前回の記事は、興福寺中金堂の阿修羅像の話でした。細身であって、愁いを帯びた少年のような表情によって人気が高い像です。ただ、魅力的な少年というと、日本仏教の場合、どうしても寺院における少年愛に触れざるを得ません。日本の貴族・武家社会では男色がきわめて盛んであり、特に寺院では、戦国時代にやってきたイエズス会の宣教師たちが衝撃を受けるほど普通のこととなっていたのです。

 中世の格式ある寺には、僧侶以外に、下働きをしたり、僧侶の身の回りの世話をしたり、儀礼に参加したりするなど、様々な仕事をする少年たちがおり、出身身分によって階層が分かれていました。そうした中で、学問や技芸の習得のため、あるいは僧侶となるために寺に入った貴族の子弟のうち、容貌が美麗で上位の僧に供奉[ぐぶ]する少年は、稚児[ちご]として格別に尊重されました。

 こうした稚児は、大がかりな儀礼において稚児舞を演じて儀式を荘厳するなどの役目を担っており、寺の花形とみなされていたのです。当然ながら、こうした稚児は、女犯禁止を建て前とする寺では、少年愛の対象となりがちでした。

『秋夜長物語』

 比叡山のふもとの坂本には、天台宗の僧を育てる叡山学院があります。私はそこで15年ほど前に「草木成仏説の背景としての和歌」と題する講演をした際、「ここは少年愛の本場です」という言葉で始めました。

 そして、少年愛を文学作品に仕立てたのは、天台宗・真言宗・南都仏教・臨済宗など、皇族・貴族と近い関係にあった宗に限られており、私が務めていた駒澤大学を創設した曹洞宗を含め、真宗や日蓮宗など、民間に広まっていった鎌倉仏教の諸宗にはそうした文学作品はないと述べました。つまり、少年愛文学は優雅な貴族文化の中で生まれたものなのであって、「さすが天台宗」と賞賛したうえで、そうした作品について語ったのです。

 これは、十二年の籠山行[ろうざんぎょう]を果たされた叡山学院院長の堀澤祖門師が、私の講演の直前になって本山から急ぎの用事で呼ばれ、比叡山に向かわれたため気楽になり、口がすべったのですね。その数年後、海外のシンポジウムで堀澤師とばったり出逢ってしまったところ、講演について感謝され、「先生のご講演は大変話題になりました」と告げられたため、冷や汗をかくと同時に因果応報の理を思い知さられたことでした。

 ただ、講演では、比叡山を舞台にした少年愛文学の作品と本覚思想の関係について、新たな視点を示しましたので、内容自体は学問的なものでした。また、京都大学経済学部在学中にいろいろな悩みをかかえて比叡山に登り、天台宗に入られた堀澤師は、学問に関心が深い学僧でいらっしゃるため、「草木成仏」に関する最近の研究状況について話がはずみ、私の講演がどのように「話題になった」のかを聞かずにすんだのは幸いなことでした。

 その講演でとりあげたのが、南北朝期に成立した稚児物語の傑作、『秋夜長物語』です。主人公は、比叡山延暦寺の文武両道の達人であった桂海という僧です。坊さんでありながら文武両道というのはおかしいようですが、この言葉は、もともとは鎌倉時代あたりの僧兵について賞賛する際、「文武二道」に通じていたなどと言われていたのが元であって、武士について言われるようになるのはそれ以後のことです。

 さて、桂海は、修行に身が入らなくなったため、石山寺の観音様に祈願しに出かけたところ、途中の三井寺で梅若という絶世の美少年を見かけます。桂海は、梅若の従者である桂寿に手引きを頼み、梅若と恋仲になることができたものの、比叡山に戻るとなかなか三井寺に行くことができません。しびれを切らした梅若が桂寿を連れて比叡山に向かうと、途中で天狗にさららわれて洞窟に閉じ込められてしまいます。

 美しい稚児は寺全体のアイドルでしたので、梅若がいなくなった三井寺では大騒ぎとなり、延暦寺の僧のしわざと決めつけました。戒壇(授戒を行う壇)を独占し、他の寺には設置を認めない延暦寺と対立して長年争っていた三井寺は、これを機に戒壇を設けてしまおうということになって盛り上がります。そして、こんなことになったのは梅若の父親である花園左大臣の指図に違いないとして都に向かい、その邸宅を焼いてしまいます。

