――先生が研究されてきた先住民の暮らしには、私たちの「便利で豊かな」というマインドセットをunlernするヒントがあると思うのですが、今までにいろいろな暮らしを見てこられてどんなことを感じましたか。

 研究なんて大層なことは、ぼくはまともにやってないんです。ただ山や森の中の村に住む先住民と一緒に時を過ごしていると、心地がよくて、不思議に懐かしい感じがするんですよね。別にぼくはかれらのような暮らしを以前してたわけじゃないし、上の世代から聞いてたわけでもないのに。後になって思うとその懐かしさの感覚は、何か根本的なものに触れてるのかなって。

 便利で快適な暮らしはもう捨てられない、過去には戻れないみたいなことを言う人たちには、人間の歴史をもっと長い目で見る新しい歴史感覚が必要じゃないかな。ぼくらが便利さとか快適さとかと呼んでいるものなんてつい最近の出来事で、人間の経験としては実に薄っぺらで浅いものでしかない。身についたって言うけど、人類の歴史の99パーセントは野山を巡って、狩猟採集をやってたわけでしょ。私たちに本当に身についてるのはそっちの暮らしですよ。農的な営みでさえ、一番長いところでまだせいぜい1万年。だから心配しなくてもいい、今の便利さや豊かさなんて表面的なものでぜんぜん身についてなんかいないから。

――なるほど。

 舞踏ってあるじゃない?

――土方巽の?

 そう。あの舞踏が表現しようとしてきたのも、薄っぺらなものじゃない、もっと深いところにある身体性。俺たちは土人だとか、原人だとかと土方さんは言っていた。いや、ほんとにそうだと思う。つまり、われわれはみんな、ある意味、原人であり、先住民なんですよ。

 ぼくらの身体は、別に産業革命以降にできたわけじゃないでしょ。地球上に生命が生まれてから38億年とかって言われるけど、その綿々と続く命のつながりのこっちの端にいるわけですよ、ぼくたちは。そして山野を駆け巡って食べ物を得ていた頃の先祖たちと基本的には同じ身体をぼくたちは生きている。何も変わっていない。それなのにマインドの方が反自然なんだから、おかしなことにならないわけがない。「過去に戻れない」ということ自体がマインドセットであり、強迫観念なんです。

――確かにそうですね。

 身体の中の臓器っていうと、みんな単なる物か、機械だと思ってるけど、そうじゃない。最近はっきりしてきたのは、胃腸から、筋肉や骨まで、みんなそれぞれ知性を持っていて、常におびただしい量のメッセージをやりとりしているということです。脳からの指令を仰がなくても、互いにコミュニケーションをとりながら、この身体を主体的、自主的に「運営」してるという。大昔に人間が生まれたときから、ずーっと。

命は誰のものか

 さっきも話しましたけど、いま、多くの若者たちが病んでいる。〇〇病って名前が付かないものまで含めれば、本当に多くの人が問題を抱えて悩んでいる。なんか、とても脆いんですね。景気がどうだ、株価がどうだ、安保体制がどうだとかって、おじさんたちが大騒ぎしているうちに、足元が崩れている。日本の自殺者が最近減ったっていわれてるけど、若者では逆に増えているんです。

 最近、ぼくの周りにも多いんです。若者の心の病が。ついこの間も、メールで「先生、死にたいです」って。ま、ぼくにそういう時点で大丈夫かなと思ったけど、少し間をおいて、こう返事した。「 死にたいって、君、死っていうけど、その命は君のもんじゃないんだよ」って。そしたら、これまたしばらく間をおいてから、「え? じゃあ誰のもんなんですか」って。そのメールを見て、これは大丈夫だな、と思いました。

 ぼくは、今の世の中の危機って、元をただせば、そういう所有意識にあるんだと思う。この命は俺のもん、私のもんという意識。この手だって、身体だって、自分のものだと思ってる。でも、あなたが作ったものでも、買ったものでもないでしょって。

