さて、カントのお話でした。『純粋理性批判』によくでてくる「理性」という語が、どうしてもごくりと飲みこめない(「腑に落ちない」とでもいえるかもしれません)という話でした。「理性」が、自分の言葉にならないのです。どうも、わたしは、他の人と比べて、言葉や概念に対して「人見知り」のところがあります。誰でも、すぐ使える言葉が使えなかったり(ずいぶん古い例で申し訳ないのですが、「パソコン」や「スマホ」といった言葉もなかなか使えませんでした)、新しい概念(「ポスト~~」とか「思弁的実在論」とか)などもどうしてもうまく理解できないところがあります。理解できていたとしても、恥ずかしくて使えないのかもしれませんが。ようするに、なかなか「新しい存在」(概念でも言葉でも人間でも)に馴染めないのです。

 頭がよく、飲みこみの早い人であれば、「理性」といった程度の言葉であれば、つっかえることなくすぐに使いこなせるでしょう。でも、私は、言葉や概念と仲良くなるのに時間がかかるのです。長くつきあわないと、どうもその相手を、うまく理解できません。ぎゃくの言い方をすると、充分理解し、自分のもの(その対象のあらゆる側面がおおよそわかる)にしないと、概念や言葉を他人前で(顔色を変えずに?)使えないのです。困ったものです。本当のことをいうと、未だに「理性」という言葉とは、仲良くなっていないのかもしれません。向こう(理性)もそう思っているかもしれませんが・・・。

 さて、「理性」という語のもともとの意味を考えてみましょう。「理性」は、ドイツ語ではVernunft(フェアヌンフト)です。手許にある独和辞典(『独和大辞典』第二版、小学館、2000年)を引くと、Vernunftの項には、「理性、理知;(健全・正常な)思考<判断>力、分別、思慮;(道理をわきまえた)常識」といった語が並んでいます。実際の用法としては、「思慮分別がない」(keine Vernunft haben)、「それは非常識きわまることだ」(Das ist gegen alle Vernunft.)、「分別を取り戻す、正気に立ち返る」(zur Vernunft kommen)などが列挙してあります。

 つまり、Vernunftという語は、ドイツ語では、この語だけで「理性」も「分別」も「思考力」も「思慮」も「常識」も「正気」も意味するということなのです。「思慮分別がない」や「正気に立ち返る」といった日ごろから使う文にも登場するわけですから、ドイツ語ネイティヴにとっては、ごく普通の誰でも使う言葉なのです。

 そう考えると、日本語の「理性」とくらべれば、そのちがいは明らかでしょう。日本語の世界では、「理性」という語は、取り澄ました顔をして、苦労の多い日々の生活を上から睥睨(へいげい)しています。下々の(?)暮しには、一切かかわりをもちません。下界にわざわざ降りてきて「分別」や「常識」といった普段使う語と同じ意味で使われるときでさえ、何か偉そうですし、「分別」や「常識」といった語のように、私たちの暮らしのなかに自然にすうっと入ってくることは、まずありません。

 「何でこんなことするの!本当にもう常識がないんだから!」と怒られるとき、「何でこんなことするの!本当にもう理性がないんだから!」と言われたら、ギョットするでしょう。「人間失格」の烙印を額にぺたんと貼られたような気になります。でも、ドイツ語では、そういうとき、自然に「理性」Vernunftという語を使っているのです、何の違和感もなく。

 これでは、「理性」という語が頻出する『純粋理性批判』を、われわれ日本語を母語とする人間が、ドイツ語で(あるいは、日本語で)いくら読んでも、とうてい理解するのは難しいのではないでしょうか。それに、「理性」だけではありません。「悟性」Verstandという語もよくでてきます。この「悟性」もよくわからない単語で、「理性」よりも、私たちにはなじみがないかもしれません。ただ、「悟性」の場合は、「知性」と訳したりもしますし、英語の訳であればunderstandingなので、そう言いかえれば、ぐっとこちらに近づいてきます。でも「悟性」のままだと、私にとっては、どこか遠くの島にぽつんといる会ったこともない言葉になってしまいます。


