38億年の歴史をもつ生きものたちの一つとしての人間が、「私たち生きものの中の私」を意識しながら、「他の生きものたちと連続しながら不連続」という特殊性を生かした暮らし方を探ることになりました。本連載では、科学技術社会である現代社会のもつ問題点を見直したいのですが、そのような社会はこの100年ほどのこと、長く見つもっても18世紀に起きた産業革命以後のことです。それ以前の農耕文明も1万年ほどですから、人類の歴史の中に置けば決して長くはありません。認知革命という人間独自の革命を起こした後も、人類は基本的に他の生きものたちとの連続性が大きい狩猟採集生活をしていたのです。

古代人と現代人

 ところで、他の生きものと共通性の高いとされる狩猟採集時代は、これまで人間としての能力を十分発揮していない価値のない時代と位置づけられてきました。しかし最近になって、考古学、人類学、脳科学、心理学などさまざまな分野の研究から、この時代を生きた人間は決して現代人より劣った生き方をしているとは言えないと考えられるようになりました。まずその身体能力や心のはたらきは基本的に私たちと同じであることが分かっています。環境への対応など、現代人より優れているところがあることも明らかにされています。生きものとしての基本構造は同じであり、身体や心のもつ能力は環境に応じて発揮されるものですから、複雑な自然の中で単純な道具を用いて暮らしている古代人の方が優れている部分があってもふしぎではありません。

 狩猟採集という人間社会の始まりを見ることで、私たちは本来どのような暮らし方を望み、どのような暮らしを幸せと感じるのだろうかということを考える出発点にしたいのですが、これは非常に難しいことです。というのも、5万年ほど前にアフリカを出たホモ・サピエンスはまず中東からユーラシア大陸の中で拡散を始め、更にはオーストラリアへ、その後には南北アメリカ大陸へと広がっていきました。日本列島にも3.8万年前には渡ってきていたことが分かっています。このような地球のあらゆる場所での暮らしが一様なはずはありません。狩猟採集社会の最終段階での人口は数百万人(500万〜800万)とされていますが、これらの人々は言語も文化も多様だったと考えられます。その土地の自然に合わせた暮らし方が生まれ、文化が育っていくのであり、生命誌ではこの基本を忘れないことを第一とします。

 「グローバル社会」の本性

 現在はグローバル社会と言われ、世界中の人が地域や国のレベルを越えて、お互いに影響を与え合う社会であるとされます。本来祖先を一つとする仲間なのですから、全体がつながる社会になるのは好ましいことです。けれども交通手段が発達し、情報化社会になる中、資本主義の下での経済の競争が起き、その勝者が「グローバル企業」となって世界を席捲しているのが実情です。ここにあるのは単一の価値観であることに注意が必要です。多様な自然の中で生まれた多様な文化をもつ集団が相互に交流し合い、多様性を尊重しながらつながりを作っていくのが地球、つまりグローブで生きる生きものとしての生き方であることを忘れてはなりません。

 20222月にロシアのウクライナ侵攻があって以来、実は世界は地球に生きるという意味でのグローバルにはなっていなかったことが顕在化しました。分断は明らかで、軍拡競争が起きているのは、多様も尊重もつながりもないグローバル社会の化けの皮がはがれたということでしょう。

自然の一部として生きる

 狩猟採集時代は、自分の置かれた自然の中で生きものとして生きていましたが、外との関わりは身近なところにいる集団との間にしか持てませんでした。今は生きものであることを意識しながらも、科学技術の力で遠くへ出かけたり、地球の反対側にいる人とも情報交換したりできるわけです。これまでに見てきた「私たち生きものの中の私」という意識を「地球の中の私たち」という形にすることができるのであり、そのような生き方が求められていると言えます。ただ、どれだけの広がりを持とうとも、自分が生きものであり自然の一部であるという狩猟採集生活時代と基本は変わらないという意識を持つことが大事です。

 もう一つ考えておきたいことがあります。現代社会が自然を環境として客観視し、人間と分離し、従って社会とも分離しているということです。そのような捉え方をしているので、今起きている森林破壊や海洋汚染などを「環境問題」という客観的事実として捉え、分析データを重視して、その解決は科学技術に委ねることとしてきました。もちろん科学的視点をもち、現象を分析してデータをとり、それを問題解決につなげることは必要です。けれどもそれだけで、現在起きている異常気象などの解決は無理でしょう。最も重要なのは私たち人間の生き方であり、考え方です。自然の一部として暮らし、社会をつくっていくという意識がまずあって、そこで科学をどのように生かすかということです。

風土

 ここで、このような認識をもつ生き方、つまり狩猟採集時代に近い生き方について考えますと、日本には「風土」という概念があることに思い到ります。この言葉を生み出したのは和辻哲郎であり、『風土 ──人間学的考察』(1935年)という書物でそれを世に問いました。風土を辞書で引くと、「その土地固有の気候・地味など自然条件」に続いて「土地柄」とあります。和辻が『風土』という書物で示したかったのは、「人間存在の構造契機としての風土性を明らかにすること」と言っています。つまり辞書にある自然条件を客観的な自然環境と捉えてそれと人間との関係を考えるのではなく、そこにある自然を主体的な人間存在の表現として捉えると言っているのです。周囲にある自然を「人間がどう生きるか」ということに関連してどう捉えるかということなのです。

 ここで最も考えやすい具体例として家の建て方を考えますと、思い出すのが『徒然草』です。「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き日わろき住居は、耐へ難き事なり」という文言は、よく知られています。日本の夏は高温でもあるけれど、最も辛いのは湿度が高く蒸し蒸しすることです。そこで「深き水は涼しげなし。浅くて流れたるはるかに涼し」「用なき所を作りたる、見るも面白く、万の用にも立ちてよしとぞ、人の定め合い侍りし」という文が続きます。ピッシリと閉じた空間ではなく、すき間が感じられます。今の建築はどうでしょう。窓の開かない高層ビルを建てて、エネルギーを使って人工的空調をしています。

