西ローマ帝国の滅亡と東ゴート王国の建国

 キリスト教が国教化された3年後の395年、テオドシウス帝の死にともなって広大なローマ帝国の領土は二分割され、西ヨーロッパにホノリウス帝が治める西ローマ帝国が誕生します。アドリア海に面したラヴェンナは帝国の首都として402年から455年まで大いなる繁栄を遂げるのですが、この時期に建てられたサンタ・クローチェ聖堂付属礼拝堂(ガッラ・プラチーディア廟堂)の装飾を前回のコラムで取り上げました。

 首都がローマに移された20年程後の476年、帝国軍人オドアケルがロマヌス・アウグストゥス帝を廃位するのですが、この時をもって西ローマ帝国は滅亡したと見なされています。オドアケルは東ローマ帝国皇帝ゼノンの認可を受け、ラヴェンナからイタリア半島を統治し、10年程は東ローマ帝国と良好な関係が維持されます。しかしながら488年、ゼノン帝はオドアケル討伐をゲルマン人の軍人テオドリクスに命じ、彼は493年にオドアケルを降伏させることに成功しました。

 ゼノン帝の没後、東ローマ帝国皇帝となったアナスタシウス1世は、497年にテオドリクスに帝位と帝冠を授け、これによりラヴェンナを首都とする東ゴート王国が成立します[図1, 2]。そしてテオドリクス王が没する526年まで、ラヴェンナは再び繁栄期を迎えました。このラヴェンナ第二黄金期を代表する宮廷聖堂に施された装飾を、2回に分けて見ていくことにしましょう。

[図1]497年時点での東ゴート王国

[図2]テオドリクス王の記念コイン ローマ パラッツォ・マッシモ

サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂の全体像

 テオドリクスはラヴェンナの中心部に宮殿を設置し、それに隣接する場所に「救世主イエス」に捧げる宮廷聖堂を6世紀初頭に建てさせました。ゲルマン人であったテオドリクスは325年の第1ニカイア公会議で異端とされたアリウス派(編注:アレクサンドリアの司教アリウスの説。キリストは神とは異質的であるとして、その人間性を強調した)を信仰していたため、この聖堂はアリウス派の教会として建てられました。

 その後、東ローマ帝国軍人ベリサリウスが540年にラヴェンナを征圧した後、本聖堂は4世紀のトゥール司教聖マルティヌスに捧げられることになり、サン・マルティーノ聖堂と改称されます。さらに9世紀になって近郊の軍港クラッセにあるサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂より、ラヴェンナの初代司教アポリナリス(1~2世紀)の遺体が移されてきたため、現在の名称であるサンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂(聖アポリナリスに捧げられた新聖堂)と呼ばれるようになりました[図3, 4]

[図3]サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂外観

[図4]サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂内観

 聖堂はシンプルな長方形型プランで、入口から祭壇へ向けての身廊は列柱により3区画に分割された三廊式です。左右の側壁に施されたモザイク[図5, 6]は3層で構成されていますが、最も床に近い下層部には殉教者たちが入口側から祭壇側へ行列をつくっています。

[図5]サンタポリナーレ聖堂左側壁
[図6]サンタポリナーレ聖堂右側壁

 左側壁の女性殉教者たち[図7]はクラッセから出発して「玉座の聖母子」へ向けて、右側壁の男性殉教者たち[図8]はラヴェンナから「玉座のイエス・キリスト」へ向けて行進しています。キリスト教信仰を貫くことによって殺害されることは、313年のミラノ勅令(編注:キリスト教徒の信教の自由を認めた勅令)以前は広く行われていたので、その犠牲になった殉教者たちを忘れることのないようにと、彼らは聖堂を訪れる人々に一番近いところに表されたのでしょう。

[図7]女性殉教者たち(左側壁下層部)
[図8]男性殉教者たち(右側壁下層部)

 ただし、この下層部のモザイクは、アリウス派から正統派の聖堂へと変更された6世紀半ばに、かなりの部分が改変されたことがわかっています。

 中層には左右の側壁それぞれに11の窓が設けられていますが、その間の壁面に巻物や書物を持った旧約聖書の預言者たち[図9]が、16人ずつ配されています。

[図9]預言者たち(左側壁中層部)

 旧約聖書とはイエスが登場する以前に記されたユダヤ教の聖書のことです。イエスは本格的に説教を始めたガリラヤ湖近くの高い山において、自身が現れた理由を次のように説明しています(『マタイによる福音書』5:17-19)。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」

 ここで言う「律法」とはユダヤ教で最重視している法であり、「預言者」は神から授かった言葉を人々に伝える役割を果たした者のことです。つまりイエスはユダヤの教えを否定するのではなく、それを補うために現れたと述べているのです。彼のこの表明ゆえに、1世紀後半にキリスト教の聖書の編纂が行われた際、ユダヤ教の聖書39書をそのまま残し、教会はそれを神との古い契約の書(旧約聖書)と呼びました。したがって中層の預言者は、上層に表されている救世主イエスの到来やその活動を事前に準備していた者たちとして、登場しているのです。

 さて、その上層ですが、左側壁に「キリストの伝道」、右側壁に「キリストの受難」に関するエピソードが、各13場面ずつ表されています。このようにひとりの人物に関するエピソードを複数場面で展開する形式を「連作(サイクル)」と呼んでいますが、サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂の連作は、聖堂に施された「キリスト伝」連作としては、現存する最も古い作例のひとつであり、美術史上、極めて重要な装飾です。

