梅雨時で鬱陶しいからというわけではないが、今回も、往復せずに独りだけで少し暴走してみたい。
言葉は自己指示の塊であり、現実のわれわれのあり方や世界の具体相とは、直接のかかわりはない。言葉は、それ独自の体系をもち(ソシュール)、それだけで複雑な関係の網の目(差異による価値化)をなし、「深層文法」(ウィトゲンシュタイン)という言語だけの無意識領域をもっている。言語は、言語だけの世界で自己完結しているのであり、それ以外の世界を記述しているなどというのは誤謬(オースティン)なのである。
しかし、ある意味で、このことが心底我慢できない詩人がいた。アントナン・アルトーだ。「冥府の臍」では、吐き捨てるように、こうつぶやく。
他の連中は作品を差出すというがいい、私はここに私の精神以外の何ものをも示す気はないのだ。
生きるとは、もろもろの問を燃えあがらすことだ。
私は作品を生から遊離してあるものとは考えない。
私は遊離した創造は嫌いだ。私はまた、精神がおのれ自身から遊離してあるものだとも考えない。私の作品の一つ一つ、私自身のさまざまな面の一つ一つ、私の内なる魂の氷室の開花の一つ一つが、私に対して悪態をつく。
私はわが内部に生じる狭窄や、わが生の理不尽な去勢について説明するために書く手紙の中にも、また私自身の外部にあって、惰性的なわが精神の妊娠と見えるエッセーの中にも、等しく私そのものを見出す。(『神経の秤・冥府の臍』粟津則雄、清水徹編訳、現代思潮社、2007年、71頁)
アルトーは、内部の狭窄を表現し、生の去勢について説明する手紙や、精神の妊娠のごときエッセーなどの言語による創造が、自分自身の精神から遊離することを忌み嫌う。私自身の精神を、私そのものを、その外部にある言語という<他者>によって表現されることが、どうしても許せない。アルトーにとって、作品とは、私の精神以外のものであってはならないのだ。
私は精神が生の中になく、生が精神でないことに苦しむ。私は器官にすぎぬ精神、解釈にすぎぬ精神、事物恐喝者にすぎぬ精神を、なんとかして精神そのものの中に入れようと苦心惨憺する。(同書、71頁)
アルトーにとっては、生と精神とは一つのものであるべきであり、その「生=精神」をそのまま表現するのが、真の言語作品だということになるのだろう。「器官」(最初から分節化されている道具)や「解釈」(精神から遊離した駄弁)などを破砕し、<精神そのもの>をそのまま現出させたいというのだろう。<私>や<精神>といった、アルトー自身がもっとも苦しめられている領域に、言語やそれによって表現される作品は、指一本触れてはいないと言って告発しているのだ。
しかしながら、言語のもつ「自己指示の塊」というあり方を考えれば、このアルトーの告発は、不可能を可能だと思いちがいをしていると言えるだろう。言葉がどのようにもがき苦しんでも、言語がどれほど複雑に構成されたとしても、それが言語である以上、けっして現実に触れることはかなわない。ましてや、<私>や<精神>などという、とめどなく面妖な対象には、近づくことすらできないだろう。
そもそもアルトーが言語によって表したいと思っている<私>や<私の精神>と言われるものは、何なのだろうか。それらは、言語によって表すことは、もちろん不可能だとしても、そもそもそんなものが「現実的に」存在していると言えるのだろうか。いや存在しているとしても、それを、われわれは、(言語化は原理的に無理だとしても)把捉することができるのだろうか。
当たり前のことだが、<私>や<私の精神>を把捉するためには、その対象を特定しなければならない。しかし、この場合、その対象が、その対象を把捉するため当の主体であるのは明らかだろう。<私>や<私の精神>によって(もちろん、そんなものが存在すると仮定しての話だが)、対象である<私>や<私の精神>を把捉する。これは、誰が考えても、無理であるのはたちどころにわかるのではないか。いろんな人がそういうように、眼球によって眼球を見ることはできないのだから。
<私>や<私の精神>は、<私>や<私の精神>にとって、認識するためのそれ自身(視覚における眼球)であるという理由によって、いわば「絶対的な他者」(ここでは、自己自身であるという意味においての「他者」)なのである。<私>や<私の精神>は、原理的に認識を拒絶している。つまりは、「把捉」などということは、どうやっても、できやしないのである。
