――第4の拡大成長ではなく、新しいコミュニティの構築という方向に向かうべきだというのは私も心から共感するんですけど、ではそのためにどうすればいいのか。コミュニティというのものが農耕の共同性から必然的に生まれてきたものだとするなら、お金さえあれば一人でも生きていけてしまう現代で、どのようにして人と人のつながりを取り戻すのかといった点が重要だと思うのですが、いかがですか。

 おっしゃる通り、この辺りが一番大事になってくると思います。私は一番上が個人、真ん中がコミュニティ、一番下が自然というピラミッドの図を本によく入れるんですけど、さっきからお話している資本主義とか近代以降の社会というのは、ピラミッドの突端にある個人がどんどん肥大化し、その土台であるコミュニティや自然から切り離されていったということだと思うんですね。この状況を改善するには二つのベクトルが必要だと思っていて。

 一つは個人から下に向かうベクトルで、切り離されてしまったコミュニティや自然とのつながりを回復していくこと。これには農村型コミュニティの一体感とか共同性といったものがキーワードになります。もう一つは個人から上に向かうベクトルで、これは都市型コミュニティ的というか、各個人が独立しつつも公共性によってつながっていくというものです。

――農村型と都市型、共同性と公共性の両方が必要だと。

 話がちょっと飛ぶようですけど、マズローの欲求の5段階ってありますでしょう。私、以前はあれをちょっと軽く見ていたというか、これくらいなら中学生でも考えつくと思っていたのですが、最近見直していまして。

 というのも、少し前からポジティブサイコロジー――これまでの心理学が人間のネガティブな面ばかり掘り下げる傾向があったのに対し、人間のプラスの面を引き出していこうという心理学――というものが非常に活発になっているんですけど、その中でマズローの理論が再評価されているんです。

 そう言われて見てみるとマズローの理論は確かによくできていて、5段階の一番下が食欲などの「生理的欲求」で、2番目が「安全欲求」なんですけど、この二つは個体レベルなんですね。

 そして3番目が愛情などの「帰属欲求」、4番目がよく話題になる「承認欲求」で、ここには尊厳とか誇りの感情も入るんですけど、この二つがまさにコミュニティ。集団に属したい、他者から承認されたい、自分の存在を正当に扱われたいというのは全部コミュニティレベルの欲求なんです。

 そして一番上が有名な「自己実現」ですけど、これは生物学的な個体ではなく近代的な個人としての欲求。ですから、今言った個体→コミュニティ→個人というのは、最初の方でお話した、狩猟採集から農耕がはじまって近代になるという、人類の歴史と対応していているんですよ。

――それは面白いですね!

 ここで注目したいのは、マズローは後に、自己実現のさらに上に「自己超越」といものを付け加えたんですね。これは非常に奥が深いというか、いろんな意味を持っていると思っていまして、つまり自己実現はもちろん大事なんですが、それだけだと近代の発想というか、結局は自分で完結してしまう。

 それに対して自分を超えていく自己超越は、公共性にも、コミュニティや自然、もっと言うと宇宙も含めた生命の根源につながっていくものになりうるのではないかと自分なりに解釈しています。

――先ほどのピラミッドの図ともつながってきますね。公共性と共同性の両方向に自分を超えていく。

 そうなんです。近代以前のコミュニティに戻るのではなく、近代的な自我、個人というものを踏まえた上で、さらにそれを超えて、他者や自然とつながっていく。

 こう言うとやや観念的というか抽象的に聞こえるかもしれませんが、これは本にも書いたことですけど、私のゼミの卒業生で、社会貢献のためのソーシャルベンチャーを立ち上げた学生が、自分がやりたいのは自己実現じゃなくて世界実現だと言っていたんですね。自己実現というと自分のためにやるみたいだけど、そうじゃなくて世界を解決したいんだと。これなんかはマズローの自己超越と非常につながるのではないかと思います。

――マズローの五段階欲求に関して言うと、あれは反対にして、自己実現を一番下にすべきだという議論があるというのをどこかで見た覚えがあります。

 おっしゃる通りで、マズローの理論にはいろんな批判があり、いちばん多いのが決してあの順番ではないというものです。ただ、あれはいわば動物の進化の順番を言っているのであり、下の欲求が満たされなければ上に行けないということではない。

 極端な例で言うと、自分の信仰のために命を投げ出すといったことも人間はするわけですから、上の方が下よりも優先順位が高くなるということは当然あり得るわけです。その点は確かにそうなんですが、決して個体の命を捨てるということではなく、近代的な自己を超えた先につながりを模索していくというのがこれからの時代の新たな方向だと思います。

価値基準としての自然

――自己を超えるということで言うと、個人的には宗教が頭に浮かびます。多くの宗教には信者が守るべき戒律がありますよね。自分の好きなように行動できないのは、一見すると縛られて息苦しい感じもするのですが、自分を超えた存在を信じることで、むしろ心穏やかに生きられるのではないかとも思うんです。

 今の世の中は、自分のやりたいことをやる、それこそ「自己実現」が一番いいことだというのが常識になってると思うんですけど、はたして本当にそうなんだろうか。自由であることが、あるいは自由じゃなきゃいけないと思わされていることが、逆に私たちを生きづらくしているのではないか。それが宗教的なものかどうかは別としても、無条件に従うべき倫理とか規範がある方が、もっとよく、もっとラクに生きられるんじゃないかって、感じることがあります。

 今いわれたことは今日のテーマの根底というか、核心に関わる部分だと思います。私が倫理や哲学といったテーマに関心を持つようになったのは、遡れば高校3年生の頃だったんですけど、そのとき実は自分がなにを基準に物事の是非とか善悪といったものを判断すればいいのかがわからなくなってしまっていたんですね。それは自分の進路の問題とも関係していたんですけど。

