――先生は「オタク」や「やおい」の研究もされていているそうですが、そもそも「萌える」っていうのはどういう状態なんですか。

 うーん、それは難しいですね。たとえば、いわゆるオタクの人たちは、虚構の世界のなかに「楽しみ」をみいだしています。自分の大好きなアニメや漫画や音楽や物語を、見て聴いて読んで、それについて語る、というのがオタク活動です。その一環としてそうした「原典」をさらに虚構化して純粋にその虚構性を楽しむという「二次創作」の活動があります。いわばその「楽しみ」の源泉になるものが「萌え」なんじゃないか、「萌え」によってそうした活動が触発されるわけです。

 やおいの場合は、原典となる物語があって、そのなかに「もう一つの物語」を紡ぎだす端緒となるもの――登場人物たちのちょっとしたしぐさや会話やまなざし、キャラクターの個性や特別な関係性など、ありとあらゆるもの――をつねにみいだしています。一瞬のしぐさやまなざしによって誰かと誰かの関係性といったものを想像、妄想できてしまう。それがやおいにおける「萌え」です、関係性に萌えるってことですね。

――想像力を触発されるみたいなことですか。

 そうですね。オタクややおいにとって「萌え」は自明なことだから定義するのはなかなか難しいと思いますけど。オタク的な活動っていうのは、単に何かを集めたり、漫画やアニメが好きだったり、という従来のマニアの範囲を超えているんですよ。アイドルが好きっていうだけだったら、それは単なるアイドルのファンだから。

 やおいでは「生もの」というジャンルがあって、好きな男性アイドルグループをいわば「原典」としてさまざまな二次創作がつくられています。オタクたちは、メンバー同士がわちゃわちゃしている、という状況が大好きです。テレビやコンサートや雑誌の記事や写真のなかにみいだされるそうしたわちゃわちゃした場面を何度も反芻してとことん「楽しむ」わけです。そしてそのメンバーのなかから「二人」を選びだして、そこに虚構の愛の物語を構築する、それがやおいの実践です。

――そのメンバー同士がわちゃわちゃしてるところに自分自身は関与しないんですか。

 その中に自分が入り込むっていうのも、二次創作の王道としてあります。そのアイドルを所有したい、支配したいという感覚は特に男性に強いと思うんですけど、女性にももちろんある。

 でもやおいはそうじゃなくて、自分がそこにいてもいなくてもいいっていうか、むしろいない方がいい。のぞき見してる、わちゃわちゃしてるのを陰から見てるのが好きっていうように、物語をつくっている「私」自身はそこにはいない。私の不在、妄想してる主体がどこにも現れないっていうのがやおいの特徴だと思います。

――主体が個人としてあるのではなく、その妄想の場にあまねく広がっているみたいな。

 そう、「私」という主体はどこにもいないし、どこにでもいる、二人の愛の関係を成り立たせている物語の世界全体に、いわば遍在し溶解し拡散している、ということです。

――やおいは二次創作であるということが重要というか、核心なんですよね。原作がありつつ、その中には現れない関係を妄想する。でも、もしもそれが書かれちゃったらどうなるんですか。

 それはある意味で絶対に書かれない物語なんです。原典の物語から二次創作の「愛の関係」まで、ほんの一歩なんだけど、その一歩は何億光年もの宇宙を跨ぐくらい遠い距離なんです。そこの間隙(かんげき)を埋めるのが二次創作、つまりあったかもしれない物語であって、それはオリジナルには絶対にない。作品の世界観やその中に出てくる人間関係、過去のエピソードを踏まえれば、まさに「あったかもしれない物語」としてのリアリティは圧倒的で、あと一歩でそこに行くように思えるけど、けっして行かない。そこが萌えでもあるわけです。これこそ読みたかった、しかしけっして読むことのできなかった「もう一つの物語」だと心底思えるわけだから。そしてそれはオリジナルへの愛ですよね。愛がなければ二次創作は書けない。