もちろん、アルトー自身の<私>や<私の精神>もまた、アルトーにとって「絶対的他者」であるのは間違いない。しかし、アルトーにとっては、そのような<私>という「絶対的他者」のなかにのみ、われわれの器官なき身体や分節なき無垢の魂の故郷があるのではないか。そしてアルトーは、<私>という「絶対的他者」を無理やり引き摺りだし、それによって、言語の枠組みを破壊したいと思っていたのではないのか。そもそもそれが、絶対に無理なことだとわかっていても。
この「絶対的他者」は、われわれには、手の届かない無窮の消失点のようなあり方をしている。<私>が認識できるのは、過去化された記憶のなかの「私」であり、それは、<いま>認識している<私>では、ありえない。つねに、<いま>の<私>は、<ここ>にあるのに消え続けていくのである。だから、無窮の消失点なのだ。
アルトーは、この無窮の消失点(<私>という「絶対的他者」)を、おそらくちがう文脈ではあるが、つぎのように説明している。
せめてひとが自分の虚無を味わえるものなら、自分の虚無のなかでゆったりと休らうことができるものなら、そして、その虚無がある種の存在ではなく、しかもまったき死でもないとすれば。(同書、128頁)
「自分の虚無」という故郷は、ある種の存在でもなく、まったき死でもない。それは、無限に消失しつづける「絶対的他者」だといえるだろう。けっして手にとることもできず、だからといって、完全な無でもない<それ>なのである。「自分の虚無」は、とどくことのかなわない無限遠点として背景に退きつづけていく。
アルトーも言う。
ぼくはぼくの些事のなかで自分を考察する。ぼくは、断層を、白状されてない地すべりを的確に言い当てる。というのも、世のみなさまよ、精神はあなた方よりはるかに爬虫類に近いからだ。精神はまるで蛇のように逃れ、逃れたさきはついにはぼくたちの言語に危害を加えるにいたる――ぼくたちの言語を宙ぶらりんのままにしておくと言い直そう。(同書、130頁)
爬虫類である精神は、言語などという表層にしか存在しない瞞着のシステムによっては、絶対に表現することはできない。蛇のようにくねくねと逃げ続け、深き蛇穴へと消えつづける。言語は、自己指示の中空であてどなく彷徨い、どんな意味もどんな形も与えることすらできない。
アルトーは、自分のことをつぎのように紹介する。
自分の言語が、思考とのさまざまな関係において唖然とするばかり混乱していることをだれよりも感じた男、ぼくはそんな男だ。自分のもっとも内奥な、もっとも疑うべからざる地すべりの瞬間をだれよりもよく見定めた男、ぼくはそんな男だ。まったく、世のひとが夢みるように、自己の思考に迅速にもどってゆくように、ぼくはぼくの思考のなかに迷いこみ、自らを失ってゆく。自己喪失の奥まった隅々を知っている男、ぼくはそんな男だ。(同書、130頁)
言語というもうひとつの「絶対的他者」が存在し、その他者によって自らの精神や思考を表現するしかないわれわれは、おのれの精神や思考を、忠実に記述するなどということが不可能であることを本能的に熟知しているはずだ。それをアルトーは「思考の腐蝕」という言葉で表現した。思考が、言語という既成の「他者」(自己指示しかできない表層)の影響で腐っていく、あるいは、つねに腐りつづけている、というわけだ。ジャック・リヴィエールへの手紙で書いているのは、そういうことなのである。
魂の中心部に起る或る崩壊や、本質的であると同時に束の間のものでもある思考の腐蝕とでも言うべきものや、私の展開の具体的な獲得物の一時的な喪失や、思考の諸要素の異常な分離などのせいと考えるべきなのです。というわけで、私の思考を破壊する何かがあるのです。私が何であるにせよとにかく何かであることを阻みはしないけれども、言ってみれば私を宙ぶらりんにしておくような何かがあるのですよ。(同書、39頁)
言語によって、言語という腐敗装置によって、われわれは、みずからの精神や思考を台無しにするよう宿命づけられている。言語という宿痾によって、思っていることや心のなかを腐らせてしまい無惨な代物に変えてしまう。
だからアルトーは、怒りをこめて、つぎのように罵るのだ。
すべて書かれたものは豚のように不潔だ。
曖昧なものから出発して、自分の思考のなかに生起するものについてなら何であれ明確にしようと試みる連中は、すべて豚のような奴らだ。
