もう一度図1を見て下さい。すでに述べたようにここでは一番外側にある「私たち生きもの」から考え始めましょう。

図1

 東日本大震災の後、よく聞かれたのが絆という言葉でした。大きな災害から立ち直る時、私は一人ではないのだと思えることがどれほど大事であるかは言うまでもありません。ですから絆という言葉が求められたのは当然です。けれどもここに少し煩わしさを感じた方も少なくなかったように思います。絆は本来、犬や馬などの動物をつなぎとめておく綱をさす言葉であることを考えると、そこにある強いつながりが同時に束縛感にもなるからではないでしょうか。

 そして今、COVID-19のパンデミックの中でよく聞くのが「利他」です。これも、今の社会の状態を考えた時に必要なことであり、大事な言葉とされて当然だと思います。感染拡大を抑制するには一人一人が手を洗い、マスクを着用し、密を避けることが求められます。これは自身が感染しないための行為であると同時に、自身が感染源にならないための行為でもあります。このウイルスは、感染しても無症状の場合が少なくないので、気づかぬうちにウイルスの媒体になっている危険がありますから。マスクをするのは、少し大げさに言うなら「利他」の行為になるわけです。ここから始まって、医療従事者、感染の危険を感じながら人中で働かなければならないエッセンシャルワーカー、経済活動がままならぬ中で職を失う人などへの思いやりとそれに基づく行動が重要であると多くの人が気づき、そこから「利他」への関心が高まったのでしょう。思いやりは、人間の特徴を考えるうえで大切なことであり、利他への関心が高まったことは評価できます。

 ただ絆や利他という言葉には、面倒なことをやらなければならないという感覚があり、そこでは孤立した個が前提になっています。今大事なのは、私という存在を、まず私たちの中にあるものと捉えることではないか、それが今強く思うことなのです。近代社会は、個の確立を強く求めました。もちろん一人一人は大切ですが、一方で人との関わりなしでの暮らしはあり得ません。私たちあっての私という方が自然です。

 「私たち」について、もう一つお断りしておきたいことがあります。私たちというと、全体が優先されて個は犠牲にされるのではないかという疑問をもつ方があるのではないかと懸念します。全体主義と呼ぶ、民主主義と対峙する社会です。全体主義が支配する社会はこれまでに実在しましたし、権力者は自分とは異なる考えを許容したくないと考えがちではあります。

 今ここで考えたいのは、そのような状況ではありません。独立した個人である「私」が、自分自身を常に「私たち」という広がりの中に置いている生き方です。私にこだわるよりもはるかに解放感のある、開かれた存在としての自分になれるのが、今考えたい「私たち」の中の私です。主体はあくまでも私でありながら、それがいつも私たちの中にある。この時の解放感を、わたし(中村)は多様な生きものの中に自分を置く生命誌という知を考える中で実感してきました。それを社会の基本に置きたいと思っているのです。私たちを身近な家族や友人からでなく、図の一番外側から考え始めたのはそのためです。

図2.【生命誌絵巻】協力:団まりな 画:橋本律子

 これが、「私たち生きもの」を表現した絵です。「生命誌絵巻」と呼んでいます。大学では化学を専攻し、さまざまな物質がお互いに反応するとまったく違ったものに変わるという面白さに惹かれて、実験を楽しんでいました。H2+O2→H2O 水素と酸素はそれぞれ気体ですが、それが一緒になってできた水は液体にも固体にもなるというまったく新しい性質をもちます。見えないところでこんなことが起きて世界ができていると考えるのを楽しみながら三年生になった時、先生が「最近こんな面白い構造の物質が見つかったんだよ」とおっしゃってDNAについて話して下さいました。今ではおなじみの二重らせん構造です。びっくりしました。こんな構造の物質が存在し、しかも体の中ではたらいていると言われてもすぐには信じられず、クラスメートと一緒に竹ひごと紙粘土でモデルをつくって確かめました。

 こうして納得したところからわたしのDNAへの旅が始まり、今に続いています。構造が美しいと思うところから興味をもったDNAですが、少し勉強してみると、これは地球上にある生きものすべての遺伝子、つまり基本物質であることがわかり、関心が深まりました。個人的なことを長々書きましたが、知りたいという気持ちの始まりは面白そうというところにあり、それがあると関心が深まっていくと感じでいるので、確かにDNAってきれいな形だなと思って下さるところから始められるとよいと思ったものですから。

 絵巻に入ります。まずここで見ていただきたいのは、扇の天(上のところ)です。ここにはさまざまな生きものが描いてあります。なにか、お好きなものを探し出して下さい。ひまわり、ゴリラ、カワセミ……地球上には数千万種とも言われる多様な生きものが、さまざまな場所でさまざまな暮らしをしています。分類され、名前がついているものが180万種ほど。まだまだ知らない生きものの方が多いのが現状です。

 ひまわり、ゴリラ、カワセミ……を例にあげましたが、それぞれ魅力があり、どちらの方が優れているかという比べ方をしても意味がありません。多様性を楽しむのが生きものに接する基本ですが、先述したDNAは、ここに興味深い視点を持ち込みました。これほど多様な生きもののどれもが、DNAを遺伝子としてもつ細胞から成ること、どの生きものの中でもDNAは基本的に同じはたらき方をしていることが明らかになったのです。ひまわりもゴリラもカワセミも……単細胞生物であるバクテリア(絵巻の右端に描いてあります)も基本は同じです。