 この話を聞いた延暦寺では、僧兵の軍勢を集めて三井寺まで攻め寄せます。三井寺側は防戦に努めたのですが、桂海が獅子奮迅の働きをして三井寺の軍勢を打ち破り、堂塔を燃やしてしまいます。残ったのは寺の守り神である新羅明神の社[やしろ]だけでした。

 その話を真っ暗な洞窟の中で聞いた梅若が、龍神の助けで空を飛んで三井寺に戻ってみると、寺塔がすべて燃え尽きていたため、桂海にあてて自殺を暗示する和歌を送ったのち、川へ身を投げてしまいます。その手紙を受け取ってあわててやって来た桂海は、流れに浮かんでいる梅若を見て嘆き悲しみ、以後、遺骨を首にかけて各地を修行してまわる身となりました。

 一方、三井寺の僧侶たちは、離散する前にただ一つ残った新羅明神の社に集まって通夜をしていると、比叡山の守り神である日吉の山王神がやって来たのを新羅明神が歓待する夢を皆が見ます。翌朝、僧侶たちが不審に思って新羅明神に尋ねると、自分は仏法を守る神であって寺を守る神ではないと答え、この事件によって桂海が発心したのが嬉しい、梅若は実は石山寺の観音の化身なのだと告げたため、三井寺の僧侶たちも発心するに至ります。そして、桂海は修行を重ねて瞻西上人という立派なお坊さんとなり、教化に努め、極楽往生をとげました、となって話は終ります。

少年愛文学と天台本学論

 さて皆さん、お気づきでしょうか。この話の登場人物は、桂海、梅若、桂寿、花園左大臣であって、すべて植物の名になっているのです。しかも、桂海が梅若をみそめたのは、春雨の中で桜の花の枝を折る姿であったうえ、梅若は入水する際、名前の通り、紅梅の小袖を着ていましたので、遺体は川を流れていく紅葉のように見えたのです。植物の精の物語のようですね。

 これは、すべての生き物には仏の本質、素因があると説く仏性(ぶっしょう)思想を、日本の天台宗がさらに推し進め、草木国土までが仏となる、いや仏そのものなのだと説いた天台本覚論[ほんがくろん]が物語の背景となっているためです。

 天台本覚論では、秋になって木の葉が紅葉して散っていくのは、無常のようでありながら、その無常なあり方がそのまま永遠の真理の姿だと説きますので、逆に、現象の無常さを強調するようになります。それが少年愛文学と結びつくのは、少年の美ははかないためですね。

 女性であれば、可愛らしい少女時代だけでなく、それぞれの年代ごとの魅力がありますが、少年の場合は、成人すると髭が濃くなったりしますので、美少年として愛される時期は限られているのです。『秋夜長物語』の梅若が美しさの頂点で自殺しているのは、それも一因でしょう。

 他に室町期の『鳥辺山物語』でも、少年は若くして死にます。この物語では、東国の僧侶が美少年を見初めて愛し合うようになったものの、僧侶が主人に従って東国に帰ると、美少年は悲しんで病気となり、亡くなってしまったため、その父も悲痛のあまり息子の墓前で死のうとしたところ、とめられて出家したとしています。

 この二つの物語は、愛する者を失って発心し、修行に努めるようになったとしており、悲しくも有り難い話に仕立てられていますが、現実には寺院内の少年愛玩は、上級の僧の欲望を満たすためだけの場合も多く、僧が他の美しい少年に心変わりすると、それまで寵愛していた稚児を簡単に見捨てることもありました。このあたりの事情は、男女の場合と同じです。

 また、交接にあたって、稚児のことを僧を救済する菩薩の化身とみなす儀礼をおこなうこともおこなわれました。ただ、これは単なる正当化とは言い切れません。神秘的な信仰に基づく儀礼が盛んだった中世のことですので、僧たちが美少年に心惹かれつつ、そうした儀礼による稚児の神聖化を本気で信じていた場合も多かったのですから、事態は複雑なのです。