先回「私たち生きもの」の中の人間の暮らし方の特徴として「私たち家族」という課題に入りました。私一人が孤立するのでなく、皆と一緒に暮らす姿の基本型が家族です。近年、社会のありようが変化し、家族の姿も複雑になってきています。規格のある機械を見慣れている現代社会では、物事には規格があると考える癖がついています。生きものの世界には規格はありません。家族もそうです。ここでは、食を共にし、お互い助け合いながら暮らす生活の基本となるグループという程度に緩く考えます。

 このような家族を基本に置きながら狩猟採集に始まり農耕へとつながっていく人間特有の生き方を見ていくことになるのですが、ここで「生命誌」の視点の独自性を生かした「家族」を見ていきたいと思います。

人間とオオカミ

 イヌを飼っていらっしゃいますか。この尋ね方はあまり適当ではないかもしれません。恐らく多くの方が、一緒に暮らしていると思っていらっしゃるのではないでしょうか。まさに家族の一員として。イヌを家族とみるのは、最近始まったことのように見えますが、最近の研究によって人間とイヌとの関係は最初から家族と言ってもよいものだったことが分かってきました。

 この連載では、「私たち生きもの」という視点から、アフリカに暮らすライオンも庭を飛ぶチョウも、私たちの仲間であることを何度も指摘してきました。とはいえ、そのどちらも野生です。ライオンが私たちの日常に入ってくることはありません。もっとも人間は好奇心が強く、仲間としての関心から、「動物園」を作ってライオンを見物します。動物園は子どもの遠足で人気の場所の一つです。私が通った大学は「上野動物園」に近かったので、休講となるとマージャン組と動物園組に分かれました。もちろん私は後者でした。

 ちょっと横道にそれました。動物園を作るより前に、私たちの祖先は、かなり早くから、多様な生きものの中から特定のものを飼いならして共に暮らすことを始めています。「飼いならす」という言葉の対象になるのは動物、植物、魚、菌類、バクテリアなどあらゆる種類の生きものです。その中で最初に独特の関係になったのは何であり、それはいつだったのか。ここで、イヌが浮かび上がります。

 ウシ、ウマ、ヒツジ、ブタなどよりはるか以前から、イヌが人間と共に暮らす仲間になったのです。狩猟採集を始め、さまざまな野生の生きものと接して暮らした中で最初に深い関係になったのはオオカミ(正確にはヨーロッパにおり、今は絶滅してしまったタイリクオオカミ)から生まれたイヌでした。ゲノム解析の結果、タイリクオオカミとイヌではその99.5%以上が共通していることがわかりました。ほとんど同じと言ってよい値にちょっと驚きました。

 ヨーロッパのオオカミと聞けばすぐに頭に浮かぶのが赤ずきんちゃん、おばあさんのふりをしたオオカミに食べられてしまうところはとても恐かったのを思い出します。古代に生きる先祖たちが出会ったオオカミも決して恐くなかったはずはありませんが、実はオオカミも人間を恐れていたようなのです。このようにお互いに意識し合い、警戒し合いながらの関係だったわけですが、そこから共に暮らすところまでの時間は、あまり長くはなかったようなのです。

 オオカミが一方的に人を襲うという赤ずきんちゃんのイメージでないことは、英国にあるブリストル動物園の分園でオオカミの群を捕獲飼育してきた体験を語る飼育員の言葉が示しています。「これまでに積極的に人に近づき、人のまわりで堂々としているオオカミに出会ったことがありません」。それに続けてこうも語ります。「とても神経質だけれど、一方で好奇心が強く、たとえばスキップをして木陰に隠れると、シッポをあげて近寄ってきます。振り返ると逃げます」。遊んでいるとしか思えないそうです。人間の側へ行くと食べものがあるのも、オオカミにとっては大きな魅力のようでした。こうして好奇心と空腹から少しずつ近寄ってくるのだそうです。3万年ほど前にもこのようなことがあったのではないかと想像させる話であり、人間が一方的に飼いならしたというだけのことではなさそうです。

イヌの社会性

 家畜化の研究は、主として二つの方向から行われています。一つはもちろん化石であり、もう一つがDNA解析(ゲノム全体を見る、特定の遺伝子を探るなどさまざまな方法)です。このような研究は、新しい化石が出たり分析法が開発されれば得られる成果は変化していきますので、これで決定とは言い切れませんが、最近の研究の流れを統合すると、三万年(DNA解析の結果は4万〜2万7000年前となる)前頃にはイヌとして人間と共に暮らす家畜がいたと考えてよさそうなのです。農耕が始まったのは一万年ほど前とされますから、それ以前の狩猟採集の頃に、もうイヌという野生とは違う動物が私たち人間と一緒に暮らしていたことになります。

 家畜化というと人間が自分の役に立てようと特定の生きものの特定の性質を変えていく過程を考えます。肉牛を思い浮かべればとてもわかりやすい話です。でもイヌの場合、そのような特定の目的があったとは思えません。人間と暮らす生活をイヌが選んだと言った方がよいようにも思えます。家族になったと言ってもよいかもしれません。

