前回は、福建で焼かれた白磁のマリア観音像が日本にもたらされたという話でした。むろん、白磁の像が自力で泳いでくるはずもなく、商人たちの船で運ばれてきたのです。当時、陶磁器は交易の重要な品目でした。

 そうした陶磁器とならんで大量に取引されていた品物の一つは書物です。日本は、遣唐使の頃から、医書と好色本をたくさん買い込むことで知られていました。ただ、それら以上に大量にもたらされたのは仏教文献です。しかも、仏教の場合は、書物だけでなく、人間、つまり中国僧たちも大勢、海を渡ってやって来ています。

 そうした僧の中には、短期間ないし長期間の滞在を経て国に戻った者たちもいましたが、日本で生を終えた僧も少なくありません。となれば、当然のことながら望郷の想いにかられ、故国をなつかしんで漢詩を作る者たちも出てきます。

 その代表は、無学祖元(1226-1286)でしょう。南宋の禅僧であった祖元は、大元国を建てたモンゴル軍が南宋に攻め入ったため、温州の能仁寺に避難していたところ、その兵たちが寺に侵入してきました。その際、作ったと伝えられる「臨剣の頌」という有名な詩偈(しげ)があります。

乾坤無地卓孤笻
且喜人空法亦空
珍重大元三尺剣
電光影裏斬春風

乾坤(けんこん)、孤筇(こきょう)を卓(た)つるの地無し
且喜(しゃき)すらく、人空(にんくう)にして、法もまた空なることを
珍重す、大元三尺の剣
電光影裏(えいり)に春風を斬る

 つまり、「モンゴル軍が全土を奪ってしまったため、漢人には竹杖をつき立てるほどの地もなくなってしまった。しかし、ご同慶の至りなことに、人間は空(くう)だし事象も空にすぎない。モンゴルの長大な刀を持った兵士よ、ご苦労さん。お前が私を切っても、それは稲妻がひらめく一瞬の間に、春のおだやかな風を切っているにすぎない」というのです。

 このように全く動じない様子を見て、モンゴルの兵が礼拝して去っていったと伝えられています。伝説ではありますが、祖元が気迫に満ちた禅僧だったことは確かです。

 祖元はその後、中国を代表する禅寺の一つである天童山景徳禅寺に入り、修行僧の第一座となっていましたが、宋から来日して鎌倉の建長寺で住職を務めていた蘭渓道隆(1213-1278)が亡くなったため、時の執権、北條時宗に招かれて日本に渡ります。

 道隆は、日本で尊重されて禅宗を広めたものの、蒙古軍の襲来時には密偵役ではないかと疑われ、また中国禅に反発する者たちから何度も讒言(ざんげん)を受け、甲斐や奥州や伊豆に追われるなどしており、「日本人は嘘つきだ」と歎く手紙を書いたりしています。しかし、中国に戻ることはできず、結局、日本で亡くなったのです。

 それに反して、祖元は禅の修行に打ち込んでいた時宗や多くの僧俗から尊崇され、建長寺の住職となったほか、円覚寺の開山ともなっており、道隆のような悲惨な目には遭っていません。そのためか、海を描いた屏風図に記した漢詩は、日本に対する好意あふれる作となっています。

為愛扶桑水国清
煙霞為屋水為城
十州三島蓬壺裏
添得龐眉一老僧

為に愛す 扶桑、水国清し
煙霞(えんか)を屋となし、水(かわ)を城となす
十州三島、蓬壺(ほうこ)の裏(うち)
添え得たり、龐眉(ほうび)の一老僧

 「東海の島国である日本は、美しい水国であって愛さずにおれない。霞を屋根とし、きれいな川を城壁としている。十の州と三つの島は、仙人が住むという蓬莱山のうちのようだ。そこに、長い眉毛の一人の老僧が増えた」と述べており、「この美しい水国に私も加わったよ、よろしく」という挨拶になっています。

 このように日本の風光を愛していた祖元は、服従を勧める蒙古の使者たちがやってきた際、対応に苦慮して迷っていた時宗が相談すると、モンゴル人が支配する地から逃れて来日したこともあってか、「驀直去(まくじきこ)」と答えました。あれこれ妄想せず、真っ直ぐ進め、と指示したのです。時宗はこれによって決意を固め、蒙古の使者たちを斬り、戦いに備えることになったとされています。

 しかし、言語も風俗も違う日本に長くいれば、いろいろと意に満たないことも多かったことでしょう。また、モンゴル人が支配しているとはいえ、故国である中国の地に戻りたいと思うこともあったに違いありません。それを示すのが、徐福にささげた漢詩です。

 独裁者であった秦の始皇帝の命令により、不老長生の薬を求めて東方の海に船で乗り出し、戻ることがなかったという徐福について、日本では熊野などにたどり着いたという伝承が生まれ、その伝承がまた中国にもたらされました。祖元は、熊野権現として祀られるようになった徐福について、「寄香焼献熊野大権現」という題で漢詩を詠んでいます。

 その漢詩では、「先生」は日本に薬を探しに来て国に帰らなかったが、本日、焼香して香煙をお届けする私も、暴虐な「秦」から逃れてきた身です、と述べています。自分も故国に帰れそうもないという想いが、こうした漢詩を作らせたのでしょう。

 実際、祖元は「辞檀那求帰唐(檀那[だんな]に辞して唐に帰らんことを求む)」と題する以下の詩を届け、帰国を許してくれるよう時宗に頼んだものの、尊崇が篤かった時宗は許しませんでした。

故園望断碧天長
那更衰齢近夕陽
補報大朝心已竟
送帰太白了残生

故園望断す、碧天(へきてん)長し
なんぞ更に衰齢にして夕陽に近づく
大朝に補報し、心すでに畢(おわ)る
太白に送帰し、残生を了(おわ)らしめよ

 「故郷の方を遠く望みわたしても、蒼い空が広がっているばかり。そのうえどうして老齢の身で夕陽に近づこうとするのか。日本国に迎えられた恩義に報いて活動し、伝えるべきことはすべて伝えました。私を太白山に送り返し、余生をそこで終わらせてください」と頼んだ内容です。

 「心すでに畢る」とは、禅宗の開祖である菩提達磨が弟子の慧可に伝法する際、「我が心、まさに畢らんとす」と述べたという伝承を踏まえています。「以心伝心」という言葉がありますが、灯火が次の灯火に炎を移して自分は消えていくように、禅宗の法は言葉でなく、心から心へと伝えられていくのです。それにしても、「故園望断す、碧天長し」とは、何とまた痛切な望郷の句でしょう。

 また、先ほどの海を描いた屏風に題した詩と同様、「扶桑」と「添え得たり」の語を用いた詩もあります。「自悼」、つまり、「自分の死を自ら哀悼する」と題して七首も詠んだ詩のうちの第二首です。この詩では、「法の為、人を求めて日本に来(きた)る」という言葉で始めておりながら、末の句は「添え得たり、扶桑一掬の灰」となっています。つまり、「私はこの日本に、ひと握りの遺灰を残す」というのです。

 自分にできたことは何もなく、自分が日本に残すのは僅かな遺灰だけだ、というのは、謙遜なのか自嘲なのか。いずれにしても、帰国をあきらめたうえでの言葉ですね。

 いかがでしょう。こうした望郷の漢詩を読むと、「臨剣の頌」や「驀直去」の句で知られる無学祖元の剛直なイメージが、少しは変わるのではないでしょうか。