――そうした状況の背景には、アカデミズムと一般社会の分断があるんじゃないかと私は考えていて、実はこのサイトをはじめたのもそれを何とかしたいと思ったからなんです。私はもともと広告会社のコピーライターだったんですけど、そこでたまたま大学の広告に携わることになり、その縁で研究者のお話を聞くようになりました。それがなければおそらく私自身も、専門知と関わる機会はほとんどなかったと思います。なので、いまの社会の反知性化には、研究者と一般市民の距離が離れすぎているのが要因の一つなんじゃないかと思っています。

 それはすごく大きいと思います。東日本大震災のときの原発事故もそうだし、コロナの問題もそうですけど、いまって何が真実なのかもうわからないですよね。その中でアカデミズムは真実というか事実を何とか見極めようとするけど、突き詰めると結局わからないんですよ。本当のところは、学者でさえわからない。社会全体がこうした状況になってきている中で、専門知とどう向き合うのかというのは喫緊の課題だと思います。

 とりわけ社会学や政治学といった学問は、物理学のように明確に実証できるわけではないので、どっちみちわからないじゃないかと、学者や学問そのものへの反発が強くなっている面があります。その一方で、世の中にある情報はあまりにも膨大だから、何らかの形で縮減しないことには使えない。それでさっきも言ったように、みんなが自分の都合のいいように縮減して理解する、といったことが起きる。

――私が研究者の方とお会いしていつも感じるのは、知識の量はもちろんなんですけど、わからないものと向き合う態度というか、その真摯さなんですよね。知性って、個人的にはその姿勢のことだと思っていて、多分それが社会全体で共有されていないと思うんです。

 おっしゃる通りかもしれませんね。本や論文を書くときには「何々だと考えられる」とか「思われる」といった表現をたくさん使うのですが、それに対して攻撃してくる人がいるんですよ。要するに、それはお前が確証を持っていないからそういう表現になるんだ。自信のないことを書くな、と。でも、ほとんどの物事はそうなんです。本当にそうかどうかなんて言えないんですよ。だからわれわれは慎重に、わかることとわからないことを区分けして、わからないことに対してはちゃんとわからないと言う。ただ、それには一種の訓練が必要なんですね。わからないことに対してふつうは、何らかの見方や見立てによってわかるようにしてしまう。

――陰謀論なんかはその典型ですよね。

 すこし話がずれるかもしれませんが、ウォルター・リップマン(1889-1974)というアメリカのジャーナリストが「疑似環境」ということを言っています。私たちが生きているこの世界はあまりにも広大なので、直接ぜんぶを知ることはとてもできない。だから疑似環境が必要で、マスメディアはそれを提供するんだと。要するにテレビや新聞が、いまアメリカで何か起きているか、中国で何が起きているかといった、われわれが直接は経験できないけど知っておくべきことをパッケージにして提供する。私たちはその疑似環境に即して判断し、現実の環境に働き掛けるんだと。

 これまではそうやって、マスメディアが情報を縮減してきたわけです。この世界の複雑さを。でもいまはその縮減の仕方がいっぱいあって、たとえばGoogleはランキングによって縮減するし、SNSであれば友達やフォローしている芸能人の視点で縮減する。こうしたいろんな縮減方式が出てきたことで、マスメディア的な縮減への異議申し立てが起きた。お前らは自分たちの都合のいいように「真実」を捏造しているだけだと。そして、まとめサイトの「スレ主」やYouTuberのように、自分たちなりに縮減する人がいっぱい出てきたわけです。

――みんなが自分なりの「わかり方」をするようになったと。

 ただ、よくわからないことに対して、自分に都合のいいわかり方をするのは、当たり前のことでもあるんですよね。その度に立ち止まって考えていたら生きていけない。誰もがなんらかの縮減方式を使わざるを得ないんですけど、縮減することとじっくり考えることのバランスがここ何十年かで狂ってきているように感じます。

――私自身も含めてですけど、「わからない」という状態に耐えられなくなってきていると思うんです。いまってそれこそネットで何でもわかっちゃうじゃないですか。卑近な例で言うと、あの映画に出てたヒロインの名前ってなんだっけ、となったら、「映画名 ヒロイン」であっという間に検索できる。「わからない」がすぐに解消できるようになったことで、もやもやしたまま考え続けるということ自体ができなくなっているのではないでしょうか。

 それは重要なご指摘ですね。とりあえず何でもわかるようになる方法が発展してきた結果、たしかに、本当にわからないという状態で宙ぶらりんにされるといった経験がなくなってきているのかもしれません。

 Twitterなんかを見てるとはっきりしたこと、それこそ「わかる=分ける」ことを言わないとウケない。みんなはその「切り分け方」を見ているので、悪者をはっきりさせて断罪し、リツイートやいいねの「拍手喝采」を浴びる。そういうのが主流になっているので、「こうかもしれないけど、ああかもしれない」みたいなことをやっていたら誰もつき合ってはくれない。

――本当はそれこそが重要なのに……。

 ただ、ちょっと反動が来るのかなという気はするんですよね、あまりにもひどくなっちゃったので。

(取材日:2021年3月11日)