 DNA研究から面白いことがわかってきました。人間のDNA解析から、超社会性(社交性が高くおしゃべりが好きというような性質)に関連するとされる多型が見つかっているのですが、それと同じ多型がイヌにあるというのです(因みにオオカミにはありません)。人もオオカミも社会性動物と呼ばれます。まさに「私たち」として生きる性質をもつ生きものということです。その中からとくに社会性の高いものとしてイヌが生まれ、人間にも関心をもったのでしょう。イヌには家族の一員と呼んでよい存在になる性質が備わっていると言えます。

自然選択

 イヌと人間の関係を見ると、家畜という言葉から思い浮かべる人間が自分の都合で特定の生きものの性質を思うように変えていくというイメージが消えていきます。生きものの性質は、本来少しずつ変化していくものであり、それを進化と呼ぶことはご存知でしょう。進化には、「進」という字が入っているので進歩と重ねて考えられがちですが、さまざまに変化する(展開)現象であることを一言申し添えます。19世紀にダーウィンが、進化は変異をしたものの中から自然選択された個体が残ることによって起きるという考え方を出し、基本的にはこれが進化のメカニズムです。この考え方を書いたのが有名な『種の起源』です。ところでこの本の第一章は「飼育栽培下における変異」なのです。

 ダーウィンは、ビーグル号に乗ってさまざまな土地の動植物に接し、とくにガラパゴスでの体験から環境によって生きものの形態や暮らし方が変わることを実感し、変異と自然選択という進化についての考え方をまとめたと言われます。確かにそうなのですが、ダーウィンは子どもの頃から身近な生きものをよく観察していました。もちろんそこには野生の動物や鳥もいましたが、本当に身近だったのはイヌやハトなど飼っている生きものたちでした。とくにハトについては、手に入る限りの品種を飼い、世界各地から標本も集めて、それぞれの違い──つまり変異を調べています。当時の人々は、異なる姿形や性質をもつ品種の原種はそれぞれ別の野生種であると思っていたのですが、ダーウィンは自身の観察から飼いバトはどれもカワラバトの子孫であると信じるようになります。そして、そこには自然選択の力がはたらいていると考えたのです。

 ダーウィンは、人間は自分の望みの性質や形をもつ個体をつくり出しているような気分になっているけれど、そこに働いているのは「自然選択」なのだということを見出したのです。ここにある自然という文字はとても大事です。機械の改良は、人間の望みとそれを可能にする技術とで思うように進められます。イヌやハトも、速く飛ぶハトが欲しいと思ったら速い個体を選んで掛け合わせをしていきます。ただ、生きものの場合、望みの個体が得られるとは限りません。速く飛べてもけんかばかりしている個体では困ります。でもここは自然が行っているので、なかなか思い通りにはなりません。

 近年は遺伝子操作ができるようになりましたから、ダーウィンの頃よりは求める品種を得やすくはなりましたが、それでも遺伝子のはたらきが「自然」であることに変わりはなく、機械のようにはいきません。生きものを対象にする時は、常にそこに「自然のはたらき」を意識しなければならないということを再確認したいので、くどくど述べてきたことをお許しください。

家族の広がり

 イヌに戻りましょう。私たち人間は、イヌとの関係の始まりを人間が家畜にしたのだと思っているけれど、イヌ(タイリクオオカミ)の方に一緒に暮らしてもよいという動きがあって生まれた関係であることは確かなようです。人間の思いだけで始まったのではなく、自然の営みの一つとして生まれたのです。

 家畜のすべてについてイヌと同じ考え方をしてよいかとなると、それは違うでしょう。一つ一つの動物について、家畜になった過程を考えなければなりません。これもまた生きものについて考える時に必要なことです。一つの種についてわかったことは、生きもの一般の問題を示していると同時に、それぞれの種に特有のところも必ずあるのです。

 生命誌では、私たちの考え方を、機械を考える時とは異なる、生きもの向きにしていく必要があると考えています。何でも一律に考えないこと、それぞれの場合のプロセスをていねいに見ていくことです。これからの生き方、社会のあり方として大事なところです。

 家畜の品種改良では、人間が求める性質を持つものを選んでいきますので、「人為選択」という言葉を使いますが、ここでの人為も決してすべてが思い通りに行くという意味にはなりません。最終的に個体が生まれるまでには、必ず自然のはたらきが入りこむのであり、すべてがわかっている機械とは違います。こうして「私たち生きもの」の中の「私たち人間」に眼を向け、その生き方の大事な形として「私たち家族」の姿を見ていくと、そこには再び「私たちが生きものである」という視点を失ってはならないという事実が浮かび上がりました。

 家畜化という言葉は、人間が農耕に伴う自然支配へと向かう暮らし方を特徴づけるものとして使われてきましたが、イヌを例に見てきたその過程は自然支配とは言い切れません。

 現代を生きる私たちの日常感覚としては、「私たち家族」が人間だけでなくイヌなどをも含んでいるのは確かです。「私たち生きもの」というところから始めると、家族の問題が、風習や法律からさらに広がった課題を持つことに気づきます。複雑で面倒ですが、考えることで何か大事なものが見えてくるような気がします。