き物を思いつくか。蝶、蝉、バッタ、蜂、蟻などの昆虫。芋虫や蛆虫など昆虫の幼虫。ミミズや回虫やムカデなど細長い虫。蜘蛛やダニ、蠍、ダンゴムシ、ナメクジ。あまりに多様すぎて、私には小さい生き物という以外に共通点を見つけられません。典型的な「虫」もイメージできません。なので、『比喩表現辞典』(※4)から日本の小説の中で描かれた直喩を採集し、虫がどのような印象で受け止められているかを見てみます。

「私は小さい、醜い虫のようになっていた」「頼りない虫みたいな体」「虫のように体をちぢこませ」「虫のような男たち」「母は虫のように泣いていた」「虫のように身をよじらせる」「虫のようにはいずる」「虫が匍うような沈黙」「虫のようにうごめく」「背中に虫がわいたような感覚」「言葉を虫のように浮遊させる」「虫のごとき倦まざる反応の蠢動を起こす肉体」「家が虫が這ったように並んでいる」

 印象としての虫は、貧弱で、醜く、屈曲していて、微細に体を動かす小さな生き物のようです。人を虫に喩える「弱虫」「泣き虫」「虫けら!」などもこの系統でしょう。その虫が煙になっている。身をくねらせて昇る小さな煙。すぐに吹き消えそうで、「幽(かそけ)し」という古語が思い浮かびます。ただし可憐な感じではなく、もぞもぞと醜く動く。穢れた精霊? いや、聖なるものは、そもそも神様の手がついて穢れているものでした。

(2)体に巣くう「虫」から

 人の体の中にいて悪さをする虫。「腹に虫がわく(回虫)」「虫歯」「疳の虫」「虫(癇癪)を起こす」「塞ぎの虫」など。体内にいる害虫から心身症的なものまでを括っています。私の場合、幼少時に疳の虫が強かったらしく、家の鴨居に虫封じの木札が掲げられていました。今思い返せば梵字で書かれた恐ろしげな木札でしたが、それがいつの間にかなくなっていた。そのため、個人的な感じ方ですが、この分類の虫はいずれ消えていく悪い虫です。そして、煙にも同じような性質が見てとれます。けむい煙は嫌なもので、しばらくは苛まれるが、いずれ消えてなくなります。「けむり虫」は、そのうちいなくなる悪い虫。いや、ちょっと待って。この“悪”は、大人から見た価値観でしょう。疳の虫は自分の中の幼児性であって、悪ではない。むしろ幼児性を追い出された、今の私こそ抜け殻でしょう。人はそれを脱皮や成長と言うかもしれませんが……。なので、いずれ失われる幼児性を象徴している虫は、当連載の2回目で引用した中井久夫の「ゆらめく世界」に棲息する虫です。土方さんが語る「行ったきり戻らない足」が「けむり虫」になって戻ってきているのかもしれません。

(3)心に住む「虫」から

 人の心の中にいて何かを告げる虫。「虫の知らせ」「虫が好かない」「虫唾がはしる」「虫の居所が悪い」など、主に宿主にマイナスの情報を与えて警戒させる働きをする虫です。ただし、「虫のいい話」「浮気の虫」など、宿主の欲望を刺激し、翻弄する場合もあります。深層心理の表れ、あるいは心の中の他者と見てよいでしょう。この、いわば第二の自己が煙状になっているわけです。煙は物が燃えるときに出るので、目にすれば何かが燃えていることが分かります。火は燃え広がれば危険なので、煙は未来に起こるかもしれない災厄を知らせてくれている。一方、欲望も生存の欲求がもたらす未来先取りの感情といえます。とすると「けむり虫」は予兆の虫。宿主を導いてくれる心霊、もしかしたら守護霊かもしれません。

(4)害をなす「虫」から

 害虫一般を、より上位の概念「虫」の言葉で表すことがあります。農作物につく害虫は「虫送り」の祭りで追い払われ、着物につく害虫は「虫干し」され、コンピュータプログラムの「バグ(虫)」は「デバッグ(虫取り)」される。「蝕む(虫食む)」「娘(あるいは夫)に虫がつく」と転用され、また、身体内部の異常に転用された場合は上記(2)の用法になるのでしょう。日常生活や共同体の円滑な運営を妨げる虫。この社会は、いたるところに出現して安全安心を脅かす虫を殺したり、追い出したりすることで成り立っている。忌み嫌われるこの有害生物が煙になっているのですから、差し障りの強度が増します。煙は、けむく、臭く、息苦しく、目にしみる。空中に漂って視界を遮る。隙間があれば入って来るところは虫と同じです。「けむり虫」は、平和な日々に嫌らしく介入してきて、幸せの邪魔をする。それは見方を変えれば、何事もないかのように平穏に続く日常の虚妄性を告発している存在と言えるでしょう。

 以上の“稽古”から、私にとって「けむり虫」の内包は(1)「幽くも穢れている」、(2)「幼児性のゆらめく世界に棲む」、(3)「予兆を知らせて導く」、(4)「幸せを邪魔する」のいずれかであり、いずれでもある可能性をもつようになりました。だから(1)~(4)を同時に想起すると、つかみどころがなく頭が朦朧としてきます。特に(3)と(4)は逆の働きをしているように思え、ひとつの外延に固定することなどできません。とはいえ、もともと言葉にならないコトバの素を強引に言葉にしていますから、この朦朧状態は、言葉を意識の深層に送り返すことになり、良い症状なのだと思います。

 そして、こうして媒体(けむり虫)の内包を充実させる作業は、実は隠喩としての読みを豊かにすることにもつながるはずです。「けむり虫」を「理想の舞踏手」の隠喩で捉えていたときは、外皮が煙状にぼやけた尺取り虫(腰らしき盛り上がりがあるので)をイメージしていました。こんな想像力の貧困も、媒体の内包で遊んでみることで救われます。隠喩は、媒体と趣意ふたつのイメージを重ね合わせて味わうものなので、媒体の捉え方も重要です。隠喩の「二重の提喩的な運動」の一段階目、「提喩《種→類》」の段階で媒体の内包を多様に収縮させることで、媒体は厚みをもちます。また、多様に収縮した内包それぞれから、さらに別々に趣意を想起し、異なる隠喩を多義的に読むこともできるようになるでしょう。

 と、いろいろ面倒くさいことを書いてきましたが、つまりは硬い頭を柔らかくするための試行錯誤のレポートでした。

次回予告

「隠喩からの自由」では、『病める舞姫』からあと2つ例をあげようと思っていますが、まだ煮詰まっていないところがあるので、これは次回にします。ひとつは、ちょっと特殊な「提喩《種→類》」の例として、p.152からp.156の間で合計23回集中的に登場する「菓子袋」。もうひとつは、「提喩《種→類》」から隠喩を多重化させてみる例として、p.90に出てくる「黴」です。

 それと、後飯塚さんの前回投稿の文中に<ふつうの人は存在しない>とあり、この言葉への応答を書きたいと思います。詩が分からない自分を「ふつうの人」として軽い気持ちで使ったのですが、指摘されて、「ふつう」の意味をちゃんと考えたいと思っています。

※1 ウェブマガジン「なぎさ」(東京自由大学)で連載している土方巽の世界。

※2 「極端な豪奢・土方巽氏インタビュー」『W-NOtation』No.2(UPU)

※3 「風だるま」『土方巽全集 II』(河出書房新社)

※4 中村明『比喩表現辞典』(角川書店)