――以前聞いた話では、「サザエさん」に出てくるマスオさんとノリスケさんがそういう関係になるっていうのがあるらしくて。

 本当に、何にでもあるんですよね。やおいの想像力は無限で、逞しい。

――攻めと受けの違いで、「マスノリ」か「ノリマス」かっていうのがあるっていう。

 そこは、重要ですからね。どっちが先にくるかっていうのが。

――重要なんですね。

 同じカップリングでもどっちが先かによって、萌える人、萌えない人、どっちも萌えるっていう人がいる。

関係性志向

――一般的に言って、男性は性行為そのものに対して興奮し、女性はそれも含めての関係性に惹かれるということがあると思うのですが、それはなぜなんでしょう。

 精神科医の斉藤環さんは、女性は関係、男性は所有という欲望の形式を通じて自らを主体化している、と論じています(『関係する女、所有する男』講談社現代新書 2009)。それを踏まえていえば、男性の欲望は対象を所有するという一点に向けて収斂(れん)していくのに対して、女性は物語の時間軸に沿ってその設定や世界観や関係性の絡みあいなどあらゆる「萌え要素」を味わい尽くしながら、いたるところに快楽を感受し持続させていくことができる、ということだと思う。

 所有は主体が対象を所有するという関係性が直接的ではっきりしている。男性の快楽は直接的な行為の中の一瞬にしかない、と言うじゃないですか。女性にとっては、直接的な関係、その瞬間だけではなく、むしろそこにいたるまでの関係性がどのように描かれているか、つまり物語が重要なんです。

 やおいにはポルノグラフィと見まがうものから、本当に淡いちょっとしたやりとりしか描かれないものまであるんですけど、ラディカル・フェミニズム的にいえばそうしたすべての関係が性関係です。つまり男として、女として見るってこと自体がもう性関係だと考えるから、たとえば目と目を見交わすだけでも性関係になる。女性は瞬間的・直接的な快楽だけではなく、目と目を見交わす、手と手が一瞬触れるっていったところにも物語を感受して快楽を得ることができる。どの関係性にも、どのプロセスにも、快楽をみいだしているんじゃないかって思います。

――男性は瞬間的だけど、女性は持続的というか。

 そうですね。瞬間的なところに至るまでの時間を快楽として設定できるってことはあるんじゃないかな。ただここでいう男性、女性という類型はあくまで蓋然的な可能性ということで、男性にも関係性に萌えをみいだす人、女性にも所有に拘る人はもちろんいますからね。

――やおいのカップリングは男男だけじゃなくて、女女でも、男女でもあり得るんですか。

 そう、あり得ると思います。やおい的な関係性の核心にあるものは、現実のジェンダーの男と女の関係性にはけっして還元できないもの、ということなんです。だから男男でも女女でも、そして男女であっても、そこに二人の「現実にはない虚構の」「自由で対等な関係」がみいだされれば、それはもう「やおい的」なものなんですね。現実のジェンダーの構成にがんじがらめになっている中で、その権力関係から僅かでも逃れた男と女の、いわば理想の関係性がもし描かれているとすれば、それは「やおい的」であるとみなされる、ということです。やおい的な男女の恋愛っていうのは、たぶん形容矛盾的なところがあるとは思いますが。

――男、女という区別を超えて、いわばジェンダーの彼岸にいってるってことですね。

 そう、虚構ですから、現実のジェンダーの彼岸なんです。でも現実とまったく無関係なものではない。心のなかで何をしても現実とは関係ないということではない、現実のジェンダーへの回路は確かに存在する、そこが複雑でおもしろいところです。

――現実を基盤にしているんだけど、現実では絶対にありえないというのが萌えの核心なわけですね。

 そうですね。

――なんか神みたいな感じですね、関係性を志向するというのは。

 神?

――現実ではありえない関係性の世界を創出している。創造神になってるわけですよね。

 神って言葉が出てくると思わなかったけれど、たしかにオタクは、神的だ、神的展開だとか言いますね。

――やおいは個人を抜け出ているんですね。男の場合はあくまでも自分、これも男って言っちゃダメなのかもしれないですけど、普通は自分がいてあのアイドルと付き合いたいみたいな、すごく直接的なものでしかないけど、やおい的な世界の構造を知っちゃうとそれだけじゃつまらないですね。

 そうなんですよ。だから男、女っていうふうに言っちゃいけないかもしれないけど、今のところは、想像力の豊かさとか、節操のなさっていうのは、やおい的な関係性志向のほうに存分に発揮されているんじゃないか、と。私は「虚構のリアル」という言葉を使っているんですが、「虚構のリアル」という無限の「楽しみ」を知らないなんて、それはあまりにももったいない、と思うんですね。

(取材日:2017年11月16日)