 それから大分経って『コミュニティを問いなおす』という本を書いた頃に、ようやく当時の自分を多少外側から見ることができるようになり、それはよくも悪くも戦後の日本社会を反映していたんだなと気づいたんです。

 とにかく経済成長すればいい、豊かになればいいというけど、それでみんなが幸せになれるというのが信じられなくなっていた。かといって、集団の「空気」みたいなものは心許なく、とても指針にできない。それで、生きていく基準みたいなものを求めて、哲学系のほうに迷い込んでいったんだなとわかったんです。

――大学に入る前に、世間一般の流れに疑問を持たれたんですね。そして哲学に「戒律」的なものを求めたと

 今いわれたことを多少自分に引き寄せて解釈した面がありますけど、戒律ではないにしても、規律とか基準といった拠り所になるもの、それが特に今の日本社会では見えないというのは核心に関わる問題だと思います。

 歴史を振り返ると、江戸時代までの日本はそのあたりを神と仏と儒教が支えていました。それが明治以降は国家神道となり、戦争に負けた後はとにかく経済成長。でも、今では経済成長もままならないので、本当になにを拠り所にしたらいいのか見えなくなっているという状況だと思います。

――なかなか難しいとは思いますが、ここからどうしていけばいいのでしょうか。

 私もまだ最終的な答えが出ているわけではないのですが、さっき地球の有限性みたいなこともいいましたけど、ひとつの可能性として「地球倫理」というものが考えられるのではないかと思います。

 前にお話しした通り、農耕による拡大成長が限界に達した紀元前5世紀頃に仏教や儒教、老荘思想、旧約思想、ギリシャ哲学といった「普遍宗教」、ないしは「普遍思想」が生まれたわけですが、工業化による拡大成長が限界を迎えた現代においては、地球上の各地域における思想や宗教、自然観、世界観といったものをメタレベルから俯瞰しつつ架橋していく「地球的公共性」を持った倫理を生み出していくべきではないかと考えています。

 そのヒントというか土台として、私は「自然」というものが最も重要になってくると思っています。この場合の自然というのは、単に草木や水や空気といった物質的なものではなく、日本では八百万(やおよろず)の神様といわれてきたように、ある種の内発的な力を持ったもの、さらにいえば有と無、生と死をも含みこんだ自然――私は「自然のスピリチュアリティ」と呼んでいますが――というものがこの世界の根底にあるのではないか。そういう考えに達したのは40歳を過ぎた頃ですが、以来それが私の拠り所に――その後も迷いを繰り返してはいますが――なっています。

 その具体的な試みのひとつとして20年ほど前から、「鎮守の森」の意義を再発見・再評価していく「鎮守の森コミュニティプロジェクト」というものをやっていまして、ここ数年ではささやかな成果も出はじめています。

――すごくよくわかります。自然自体がひとつの倫理というか、基準としての自然というか。『ポスト資本主義』の中で取り上げておられたテツオ・ナジタの考え方もすごくいいなと思いました。

 『相互扶助の経済』ですね。あの本は枕には高すぎるくらい分厚いんですけど、いい本だと思います。経済というのは今いわれているような利潤を極大化するものだけではなく、相互扶助の経済という、それぞれの共同体を超えて人をつなげるようなものがある。そういったある種の原理・原則のようなものが江戸時代までの日本には一定程度存在していた。

 ではなぜ共同体を超えてつながるのかというと、自然というものが共通の土台としてあるからだ、といった議論です。もちろんこれをそのまま現代に適用するのは難しいので、現代的に展開する必要があるかと思いますけど、指針になるものだと思います。

――ちょっと話がずれちゃうかもしれないんですけど、以前、日本人がなかなかジェンダー平等や移民の受け入れといった人権意識を持てないのは、普遍的な「権利」というものがうまくイメージできないからではないかという話を聞いたことがあって、なるほどと思ったんです。

 「空気」に流されるっていうのもそういうことですよね。この場をどうするかということだけが問題なので、メンバーが変わるたびに自分の意見も変わっていく。それでは原理・原則に基づいた議論はできないなって思います。自戒を込めてですけど。

 それは本当に深刻だと思いますが、一方でそれではいけないと思いはじめている人もいます。希望を込めていうと、学生とか若い世代にはその次の方向みたいなのが出はじめてるように感じます。

 明治以降の日本社会というのは集団で一本の坂道――富国強兵だったり、帝国化だったり、経済成長だったり――を登る社会だったわけですね。一本道ですから、良くも悪くもコミュニティの凝集力が非常に強くなり、多様性はなくて画一的です。

――まさに大きな共同体としての国家ですね。

 それが2008年に人口のピークを迎え、人口減少社会に移行したにもかかわらず、いまだに集団で一本の道を登るという発想からなかなか抜け出せないでいる。別のいい方をすると、すべてが東京に向かって流れ続けているんです。しかし人口減少社会になったことで、私は逆に希望というか可能性があると思っているんです。

 山登りにたとえると、登りのゴールは頂上だけですが、頂上まで行ってしまったら下りは360度。道が無限に開けているわけです。社会の構造自体が、集団で一本道を行くのではなく、個人が自分の好きな道を選んで進む方向に変わる。それが最近のローカル志向みたいなのものにも多少関係していると思います。

――徐々に変化は見えはじめているんですね。

 経済成長一辺倒ではなく、自分の好きなことをマイペースでやっていくというのが人口減少社会の特徴だと思いますので、そのときに、話が元に戻りますけど、拠り所となる倫理や規範を求める意識がおのずと出てくる、ということではないでしょうか。