「私たち生きもの」という仲間としてさまざまな生きものたちがそれらしく生きているのが地球という星です。私たちでありながら決して皆が同じではなく、アリはアリらしく、ライオンはライオンらしく生きているという多様性が「私たち生きもの」の特徴です。しかも一方ですべての生きものがつながりを持ち、それは私という存在が孤立したものとしては存在し得ないというつながりであることを語ってきました。もちろん私たち人間もその中で生きているのです。

 生きものとしての私たち人間の出発点が森にあること、しかし私たちはその森を出て暮らし始めたところに特徴があることを先回示しました。森を出たことが今の科学技術文明社会にまでつながるのですから、これは人類にとってとても大きな出来事です。とはいえ、森が故郷であることは今も変わりません。ところが、現代の生き方、とくに都市生活は、それをすっかり忘れているのではないかと思わせるものになっています。それでよいのだろうかという問題意識を持ちながら、人類の歩んだ道を見ていきましょう。

 「私たち生きもの」の特徴は、古い時代のことを忘れない、古いものを捨てない、というところにあります。生きものは進化をし、しかも水から離れて上陸をしただけでなく、空へも飛び出すなど挑戦を続けてきました。けれども、今も生きものにとって水は不可欠です。この性質は生きものすべてに共通であり、これからも失われることはないでしょう。

 一方、現代社会で用いている技術を見ると、新しいバージョンは古いものとの共通性を捨てることをよしとします。積み重ねではなく切り捨てであり、それは私たち現代人の意識に大きな影響を与えています。たとえば、縄文時代のことを語る時、その人たちを原始人として、どこか現代人より劣った別の存在と位置づけていないでしょうか。石器を用いている人よりコンピュータを使いこなしている人の方が優れているのだと。

 生きものとして見た時は、まったく同じ細胞のはたらきで動いており、脳の構造も働き方も基本は変わっていません。自然への対応を見れば、縄文時代の人の方が優れていたとしか言いようがありません。ここには、学ぶところがたくさんあるに違いありません。性能のよりよい機械を求め、古い機械を捨てていくのと同じ感覚で生きものを見ないことです。そして、私たちの考え方を機械型でなく生きもの型にすることが今重要なのです。

二足歩行を始めた理由

 ここで、森を出るというかなり特別な生き方を始めた生きものである人類の誕生を見ていきましょう。38億年前に始まった生命の最終章にあたるのが、アフリカの森で暮らすチンパンジーとの共通祖先から人類(生物学ではヒトと呼ぶ)として分かれるという物語です。今から700万年ほど前に起きたとされます。その時のヒトの特徴は何だったのか。化石の情報から二足歩行と小さな犬歯であったとされています。

 最近の生物学を勉強している方は、DNAこそ遺伝子としてさまざまな性質をきめるのだから、それを調べればヒトの特徴は分かるだろうと思われるかもしれません。確かにヒトゲノム(ヒトの持つ全DNA)は解析されていますし、他のヒト科の仲間のゲノム解析の結果も出ています。その結果チンパンジーが一番ヒトに近く、700万年ほど前に分かれたという値はそこから出されたものです。同じように、ゴリラは900万年前ほど前だということがわかったのです。

 ただゲノム解析の結果、チンパンジーとヒトの差はわずか1.6%であり、しかもこれぞヒトをヒトたらしめているという遺伝子が見出されてはいません。全体としては明らかに違うのに、部分の違いでは説明できないのです。生きものは、それぞれ特徴がありながら、地続きなもの、全体で捉えるものなのだと思わされる結果です。

 そこで、化石から知られる二足歩行と小さな犬歯に戻りましょう。なぜ私たちの祖先は直立して二本の脚で歩き始めたのか。これはさまざまな状況証拠から考える他ありませんので、いくつかの説があり、これぞ決定版、それ以外は誤りという答えがあるわけではありません。その中で、比較的多くの専門家が認めており、私も好きな説を紹介します。

 チンパンジーも含めて動物の多くは犬歯が発達しており、時には牙にもなっています。これは戦いに役立ちます。つまり犬歯が小さいということは、あまりけんかが強くないということです。他の動物との争いも避けたでしょうし、仲間内でも力での戦いはあまりなかったでしょう。

 そんな祖先が暮らしていたアフリカの森は、元来果物などの食べものが豊富な場所でした。ところが1000万年前頃からアフリカが少しずつ乾燥した気候になり始めていたらしいのです。森林だったところが森林と草原の混じる場に変わっていったようです。植生も変化し、食べものが以前よりも少なくなったので、広範囲を探し歩かなければなりません。犬歯が小さく弱いヒトの仲間は、食べ物の豊かな場所から追い出されたでしょう。森の端や草原に出ていくことになり食べ物を遠くまで取りに行かなければならなかったと思われます。

 そこで、果物などを取ったオスは立ち上がってそれを手にのせ、離れたところにいる子どもを抱えたメスのところまで運んだのではないでしょうか。見てきたわけではありませんが、この時のオスの様子を思い浮かべると愛おしくなり、家族を大事にする気持ちに思い入れをしてしまいます。そのきっかけが犬歯が小さくちょっと弱虫だったからということも含めて好きな考え方です。しかもこれは、家族共同での子育てや共食という人間の特徴とされていることと合わせて考えやすい説です。