 前回のコラムで見たガッラ・プラチーディア廟堂の装飾は、これから洗礼を受けようとしている入信希望者を主に対象としていましたが、サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂のモザイクはすでに洗礼を授かったキリスト教者たちに向けての装飾となります。彼らはこの教えにおける基本的な知識は得ていたのでしょうが、その多くは聖書を実際に手に取ることはできなかったでしょうし、ラテン語を読解することもままならなかったのです。こうした一般大衆に向けて、福音書に記されたイエスの様々な言動を伝えるために、本堂の「キリスト伝」連作は制作されました。今回はまず左側壁の装飾を見ていくことにしましょう。 

左側壁に表された「キリストの伝道」

 洗礼者ヨハネから洗礼を授かったイエスは、ガリラヤ地方を中心に自身の教えを広めていく一方で、神のしるしとしてのさまざまな奇跡を起こしていくのですが、そうした彼の活動から13のエピソードが選出されて、左側壁上層部に視覚化されています。各主題とその主な典拠は、祭壇側から入口側へ向けて以下のようになっています[図10]

[図10]「キリストの伝道」連作の主題

1 カナの婚礼(ヨハネ2:1-11)

2 パンと魚の奇跡(ヨハネ6:1-15など)

3 ペテロとアンデレの召喚(マタイ4:18-20など)

4 盲人の治癒(マタイ9:27-31)

5 出血症の女の治癒(マルコ5:25-34など)

6 井戸のサマリア女(ヨハネ4:5-26)

7 ラザロの蘇生(ヨハネ11:1-44)

8 ファリサイ人と徴税人(ルカ18:9-14)

9 寡婦の献金(マルコ12:41-44など)

10 羊と山羊を分けるイエス(マタイ25:31-46)

11  カファルナウムの中風患者の治癒 (マルコ2:1-12)

12 悪魔憑きの男の治癒(マルコ5:1-20など) 

13  ベトザタ池での中風患者の治癒(ヨハネ5:1-9)  

 上に示した典拠からわかるように、これらの場面は福音書に記された順序で展開しているわけではありません。おそらく本聖堂の聖職者が、「イエスとは何者なのか」、「イエスはどのようなことを語ったのか」、「イエスが起こした奇跡とはどのようなものだったのか」、といったこの教えの根幹に関わる主題を選んだのでしょう。イエスが病人を癒す「治癒の奇跡」の場面を多く取り上げているのは、教会側が信者たちに対して、キリスト教を信仰すれば病への恐怖も軽減できるといった現実的なメリットを提示したかったからかもしれません。

《羊と山羊を分けるイエス》

 13場面中、特に注目すべきは祭壇側から10番目に置かれている《羊と山羊を分けるイエス》[図11]です。

[図11]《羊と山羊を分けるイエス》 500年頃

『マタイによる福音書』(24~25章)によると、イエスはエルサレムのオリーブ山において、弟子たちに終末の時にどのようなことが起きるのかを語り始めます。

「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴(しるし)が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを見る」(24:29-30)。

「人の子」とは、イエスが自身のことを指して言うときに用いる表現です。また終末の時期については、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(24:36)としています。そのうえで、イエスによる裁きを次のように説明するのです。

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えてくるとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(25:31-33)。

 そして「人の子」は「王」となり、右側にいる人たちに対して、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(25:34)と伝えます。また左側にいる人たちに対しては、「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」(25:41)と命じるのです。

 この福音書の記述から、キリスト教会では終末の時にイエスが地上に再臨し、すべての人々を善なる者と悪なる者とに識別する「最後の審判」を行うと教えています。現世における生命が終われば、すべてが無になるということでは、欲望の赴くままに悪行を重ねる者が次々と出てくるかもしれません。そうならないためにも、世の終わりにはあらゆる人が復活させられ、その生前の行いによって裁きが下されなければならないのです。その時に地獄に落とされないように現世を生きなければいけないというのが、キリスト教会の基本の教えと言っていいでしょう。本堂の聖職者もこのモザイクを信徒に見せながら、「終末の時にイエスによって選ばれて、天の国に入れるように、日々、正しく生きなさい」と伝えていたのではないでしょうか。

 

 「最後の審判」を表した作品としてよく知られているのは、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂に1536-41年に描いた壁画(13.7x12m)ですが、このように本主題を壁面に大きく表現するようになったのは11世紀に入ってからです[図12]

[図12]《最後の審判》 サンタンジェロ・イン・フォルミス聖堂 1080年頃

 それはイエスの時代から1000年の時を経た後、人々がそろそろ世界の終末が来るのではないかと真剣に考え始めたからです。聖堂を訪れる信者たちに、天国がいかに素晴らしいところなのか、そして地獄がどれほど悲惨な場所なのかをイメージとして具体的に示し、彼らがそのことを強く意識して暮らすようになることが教会側の狙いでした。そのため聖堂出入口のすぐ近くに、天国と地獄の対照的な様子がしばしば表されたのです([図12]の最下層部)。

 サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂のモザイクは、そうした大規模な「最後の審判」を表した作品群のルーツにあたるものなのです。