ドイツ語ネイティヴと『純粋理性批判』

 こういった言葉で書かれている『純粋理性批判』を読むのは、大変骨の折れることなのです。でも、これは日本語を母語とするからだけではなさそうです。このエピソードは、ひじょうに衝撃を受けましたので、何度も書いたり話したりしているのですが、ホワイトヘッドの研究のために、カリフォルニアに行ったときの話です。そのとき知り合ったウィーン大学をでたオーストリア人のホワイトヘッド研究者が、西田幾多郎の話がでたおり「西田の本は、日本語で読んだのか?」と私に不思議な質問をしてきました。「そりゃ、そうでしょう」と答えると、彼は「自分は、カントの『純粋理性批判』は、英訳で読んだんだよ」というのです。とても驚きました。つまり、ドイツ語が母語の人間(しかも、哲学研究者)にとっても、『純粋理性批判』をドイツ語で解読するのは、とても困難なのだというわけです。

 たしかにカントの生没年(1724年-1804年)は、江戸時代の本居宣長(1730年‐1801年)とほぼ重なっています。ドイツ語と日本語の通時的変化のちがいを考えなければ、ドイツ語を母語とする者がカントを読むのは、われわれが宣長を読む感覚と似ている部分もあるのかも知れません。現代文を読むのとは、ずいぶん異なった感覚が必要なのでしょう。でも、それにしても、『純粋理性批判』をオーストリア人の哲学研究者が、英訳で読んだというのは、かなりショックでした。正宗白鳥が、『源氏物語』を英訳で読んで感動したというのよりもはるかに驚きました。

 それに、これは木田先生の本のなかで紹介されていたのですが(『反哲学入門』)、オイゲン・ヘリゲルという『弓と禅』という名著を書いたドイツの哲学者は、『純粋理性批判』を72回読んだけれども、よくわからないから、いま73回目を読んでいる、といっていたということですし、20世紀屈指の思想家ルドルフ・シュタイナーも、高校のとき、レクラム版(岩波文庫が手本にした文庫)の『純粋理性批判』をばらばらにして授業時に内職をして20回以上読んだと自伝に書いています。ドイツ人やオーストリア人にとっても、この本が、何度読んでも尽きないとてつもなく難解な古典であることはたしかなようです。


哲学者の「骨」

 そうはいっても大学院生の私は、カントは、どうしても読まなければなりません。プラトンやデカルトと並んで「The西洋哲学」といってもいいくらいの人なのですから。あの人を避けて通ることは許されないのです。だから私も毎日地道に、ドイツ語の辞書を引きながら『純粋理性批判』を読み、毎週読書会に勤勉に出席しつづけました。

 使っている用語や大げさな問題設定に違和感をいだきながらも読み進めていくと、やはりカントの“やり方”のようなものが、ぼんやりとではあれ、わかってきます。なるほど、この人は、こういう問題を、こんなやり方で解いていくのか、といったことがわかってくるのです。どんな人とでも、長くつきあっていると、好き嫌いは別にして、その人のちょっとした癖や考え方がわかり、すごく納得したり、しょうがないなぁと諦めたりするのと似ているかもしれません。

 西田幾多郎が、読書について書いたとても面白い文章があります。そのなかで、「骨」(こつ)という興味ぶかいことをいいます。西田によれば、すぐれた思想家であれば、その人なりの「骨」(「骨髄」ともいっています)をもっているというのです。それは、アリストテレスならアリストテレスに特有の「ものの見方考え方」であり、「刀の使い方」だというのです。西田は、その「骨」さえつかめば、それ以上細かくその人の全集を読む必要はない、だから、自分は全集なるものはもってはいないとまでいいます。