 弱いというとマイナスのイメージが浮かびますが、今の社会を考えても強引な強者より弱いところのある人の方が、あれこれ工夫をしてなんとかしようとするために新しい可能性を生み出すところがあるような気がします。弱いのは悪くない。そう思います。優しいお父さんが生まれ、オス同士のけんかもあまりなかったでしょう。この頃の脳の大きさは他の類人猿と変わりませんが、私たちの祖先はよい特徴を手にしたと思いませんか。

脳の大きさと集団のサイズ 

 二足歩行をきっかけに、体にも人間に特有の進化が起きていきます。一つは脳の大型化です。250万年ほど前に600ccになり、ここから「ホモ」と名付けた仲間になります。「ホモ・ハビリス」です。次いでホモ・エレクトゥスが生まれ、現存の私たちホモ・サピエンスにつながります。石器作りが始まり、「私たち生きもの」の中で人間だけが歩む独自の道へと進んでいくことになりますので、その特徴をまとめておきましょう。

 脳の大型化は、人間が人間らしくなったことを支える変化です。700万年ほど前に二足歩行を始めて以来あまり変化のなかった脳が、500万年近く後に大きくなり始め、そこから現生人類の1500ccほど、つまり3倍近くまで大きくなってきた過程は重要です。そこで脳の大型化と連動する事柄は何だろうという問いが出ます。

 これもまた確たる答えはありませんが、いくつかの考え方の中で私が関心を持ったものを紹介します。二足歩行を続けているうちに体型が変わってきたのは当然です。最初はチンパンジーと同じように長かった手が短くなり、直立して身長が伸び、脚が長くなっています。現代人と同じ体型になってきたのです。250万年前に作り始めた石器で植物性の食物や小動物を処理していたことは確かでしょう。現存の狩猟採集民の研究では、食物のほとんどは女性が採取する植物であり、大型獣は主な食べものになってはいないことからも、同じような生活が思い浮かびます。

 ただ、石器で肉食獣の食べ残しから肉をはずし、骨から骨髄をとり出して食べることで栄養状態がよくなったことが脳の大型化に役立ったと考えられます。脳は私たちの体重の2%ほどの重さしかないのに、消費エネルギーは全体の20〜25%にもなることがわかっていますので、栄養が充分とれないと大きな脳は維持できません。

 もう一つ脳の大きさと関係する数字が出されています。ロビン・ダンバー(編注:イギリスの人類学者。進化生物学者。1947-)が、人類以外のヒト科の仲間やその他の猿類の脳容量と相関関係のある指標を探しました。さまざまな値を探った結果、集団サイズという答えが出たのです。そこで人類の化石から出した脳の大きさとその時代の集団サイズを見ました。すると、脳が大きくなる前は10人を越えるか越えないかの少人数だった集団サイズが、200万年ほど前には30人ほどになったことが分かりました。まさに脳が大きくなった時です。

 私たちの1500ccの脳ですと、150人ほどが適切な集団サイズという計算になります。これはダンバー数と呼ばれ、現存の狩猟採集民はそのくらいの人数が一緒に暮らしているという値も出されています。どうでしょう。ある方が、年賀状のやりとりはこのくらいがいい、それを越えるとこれどういう人だったろうと思う人が出てくるとおっしゃっていましたが、なるほどです。

 食べものも仲間の大きさも日常の重要な要素です。今でも家族のような親密な仲間は10人ほど、学校のクラスは30人ほどですから、「私たち生きもの」という感覚で生きるということは、このような仲間を大切に暮らすことによって実現していくのではないでしょうか。

 このように考えてくると、人間への道の大きな特徴として家族が浮かび上がります。家族の基本は共同での子育てと共食です。先述したように犬歯が小さく争いにあまり強くはないために、草原へと出て行ったというところから始まり、仲間と一緒の暮らしが基本になって家族が大切になったのです。

 人間は「私たち生きもの」の中で、「私たち家族の中の私」という形で生きていく存在として始まったと言えます。遠くから食べものを運び続けているうちに、採集する時から皆と一緒に食べることを楽しみにするようになっていったのではないでしょうか。家族も、そろそろ美味しい食べものを持ってお父さんが帰ってくる頃かなと思って待っていたのでしょう。どこにもそんな記録があるわけではありませんが、私たち人間の持つ能力の一つに共感があげられるのは、このような暮らしの積み重ねがあってのことと思われます。

 今、家族のありようが大きな問題になっています。家族といえば両親と子どもたちがいて、多くの場合、祖父や祖母も一緒に暮らすという姿を思い浮かべてきましたが、それは大きく揺れ始めています。典型的家族を思い描いて、そこに当てはまらないものに「?」をつける時代は終わりました。ここで家族論はしません。現実を見て、一人一人が納得いく形で生きていくことが基本です。

 ただ38億年続いてきた多様な生きものの中で、人間が人間の特徴を生かして暮らし始めた最初に、家族という「私たち」があったことに眼を向け、この「私たち」は大事にしたいと思います。古いものを捨てずに活かすという生きものの性質から見て、私たちの中にその時の記憶は残っているに違いないのですから。