――そうですね、確かに。

 自分の身体が自分のものだって考えると、じゃあその自分って何者なんだってことが分からなくなる。科学が進めば進むほど、分かるようになるんじゃなくて、ますます分からなくなる。昔の人たちは科学なんか知らない。字だって読めない。書けない。でも、自分が何者かなんて悩んだことなかったでしょ、きっと。

 それと同じように、動物や植物も自分を疑ったことがない。身体が知性を持っているのと同じように、動物、植物の知性ということが今、世界でさかんに議論されてるんです。

――植物にも知性があるんですね!

 現代人は心がどうの、苦しいとか、楽しいとかいうけど、じゃあ心がどこにあるかと言われると頭を指さす人が多くなっている。心とは脳だと思ってる。でももちろんそれってすごく一面的ですよね。本来、心と身体っていうのは一体で、どっからどこまでが身体で、どっから先が心かなんて、本当は分からない。そしてその身体はその周囲の世界と切り離しがたくつながっている。それなのにぼくたちは心的な活動を頭脳に切り縮めてしまいがちです。だから教育も圧倒的に頭に偏っている。

――私もあるとき、自分の身体っていうけど、自分の意思で動かせるものなんて一部しかないってことに気づいておどろいた記憶があります。心臓だって自分が動かしてるわけじゃないですし、お酒を飲んでアルコールが分解されるのも、肝臓が自主的に頑張ってくれてるわけですもんね。だから、よく言われることですけど、この身体自体がひとつの自然で、ひとつの生態系なんだってことに気づくと、悩みを抱えている若い人たちも、少しは見方が変わるんじゃないかなって。

 本当にそう思います。心を病んで苦しんでいる人を前にして、ぼくがよく感じるのは、体が置き去りにされている、ということなんです。「死にたい」という人が目の前にいる。ぼくはどうしたらいいか分からないけど、「とにかく一緒に歩こうか」とか、一緒に身体を動かしてみようかとか、そんなことぐらいなら言える。まあ、それしか言えないんじゃないかな。これはぼくが若い頃から少しずつ身につけてきた知恵だったような気がする。辛い時にはちょっと森ん中を歩いてみるとか、海岸を走ってみるとか。

――ご著書『スロー・イズ・ビューティフル』(平凡社)で書かれていた、空気や水が自分の命そのものだっていうのも、すごくいいなって思いました。自分の体内にあった水が外に出て、川の流れになって、海に出て、蒸発して雲になり、雨になってまた落ちてくる。そう考えると、私たちの身体って、空気や水が循環する通り道ですよね。大きな回路の一部として、誰もがそれにつながって生きている。

 本当にね。自分が地球の巨大な運動の一部だっていう感覚を持つと、ぼくらがいままで強調してきた「自立」っていうのも、「何だ、それ?」っていうことになる。世界から自立できている人間なんかどこにもいない。ちゃんと就職して、金を稼いで自立しなさいなんて言うけど、どこが自立なの。ぜんぜん自立してないじゃない。ますます人間がつくったシステムに依存していってるだけじゃない。生態系のおかげで、太陽のおかげで、空気のおかげで、水のおかげで生きてることに変わりはない。

 便利だ、豊かだっていってるうちに、ぼくらは変な幻想だけを増長させて、肝心なことをどんどん見失ってきている。便利になることが幸せで、不便は苦痛で不幸だっていうけど、そんな二元論は実はぜんぜん成り立たない。本当の快楽は、不便の側にこそあるのかもしれない。

――おっしゃる通りだと思います。

 人間とはこういうもんだよ、なんて、そんな簡単に言うべきじゃないですよ。メディアにしても、教育にしても、そういう単純化をずっとしてきたでしょ。便利になるのは常にいいこと、これ買わなかったら幸せになれませんよ、とかね。嘘ですよ、そんなの。