 この事実と、生きものは進化をするというこれも生物研究によって明らかにされた事実とを組み合わせて考えると、「地球上の生物は、どれもDNAを遺伝子としてもつ一種の祖先細胞から生まれてきた」という答えが出ます。では、その祖先細胞はいつどこで生まれたのか。必ず出てくる問いであり、多くの研究が行われていますが、まだ答えは出ていません。でもそれほど遠くない将来に「生命の起源」の謎は解けそうなところまで来ていますので楽しみです。それは他の星にも生命体はいるのだろうかという問いにつながり、それを探す新しい研究も今まさに始まっているところです(また横道に入っていきそうなので、この話、つまり宇宙生物学の話はここで終わりにし、またいつか機会を見つけてお話します)。

 祖先細胞に戻ります。化石研究から、少なくとも38億年前の海には細胞が存在していたことがわかっていますので、扇の要は今から38億年前。そこに祖先細胞がいたことを描いています。地球上のすべての生きものは共通の祖先をもつ仲間であるという事実を知ると、生きものを見る眼が変わりませんか。

 もう一つ、仲間意識をより強くする事実があります。扇の要から天までの距離は、どの場所をとっても同じです。右端に描いてあるバクテリアは生命の起源に近い頃に生まれた古くからの生きもので、たった一つの細胞として生きています。眼には見えませんが、私たちの身のまわりや体の中で生きているバクテリアは、38億年という長い時間、分裂を続けてきた結果、今ここに存在しているのです。アリやチョウなどの小さな昆虫も、38億年の進化の中で今を生きている仲間です。つまり、38億年という長い歴史を背負って生きているという点では、どの生きものも同じです。いのちの重みという言葉を使う時、そこにはさまざまな意味がこめられていますが、その一つにこの長い長い時間があることは確かでしょう。

 その意味でのいのちの重みは、草や昆虫でも、ライオンやゾウでも変わりません。小さな虫などは気軽に潰してしまいがちですが、38億年という時間がなければ存在しなかったものとして見ると、いのちの重みを感じます。このように、多様な生きものの背後にある共通性が明確に見えてきたのが20世紀の後半であり、21世紀はこの事実を生かしていく時代です。

 最後に、私たち人間もこの絵巻の中にいるというとても大事なことに眼を向けましょう。絵巻の左端にいる生きものはヒト、つまり私たち人間です。これまでの話の流れの中では、ここに私たちがいるのはあたりまえです。

 けれども、日常の暮らしの中ではどうでしょう。人間はこの扇の外、それも扇より上に位置していると思っているのではないでしょうか。絵巻を見ながら生きものについて語るなら、人間は多様な生きものの一つとなります。けれども日常、環境問題を語る中で生物多様性という時は、自分は扇の外にいて、”多様性を大事に“と言ってはいないでしょうか。

 それがよくわかるのが、”地球にやさしく”というキャッチフレーズです。とてもすばらしく聞こえますし、この言葉を口にする時の気持ちは尊重したいと思いますが、生命誌絵巻を描いた立場からは、それって上から目線ではありませんかと問いたくなります。自分も絵巻の中にいる、つまり中から目線で生きものたちを見ると、私たちを仲間としてやさしく見て欲しいと思うこともしばしばです。もちろん私たちも他の生きものへのやさしい眼ざしをもつことは大事ですが、この時上からでなく中から目線になると、さまざまな生きものたちとの仲間感覚が自ずと生まれることに気づくはずです。

 上から見ている時は、知らず知らずのうちに私たち人間の方が他の生きものより上等だと思っています。実は生物学でも以前は下等生物、高等生物という言葉を使っていました。バクテリアはたった一つの細胞で生きていますので単細胞と呼ばれますが、あまりよくものを考えない人のことを「単細胞だから」などとからかっていました。昆虫は虫けらと呼ぶなど、なんとなく軽く見ていたのです。

 けれどもDNA研究が進み、それぞれの生きものの生き方を調べてみると、食べ物を消化したり、体に必要なエネルギーをつくるという基本のはたらきはどの生きものも同じ遺伝子によって同じように進められていることがわかりました。しかもどの生きものもそれぞれなかなか巧みに生き、38億年という長い間いのちをつないできたことが明らかになるにつれ、下等生物、高等生物という感覚は消えていったのです。今ではこの言葉は使いません。

 こうして多様な生きものたちの生き方を見ていくと、同じだなあと思うところ、なんて巧みに生きているんだと感心するところが次々と出てきますので、自ずと「私たち生きものの中の私」という感覚が身につきます。生きものであることが楽しくなってきます。豊かな心をもち、自由な広がりの中に自分を置くことができます。

 もう一度絵巻を眺めて多様性、その底にある共通性、38億年という長い歴史、その中での生きものたちの関係……そしてその中にいるヒト(人間)である私を思い描いて下さい。そこに絆や利他という言葉を越えた広がりを感じとっていただけたら嬉しいのですが。これは知識として学ぶというより感覚的にわかるものですので、押しつけてもまったく意味がありません。生命誌研究館へ何度も来て下さって、ある時「私たち生きもの」ということがストンと納得できましたと言って下さった方があり、嬉しかったのを覚えています。