 この「骨」というのは、本当によくわかります。一人の哲学者の顔(文章)を毎日じっくり眺めつづけていると、その人の「骨」が、こちら側に知らないうちに入ってくる感覚でしょうか。その哲学者なりのものの見方を自然と体得してしまうのです。読書については、小林秀雄も書いていて、こちらは、一人の作家や思想家の全集を全部読むことを推奨していますので、これはこれで、また面白いのですが、それはまた、べつの機会に。

 こういう感じで、カントとつきあっているうちに、カントの「骨」のようなものが、ほんの少し(薄い感じで?)私にもわかるようになりました。こんな情報要らないかもしれませんが、私は、カントの「骨」は、わりと好きかも知れません。さて、こうして『純粋理性批判』を読書会で読了して、つぎにヘーゲルの『精神現象学』を読もうということになりました。そこで改めて驚いたのが、『純粋理性批判』のとんでもない難しさです。

 たしかに、カントを読んでいるときには、その難解さにうんざりするくらい辟易していたので(何といっても、ドイツ語が母語の人も嫌がるくらいですから)、『純粋理性批判』が難しいというのは嫌というほどわかっていたはずです。ところが、ヘーゲルを読みはじめると、「あれ、この前まで読んでいたのはドイツ語だったのは覚えているけど、今読んでいるのは日本語だっけ?」と勘違いするくらいとてつもなく易しく感じたのです。これはもう本当にびっくりしました。いまでも、その時のことは、まざまざと覚えています。ヘーゲルのドイツ語と比較することによって、カントの文章の難解さが改めて身に染みたということでしょうか。何の話だか、よくわからなくなりましたが、ようするにカントのドイツ語は、とんでもないという話です。


mindについて

 かるく話を変えましょう。ちなみに、ドイツ語ネイティヴのホワイトヘッド研究者が読んだ英訳では、「理性」(Vernunft)は、reasonと訳されています。これはこれで、まだ微妙に違った意味の拡がりをもった「理性」になります。「理由」や「根拠」「動機」といったニュアンスが、自然と入ってくるからです。Vernunftとも「理性」とも違った意味の拡がりをreasonは、英訳の『純粋理性批判』のなかでもってくることになるでしょう。こう考えると、どの言語で、どんな母語の人が、『純粋理性批判』を読んだかによって、ずいぶん違った印象を受けるのではないでしょうか。

 以上のようなことがわかってくると、外国語の本を日本語に訳すという作業は、とても恐ろしくてできません。トマス・ネーゲルとい人の書いたThe view from nowhere(『どこでもないところからの眺め』春秋社、2009年)という本を訳していたときに、英語・ドイツ語・日本語の三か国語がネイティヴだという先生と一緒に訳していました。そのとき、mindという単語があったので、何も考えずに「心」と私は日本語にしたのです。すると、その先生は、ちょっと困った顔をして、「いやmindは、「心」ではないですね。どちらかというと、「頭のはたらき」を指しています」といったのです。

 なるほど。たしかに英和辞典を見ると(『ジーニアス英和辞典』第4版、大修館書店、2006年)、mindは、「基本義」として「思考する場所」と書いてあります。最初の訳語として、「知力、知性、思考力、頭脳」、つぎに「心、精神」がでてきますが、この「心、精神」の前に( )つきで、「意識・思考・意思感情・判断の座としての」と補足されています。つまり、あくまでも「思考や意識がはたらく場」だということになるでしょう。こうして調べてみると、たしかに日本語の「心」という語義とは、はっきり異なる意味の拡がりをもっています。

 このようにして、ネーゲルのこの本にでてくるmindは、その先生といろいろ話し合って、「頭のなかで起こっていること」や「頭のなかの出来事」と訳しました。ちょっと語として長いかなとは思いましたが、正確さを重視しました。どうしても、既訳との関係で「心」と訳さざるを得ないところ以外は、mindの原義である「思考する場」という意味を優先したつもりです。翻訳というのは、かくも恐ろしい作業なので、その後、一度もやっていません。

 本当に気ままに書いてしまいました。こんな感じで、これからもいきます。(つづく)