 もちろん入母屋造りの和風建築を建てましょうとは言いませんが、近代建築でも風の道を考えることはできるはずです。因みに我が家は特別な造りではありませんが、幸い四方にある窓を生かすと風の道がつくれますので、空調機は来客時以外使ったことがありません。今年は6月末の天気予報に、「明日は体温を越える危険な暑さになります」という言葉が出ています。風にお願いできることを願っていますがどうでしょう。これはまさに日本文化の特徴につながる話ですが、ここではそこまでは広げません。でも日本文化は本連載の通奏低音として常に流れていきますので、これからも折に触れて考えることになります。

 狩猟採集生活をしていた祖先は文字を持っていませんので、彼らの生活記録はありませんし、和辻のように体系立てて考えてはいなかったでしょう。でも、彼らの生き方は周囲の自然をよく知り、その特性を生かし、それに合わせて暮らしていたに違いありません。私たち日本人は、客観的な環境を考えて人間・社会と分離する現代科学技術社会の流れとは異なる「風土」という考え方を抵抗なく取り入れられる利点を持っています。これを生かしていきたいと思います。

 和辻は著書の中で「人間の第一の規定は個人にして社会であること、すなわち『間柄』における人であることである。従ってその特殊な存在の仕方はまずこの間柄、従って共同体の作り方に現れてくる」と言っています。お気づきでしょうか。これは本連載で、人間を「私たちの中の私」としていることと重なります。

環世界

 生命誌としては、「風土」から二つの展開をします。一つは、和辻自身が言及していることです。「自分が風土性の問題を考え始めたのは、1927年の初夏、ベルリンにおいてハイデッガーが『有と時間』(私が知っているのは『存在と時間』(岩波文庫))を読んだ時である。人の存在の構造を時間性として把握する試みは、自分にとって非常に興味深いものであった」とあります。そこで、人の存在を時間性と同じように空間性としても把握しなければいけないというところから、「風土」という考え方が浮かんできたというのです。空間と時間の中で考えることの大切さは、生命誌としてこれまで何度も指摘してきました。

 もう一つは、和辻は考えていなかったでしょうが、生命誌の立場から『風土』を読むと、生きものという存在と環境との関係として、動物学者J・ユクスキュルが提唱した「環世界」とのつながりが見えるのです。「環世界」とは、単なる周囲の事物としての環境ではなく、それぞれの種の動物が主体的に意味を与えている世界をさします。

 私の部屋を考えましょう。書棚には私にとって大事な本が並び、机の上にはこれまで書いた文や友人たちとのメールが入ったコンピュータがあります。その隣には紅茶の入ったマグカップと休憩時のためのケーキを置きました。この部屋にもしハエが入ってきたとしても、意味があるのはケーキくらいであり、魅力的な場とは言えません。お魚屋さんの店先の方がはるかにすばらしいところです。ハエにとっての環世界とヒトにとっての環世界は違うのです。ユクスキュルは、「動物の世界を判断する際に人間世界の尺度を導入すると、その度に過ちを犯すことになるだろう」と、人間中心で動いている現状に警告しています。相手の立場になって考え、行動することは、人間同士だけでなく他の生きものまで含めて大事なことなのです。

人間を高める認識とは

 ところで、生きものは自分の都合に合わせて新しい器官をつくるなどして環世界を変えることは容易にはできません。道具を用いることで環世界を深め、広げることができる唯一の生きものが人間です。ここでユクスキュルは、「われわれ人間の環世界を百万光年ものかなたまで広げることが人間を高めるのではない」と戒めます。そして、人間も他の生きものも含めての環世界はそのすべてを包括する全体につつまれているのだという認識が人間を高めると言い切ります。自分たちだけの拡大を求めるのではなく、あらゆる生きものたち全体の中に自分がいることを忘れず、それを踏まえた生き方をすることこそ人間を高めるのだという考え方は、まさに本連載で考えようとしていることです。

 実は「風景という知」を提唱しているフランスの文化地理学者O・ベルクさんが、「風土」と「環世界」を関連づけて考えています。風景を客観的対象として理解する知に注目することで、風景そのものの中にある知を忘れていることを指摘する興味深い考え方であり、二元論を超える点で生命誌との重なりを感じています。「私たち生きもの」というところから出発して進めてきた考え方は、日本人に限定されるものではなく、自然・生命・人間を素直に見るところから生まれるものと言ってよいでしょう。

 「環世界」は更に「アフォーダンス」という考え方の重要性を浮かび上がらせます。アフォードは与えるという意味ですから、環境はそれぞれの動物に価値や意味を与えていると捉えることを指します。人間以外の動物の場合、意味の読み解き方は生来与えられています。牧草は牛にとっては食べられるもの以外の何物でもありません。けれども人間の場合、特に現代社会では、これを利用して牧場を始めるか刈ってしまって土地を他に使うかなど様々な対応があるでしょう。どのような価値観で行動するかが決め手になります。

 狩猟採集という、他の生きものとの連続性の高い生活から現代人、どくに21世紀を生きる者として何が学びとれるかということを考えようとしているのですが、今回はそこへの入口であれこれ考えるところで終わりました。自然を環境として客観視して人間と分離し、従って社会とも分離してはならないこと、拡大ではなく自然全体の中に自分を置くことが人間を高めるのであることという大事な視点が浮かび上がってきたことを確認して次に続けます。