花が笑う

 前回は、花のような美少年に恋する僧侶の話でした。仏教は実は花と関係が深いのです。『華厳経(ガンダヴューハ・スートラ)』の「ガンダヴューハ」は、花による荘厳という意味ですし、『法華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)』も、泥水の中にあって汚れに染まらず、美しく咲くプンダリーカ、すなわち白蓮を題名としています。

 問題は「咲」という漢字です。花が開くのですから、漢字であれば、くさかんむりとなりそうなものなのに、言葉や音を発する動作であることを示す口偏となっています。しかし、これは当然であって、「咲」という字は、もともとは「わらう」という意味でした。

 中国の古典漢文では、花が咲くという場合、「開」ないし「発」の字が使われるのが普通です。しかし、六朝後期から唐代にかけて、動植物を人間になぞらえて描く漢詩が流行するようになりました。その結果、花が開くことを「笑う」と表現する例が増え、「咲」の字を用いる場合も出てきたのです。

 たとえば、梁の昭明太子(501-531)の「南呂八月」と題する詩では、「黄花咲(黄花、咲[わら]う」と述べており、初唐の駱賓王[らくひんのう](640-684)の「蕩子従軍賦」では、「花有情而独笑 鳥無事而恒啼(花、情有りて独[ひと]り笑い、鳥、事無くして恒[つね]に啼[な]く)」と歌っています。

 *「蕩子」=上流階級の遊び好きな息子。

 こうした擬人法がどれほど盛んだったかは、唐を代表する歴史家であった劉知機(661-721)の『史通』が、「最近の通俗な詩人たちは、鳥が鳴くことを『啼く』、花が発[ひら]くことを『笑う』と表現する。どうして花と鳥に泣いたり笑ったりする情があろうか」と批判していることからも知られます。

 ただ、「花が咲く」という表現は、中国ではあくまでも漢詩文における気取った表現であるにとどまり、現代中国語では花が咲くという場合は「開」の字を使うのが普通です。一方、日本では「咲く」が一般的な表現となり、「咲」は「わらう」という意味の字だったことは忘れられてしまいました。

釈智蔵の漢詩

 では、日本で最初に「花が笑う」という表現を用いたのは誰なのか。現存文献から見る限りでは、天智天皇の頃に唐に渡って南地で三論学を学び、持統天皇の頃に帰国して僧正となった釈智蔵(生没年不明)の可能性が高そうです。智蔵は、呉から渡ってきた福亮僧正が僧侶になる前にもうけていた子とされています。つまり、渡来人の子であって入唐した経歴を持つ僧侶が、「花を笑」わせたのです。

 奈良中期に淡海三船(722-785)が編纂したと推定される漢詩集『懐風藻』に、その智蔵の「翫花鶯(花と鶯[うぐいす]を翫[もてあそ]ぶ)」と題する五言詩が収録されています。「翫ぶ」は、賞美することです。「翫花鶯」では、自分は僧侶なので人と語ることも少ないが、かぐわしい春となったため外出したところ、「求友鶯嫣樹 含香花笑叢(友を求めて鶯は樹に嫣[わら]ひ、香を含みて花は叢[くさむら]に笑[え]む)」という情景が広がっていた、と述べています。

 鶯は友を求めて樹の上で色っぽく微笑み、花は香りを含んで草むらで笑っている(咲いている)、というのです。香りの良い花というと、代表は梅か蘭か百合ですが、草むらで咲いているとなると、梅ではない可能性が高そうです。いずれにしても、鶯も花も魅力的な女性であるかのように描かれています。

 僧侶の漢詩としては色っぽすぎるように見えますが、上で述べたように、智蔵が入唐した頃は、こうした擬人法が大流行していた時期ですので、智蔵はそれにならったのでしょう。

「咲」の語の定着

 智蔵一人の影響ではないでしょうが、『万葉集』もそのような擬人法の影響が強く、花については「開」だけでなく、「笑」の字や「咲」の字も用いています。小野老[おののおゆ](?-737)が728年頃に詠んだとされる巻3・328の有名な歌、

 青丹吉 寧楽乃京師者 咲花乃 薫如今盛有  

(あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり)

も「さく」を「咲」と表記していますね。

 ただ、この「咲」は俗字であって、中国古代の文献には登場しません。漢字辞典の基本である後漢の許慎(58?-147?)の『説文解字』(100年)は、9353字も収録しているのに、「咲」の字は入っていないのです。

 この点について、陸徳明(?-630)の『経典釈文』(583年?)では、「元の本では㗛となっている。笑は俗字である」と述べています。口偏の「㗛」が略されて「笑」となったという説明です。

 上野老の歌では、「咲花」を「さくはな」と訓んでいたと思われますが、『万葉集』巻7・1257歌では、

 道辺之 草深由利乃 花咲爾 咲之柄二 妻常可云也

(みちのべの くさふかゆりの はなゑみに ゑまししからに つまといふべしや)

とあります。この歌の場合、草深い中で目立つ百合について「花咲」と表記しており、「咲」の状態だからといって「妻」と呼んで良いでしょうか、いや無理です、という文脈であるため、「さく」ではなく、文字通りに「ゑむ(笑む)」と訓ませたものと思われます。これも女性が魅力的に微笑む様子になぞらえていますね。

 なお、「微笑」という語は、仏教経典を漢訳する際に、smitaなどの語の訳語として生まれたものです。釈尊が笑う箇所で用いられていることが多いため、何とかして上品な感じを出そうとして工夫されたように思われます。

中国における「花咲く」の例の代表

 藤堂明保編『学研 漢和大辞典』(学習研究社、1978年)の「咲」の項目を見ると、「日本では、『鳥鳴き花笑ふ』という慣用句から、花がさく意に転用された」とありますが、正しい説明ではありません。

 この慣用句の出典は、元の禅僧、了庵清欲[りょうあんせいよく](1288-1363)の「送達侍者(達侍者を送る)」という送別の詩のうちの、「鳥啼花咲春融融(鳥啼き花咲みて春融融)」という句です。原文では「鳴」でなく「啼」になっており、劉知機に怒られそうな類型的な作ですね。「春融融」の「融融」は「悠々」と同じ意味であって、「春融融」も元の頃の漢詩にしばしば見える類型的な表現です。

 *侍者=高僧に仕えて事務面などの補助をする僧。

 清欲は、「鳥啼き花咲きて」という表現が気にいっていたらしく、「送楚蔵主自鍾山回天台省親(楚蔵主[そぞうす]の鍾山[しょうざん]より天台に回りて親を省するを送る)」という送別詩でも「鳥は啼き花は咲む千峯の上」と詠んでいます。ワンパターンですね。

 *「蔵主」=寺の経蔵を管理する役職を意味したが、後には僧を尊重して呼ぶ際の呼称となった。*「親を省す」=親を思いやって帰省する。

 了庵清欲は、元に渡った日本の禅僧たちと交流しており、書に巧みなことで有名であったため、その墨跡が尊重されて日本に数多く伝えられています。中でも的蔵主[てきぞうす] に与えた『法語』は見事な作であり、国宝となっています。「鳥啼き花咲きて春融融」という句が広まったのは、清欲のこうした人気も一因となっているのでしょう。

 このように、 「花が咲く」という言い方を日本で最初に用いたのは渡来系の僧侶であり、また室町時代頃からこの表現が広まるきっかけとなったのは中国の禅僧でした。日本文学は、「花を笑」わせた智蔵や清欲を含め、僧侶の作品から大きな影響を受けていたのです。