前回は、釈尊の母の説話との類似ということで、幼子イエスを膝にかかえる聖母マリアの絵に触れました。現代の日本人がこうしたマリア像に似ている東洋の作品と言われて思い浮かべるのは、狩野芳崖(1828-1888)の名高い「悲母観音」でしょう。しかし、観音は「大悲観世音」と称されて信仰されてきたものの、「悲母観音」「悲母観世音」といった表現はどこの国でもなされていません。芳崖の傑作は、実は近代の産物であって、聖母子像の影響も受けているのです。

狩野芳崖『悲母観音』(1888年、東京芸術大学蔵、重要文化財)

 ガンダーラの観音菩薩像には立派な髭があることが示すように、インドでは観音は男性でした。ただ、観音は救うべき相手の状況に合わせて三十三もの姿で現れ、人々の危難を救うとされており、その中には長者の妻や役人の妻など、婦女子の姿も複数含まれています。

 そのためもあってか、東アジアでは女性的なイメージでとらえられることが増え、楊柳(ようりゅう)観音、魚籃(ぎょらん)観音、馬郎婦(めろうふ)観音など多様な女身の観音が生まれ、子授けの送子観音も信仰を集めました。そうした多様な展開については、彌永信美氏の記念碑的な大作、『観音変容譚』(法蔵館、2002年)が描いているとおりです。

鬼子母神との融合

 観音の女性化をもたらした要因の一つは、ハーリーティー、つまり、鬼子母神と同一視されたためのようです。鬼神であるヤクシャ(夜叉)の美しい娘であったハーリーティーは、ヤクシャの夫と結婚して500人あるいは1000人もの子を生んだものの、前世の業のせいで、周辺の人々に子供が生まれるたびに食い殺さずにいられませんでした。

 歎いた人々の訴えを聞いた釈尊がハーリーティーの末子を神通力で鉢の中に入れて隠すと、彼女は半狂乱になって探し回り、ついには釈尊に見つけてくれるよう頼みます。釈尊は、大勢いる子のうちの一人がいなくなってもそれだけ苦しいのだから、たった一人の子を食われた親の悲しみを思いやるよう教えさとしたため、ハーリーティーは釈尊に帰依し、以後、子供たちを守る神となったとされています。

 北西インドで生まれたこの伝説に基づいて、ハーリーティーが小さな子を抱える像や、子供たちがハーリーティーにしがみついている像が造られるようになりました。問題は、北西インドはイランの文化の影響を受けていたうえ、アレクサンダー大王に随って遠征してきた者たちが多く居残り、この地で混血を重ねていっていたことです。

 このため、北西インドやシルクロードに残っているハーリーティーの像や絵の中には、イラン風な様子のものや、ギリシャの豊穣の女神のような衣装や持ちものを身につけているものが見られるのです。そうした像や絵が中国にもたらされ、鬼子母神に対する信仰が広まっていくと、これが中国で女性化しつつあった観音菩薩と融合してゆきます。

 その結果、幼児をかかえた母のような姿の白磁の観音菩薩像が作られるようになりました。これに着目したのが、中国に合った形でキリスト教を広めようとしていたイエズス会のマテオ・リッチ(1552-1610)です。リッチは、西方の雰囲気を残している観音像と聖母マリア像を意図的に融合させた白磁像を造らせ、布教に用いたのです。

 こうした白磁像は、白磁生産の拠点であった福建省南部の徳化窯(とっかよう)で作成され、日本にももたらされました。1614年にキリスト教が禁止されると、これらの像は長崎・黒崎・五島列島などの隠れキリシタンたちに秘蔵され、「ハンタマルヤ」と呼ばれて崇拝の対象となり続けたのです。禁教下において観音像を拝んでいるようにみせかけて実際にはマリア信仰を保っていたという通説は誤りであって、最初からマリア像として信仰されていたというのが最近の学界の見解です。「ハンタマルヤ」は、ポルトガル語の「Sancta Maria(聖マリア)」が訛ったものです。

 面白いのは、この東洋風な白磁のマリア像は、日本やフィリピンその他のアジア諸国だけでなく、まさに Sancta Mariaの名でヨーロッパにも輸出されていたことです。当時、中国や日本の陶磁器がヨーロッパでいかに歓迎されていたかは、よく知られていますね。

芳崖と天心

 ここで話は複雑になってきます。冒頭で、狩野芳崖の悲母観音図はキリスト教の影響も受けていたと書きましたが、狩野派の御用絵師の家に生まれた芳崖は晩年になって、東洋美術を高く評価していたお雇い教師のアーネスト・フェノロサ(1853-1908)、およびその学生としてフェノロサの美術調査を手助けし、美術史家となった岡倉天心(1863-1913)と知り合い、西洋の画風を初めとする多くのことを学び、西洋絵具も入手します。

 かくて晩年の芳崖は、江戸期の女性的な観音図を踏まえつつ新たな意匠の観音図を連作するようになりました。その観音図の代表が亡くなる直前まで取り組んでいた「悲母観音」です。芳崖は天心にこの作品の主題について語った際、観音は理想の母であり、子に対する母の慈愛の思い出をこめたと語った由。

 そのため、芳崖のこの作品はそうした視点で解釈され、和洋折衷の典型とみなされてきたのですが、天心が伝える芳崖の言葉は、幼い頃に母を亡くし母を思慕していた天心なりの受け止め方であった可能性が指摘されています。また、フェノロサとともに法隆寺夢殿を調査し、秘仏とされてきた救世観音菩薩像を拝して感動した天心は、晩年には観音信仰を強め、信太の森伝説に基づき、母の慈愛と観音信仰をモチーフとした英文の戯曲台本、『The White Fox(白狐)』を書き上げるに至っています。

 しかも、天心は駐米公使であった九鬼隆一の妻、波津子(初子)が妊娠中に身心不調となって帰国した際、世話役として同行するうちに恋仲となり、その波津子を芳崖に引き合わせているのです。そのためか、「悲母観音」の多くの下絵の中には、女性的でお腹の大きな観音の絵が含まれています。

 この下絵に基づいて描いたならば、観音の受胎告知とでもいった絵ができあがったことでしょう。「悲母観音」が波津子をモデルにしているかどうかは分かりませんが、西洋画法を取り入れ、一般的な菩薩の慈悲より「母」の慈愛という面を強く意識して描かれていることは確かです。

 ただ、「母」は妻でもあります。芳崖の弟子だった岡不崩によれば、芳崖は不崩に向かって、「子供は母によって、夫は妻によって左右される。女子はちょうど観音様のようなものだ。お前も観音様(妻)をもらう際は、よく考えないといけない。女子は、外面如菩薩、内心如夜叉というくらいで、やさしい顔をしていても恐ろしい者がいる。わしは幸せにも、観音様(妻)がよくしてくれたと」と亡き夫人をなつかしんでいたそうです。

 これは、不崩が若くて結婚する時期だったための訓戒でしょうが、天心が述べている慈愛に富んだ母への追慕を観音図にこめたというのとは、微妙に違っています。そのうえ、芳崖は「外面如菩薩、内心如夜叉」という成句を用いており、意図しないものの、夜叉の美しい娘であった鬼子母神とのつながりが見られます。一枚の絵には、なかなか複雑な背景があるのです。