――フーコーの『監獄の誕生』は国王の暗殺を企てたダミアンが四つ裂きにされる描写からはじまるそうですね。両腕と両足を馬に引かせてもぎ取るというのはどう考えてもやり過ぎだと思うのですが、こうした刑が執行されたのはなぜなんでしょうか。

 フランス革命以前には、ダミアンの例に限らず、国王の権力を誇示するために華々しい身体刑が行われていました。絶対王政は過去のものとなりましたが、過剰な殺し方をしたり遺体を傷つけたりということ自体は今でも結構あると思うんです。最近もアメリカで、逃走しようとした黒人が警官に60発以上撃たれて死亡した事件がありましたよね。ロシアのウクライナ侵攻でも、殺した後に遺体をさらに損傷するといったケースが報告されています。そこには相手への憎悪や恐怖、あるいは集団心理といった偶発的な理由があったと思われます。ダミアンの処刑がそれらと異なるのは、偶発的なものではなく、この時代の身体刑には体系的な意味があったと考えられる点です。

――体系的な意味、といいますと?

 たとえば現代の日本の死刑は絞首刑が採用されていますが、それは受刑者の苦痛が最も小さい――薬物の方がましだとか、いや電気だとかという議論も含めて――とされているからです。ではなぜ苦痛が小さいものを選ぶかというと、死刑の目的が「殺すこと」にあるからですよね。

 でも、中世から近世のヨーロッパではただ殺すだけではなく、どのようにして殺すか、さらには殺した後にどうするかということまでが刑の中に含まれていた。権力者と犯罪者の対決においては、死は終着点ではなく一つの通過点のように考えられていたんだと思います。だから死んだ後も刑罰がつづくのです。逆に言うと、死刑が殺すことだけを目的とするという刑罰体系は、極めて近代的なものだともいえるわけです。

――そういえば日本の武士も、切腹なのか打ち首なのかによって意味合いがぜんぜん違っていたといいますね。

 それに、死んだ後「さらし首」にするでしょう。さらし首って、抑止効果もあるかもしれないけど、侮辱を与えてるんですよ、死人に。死後に侮辱を与える刑は今では考えられないし、むしろ許されないことになっていますが、当時はそれに何らかの合理性があったんだと思います。

――ダミアンの処刑が公開で行われたのは、要するに見せしめということですか。

 そういう面はもちろんあったと思いますが、それだけで説明しつくすことは難しいですね。というのも、公開処刑には大きなリスクがあって、観衆が暴れ出すことがあるんですよ。たとえば処刑人がもたついたり、首尾よく執行できなかったりすると、興奮した民衆がその処刑人を処刑台から引きずり降ろして殺したりもしました。

 混乱に乗じて受刑者が放免されることもあったようですが、それが目的というより、おそらく突発的な激情でしょう。そういった危険性があってもやるのは、権力の側にとってそれを上回る利点があったからだと思うんですけど、それが現代の私たちに理解できるものかどうかはわかりません。

 中世には動物裁判というのもあって、動物も人間と同じように被告にされました。人殺しの動物を処刑するといって、実際に豚を縛り首にしたりしています。今だと考えられないですよね。でも、それが当たり前の社会で暮らしていると、誰も変だと思わないんでしょう。結局、道義的に何が正しいか正しくないかというのは、時代によって相対的だということです。

――時代や社会によって犯罪の定義が異なると。

 そう。それに、処罰の仕方も社会によってまったく違う。まったく違うんだけど、近世のヨーロッパと江戸時代の日本はなぜかよく似てるんですよ。その話はいつかまとめたいと思っているのですが。

――ヨーロッパでは罰の種類がたくさんあり、犯した罪に見合った罰が与えられるようになっていたんですよね。

 罪と罰との対応というのは身体刑の時代のひとつ後、啓蒙主義の時代ですね。身体刑の時代は罪と罰とがつり合うというより、罪に対して常に罰が過剰になるよう設計されていました。その方が王の権力を効果的に示せるので。つまり、身体刑はやる方もすごく大変なんです。体力も技術もいるし、手間もかかる。だから、処刑人というのは相当訓練された人じゃないと務まらなかった。

 江戸には処刑人の家系というものがありましたが、パリでも代々処刑人をやっていた有名な一家の例があります。その辺もよく似ているのですが、パリの処刑人の中には医者をやっている人もいたようです。

――え、医者ですか? 真逆の職業のように思えますが。

 医者というのは人体の専門家ですよね。一方処刑人は、拷問吏を兼ねていました。彼らは最終的に殺すにしても、すぐに殺してしまってはいけないし、痛めつけ方を知っていないといけない。死なない程度に十分に痛めつけるには、やはり人体の構造や機能に詳しくないとできないわけです。

――なるほど。身体刑というのはある種の儀式のようなものだったんですね。「ショー」とまで言うと言いすぎかもしれませんが。

 罪人の身体を使って権力の華麗さを示すわけです。それが頂点に達したのが絶対王政で、ダミアンの処刑が行われたのもまさにその時代です。絶対王政では「王殺し」が一番の重罪で、ダミアンの事件は未遂に終わったけれど、この時代に王を傷つけようとすること以上の犯罪はない。なので、それに対しては、考えうるかぎり最強度の罰を与える必要があったわけです。