文学をする手合いなんてすべて豚のようなものだ、とくに当節の連中は。
精神のなかで―というのは頭のなかのある方向にということだが―脳髄上のいくつかのはっきり定まった場所に標識をつけている人びと、自己の言語の支配者である人びと、さまざまな語が自分にとってそれぞれある意味をもっているような人びと、自分にとっては、魂のなかにさまざまな高度が存在し、思考のなかにはさまざまな流れが存在すると思っている人びと、時代精神そのものであり、あれらのさまざまな思潮の命名者となった人びと、ぼくはかれらのなすべき明確な仕事を、かれらの精神がどんな些細なことにつけてもたえず発する自動装置の軋みを考えているのだが、そんな人びとはすべて
――豚だ。
(同書、131頁)
アルトーの言う「豚」とは、言語という手垢のついた既製服を着て、それをあたかもみずからの思考の成果のように披露し見せつける連中だ。器官や体系とは無縁の流動的で不定形の<思考そのもの>のなかで、そのまま爆死するのではなく、お手軽な記号によって「作品」なるものを厚顔無恥にもさらしつづける者どもだ。
こうしたアルトーの詩についての考えを、モーリス・ブランショは、つぎのようにまとめている。
詩が、思考というこの考えることの不可能性と結ばれているということ、これは、あらわにされえぬ真理である。なぜなら、これは、つねに外れ遠ざかっており、彼に、それを真に体験する地点の下方で体験することを強いるからである。これは、単に形而上学的な困難であるばかりではない、或る苦悩が作る恍惚である。そして、詩とはこの不断の苦悩であり、「闇」であり、「魂の夜」であり、「叫ぶための声の欠如」である。(「アルトー」『来るべき書物』所収、粟津則雄訳、筑摩書房、1989年、54頁)
言語によっては、何も表現することができず、無理にでも表現したとたんに、すべては裏切られてしまう。白昼の叫びは、声を失っているために、闇になり、突如として魂の夜を迎えるというわけだ。
そしてブランショは、アルトーがもともと目指していた「直接的なもの」「精神」「思考」、つまり「直接的な全体性」といった故郷は、決定的に喪われ、そこには、亀裂や腐蝕や破砕だけが「存在している」ということになってしまう。もちろん、ここでいう「存在」は、非在であり、純粋な否定であり、存在の裏面のようなものなのだが。
ブランショは言う。
このように確実で苦悩にみちた深化作用を通して、彼はこの運動の項を逆転し、非所有化を第一の位置に置くにいたる。もはや「直接的な全体性」を第一のものとはしないのだ。そしてこの非所有化は、最初は、この「直接的な全体性」の単なる欠如と思われていたのである。第一に位するのは、存在の充溢ではなく、亀裂であり、裂け目である。腐蝕であり、破砕である。継続性であり、侵蝕的な剥奪作用である。存在とは、存在ではなく、このような存在の欠如である。生を、衰退した、とらえがたい、無残な禁断から発する叫び以外では表しがたいものと化する生ける欠如である。(同書、56頁)
こうしてアルトーにとっては、詩を書くというのは、それが言語という自律した凶器(<直接的なもの>を無化するもの)を使わざるをえないという理由で、何も表すことはできない営為になる。しかし、それは、われわれの足場が、否定そのものである存在の欠如(亀裂、裂け目、侵蝕、破砕)に依拠しているからなのだ。
ブランショは、たたみかける。
おそらくアルトーは、「わかちえぬ現実性」の充溢性を持っていると思いこんでいた場合も、この空虚によって彼の背後に投げかけられるかげの厚みを見わけていたにすぎないのだ。なぜなら、彼のなかで、この全体的な充溢を証明するのは、それを否定するおそるべき力だけなのである。つねに活動し、空虚を無限に増殖させる力をそなえた途方もない否定作用だけなのである。(同書、56頁)
私なりに言い換えるならば、詩人がやっているのは、真の<絶対的他者>である自分自身(決して手の届かない<精神>や<思考>)が、一見相対的なあり方をしている言葉、だがじつは、これもまた「絶対的な他者」である言語をつかって、どこにも存在しない砂上の楼閣を創りつづける作業なのだ。いわば詩という美しいまがいものをつくりだす営為なのである。
しかし、これこそが、われわれ人間が、言語と真摯に対峙できる唯一可能なやり方だと言えるだろう。そう、これが、唯一無二の対峙なのである。
